第2話 嬉しい約束
黒いTシャツにベージュのオーバーオールを合わせた。野球帽に伸ばした手は途中で引っ込めてブラウンのチューリップハットを被る。
「うん、可愛い」
ギリギリで男子にも見える、と思う。リュックは部屋の隅でお留守番。財布は胸にあるポケットに入れた。
うきうきした気分で自分の部屋を抜け出す。物音一つしない。廊下の隅を歩いて玄関に向かう。
ドアの開く音がした。
ほぼ同時にわたしは動きを止めた。意識した笑みで後ろを振り返るとお兄ちゃんが立っていた。パジャマではなくて赤いランニングシャツにジーパン姿だった。
じっと見ているとお兄ちゃんは目を逸らした。ツーブロックの髪を手で撫で付けると前の方を指さした。
頷いたわたしは玄関に急ぐ。お兄ちゃんは後から付いてきた。並んで靴を履いて一緒に外に出た。
家の前の道で改めて向き合う。
「お兄ちゃんも夜の大冒険に出掛けるんだね」
「違う」
一言で歩き出す。わたしは横に並んだ。歩幅が違うせいで軽いジョギングになった。
「お兄ちゃん、また身長が伸びた? 髪型のせいなのかな」
「百八十四になった」
「四センチも伸びたんだ。やっぱり背が高いと世界が違って見えるのかな。わたしは百五十二だからすごく気になる」
お兄ちゃんは足を緩めた。こちらに顔を傾けて切れ長の目を更に細くした。わたしはオーバーオールの太腿の生地を摘まんでパンツルックを強調する。
「……肩車はしない」
「えー、期待したのにぃ。誰もいないし、恥ずかしくないでしょ。わたしなら全然、平気だよ」
「……俺が恥ずかしい」
髪に手を当てて足を速める。わたしは小走りで横に付いた。
「今更なんだけど、どこに行くの?」
「コンビニ」
「お兄ちゃん、甘い物は苦手だよね。お菓子の線はないからカップ麺かな。近所のコンビニにはイートインコーナーがないから家で食べることになるんだけど、手作りにこだわるお母さんに見つかるとマズイんじゃないの」
「目覚ましの単一電池」
前を向いたまま、ぽつりと口にした。思い出した瞬間、頭の中でジリリリンと甲高い音が鳴り響く。
「あれねー。すごい音だから、わたしの部屋まで聞こえるんだよねぇ。スマホの目覚ましにする気はない?」
「無理、起きれない」
「それならわたしが起こして、あげられないんだよね」
「俺より寝るし」
お兄ちゃんの目が優しくなる。笑っているのかもしれない。
二車線の道路に出た。お兄ちゃんは迷わなかった。煙草の箱のような店舗に向かう。わたしは胸のポケットに手を当てた。
今日は財布があるからお客さんになれる。
暗い店舗を通り過ぎて光り輝くコンビニに到着した。前に見た時と同じで駐車スペースに車はなかった。隅の方に一台のママチャリが置いてある。
お兄ちゃんが入る前に中年男性が店から出てきた。膨らんだビニール袋を提げていてカップ麺の一部が覗いていた。目にした途端、いつか食べたカレー味が口の中に広がる。
買う物が決まった。
お兄ちゃんの後ろに付いて店舗に足を踏み入れた。雑誌コーナーを風のように通り過ぎる。飲み物には見向きもしない。正面に見える奥の棚に突っ込んだ。
数々のカップ麺に両側から押されてとても肩身が狭い。そんなほっそりした一個を手に取った。英語の名前が湯気のように揺らいでいる。単数形なのが少し気になった。麺は複数だからヌードルの後ろには『s』を付けた方がいいと思う。意見を求めようと周りを見て気付いた。
「あれ、お兄ちゃん?」
速足で店舗を巡るとレジにいた。会計が始まる前に単一電池の横にカップ麺を置いた。
お兄ちゃんは目で問い掛ける。わたしは飛び切りのスマイルを返した。
「ご一緒でよろしいでしょうか」
レジの男性がお兄ちゃんに向かって言った。
「……はい」
わたしは先に外に出た。明るい店舗に背中を向ける。視線を上にやると綻びのような星が見えた。
「
「えー、わたしのスマイルはゼロ円なの?」
振り返ったわたしに手を突き出す。掌が催促するように上下に動いた。金運線はかなり短い。
「なーんてね。ちゃんと財布は持ってるよ。だから心配しないで」
胸のポケットから財布を取り出し、中を広げた。白っぽい硬貨は一円だった。銀色は五十円。百円と五百円は不在で十円玉を数える。下の方には折り畳まれた千円札があった。
「お兄ちゃん、あの、百十七円なんだけど」
「足りない」
「千円札はあるんだけど、お釣りはある?」
「……帰るぞ」
「大冒険は始まったばかりだよ」
「家でも冒険できるだろ。カップ麺で」
「えー、はい、そうですね」
睨まれたわたしは大人しく家に引き返した。
*****
部屋に戻った。パジャマに着替えたところでドアが控え目にノックされた。
開けるとお兄ちゃんが立っていた。目を横に向けたまま、髪を撫で付ける。
「どうしたの?」
「単二の電池、あるか」
「どうだろう。なんで?」
見つめているとお兄ちゃんの唇の端が吊り上がる。
「……単一じゃなかった」
「あ、そういうことね。ちょっと待ってて」
机に直行して引き出しを開けた。ノートや文房具に混ざって細長い電池を見つけた。不要な単三を隅に押しやり、奥まで探す。
「ないかぁ」
視線は下の大きい引き出しに向かう。
「懐中電灯はあるけど……そうだ!」
急いで開けた。中にあった懐中電灯の中から電池を取り出した。握り締めて笑顔で戻る。
「お兄ちゃん、単二の電池があったよ」
「懐中電灯はいいのか」
「予備があるから大丈夫だよ」
「そうか、悪いな」
軽く頭を下げてお兄ちゃんは自分の部屋に戻ろうとした。横を向いた状態で突然に止まる。迷っているような表情ではにかむ。
「今度、肩車をしてやるよ」
早口で自らドアを閉めた。
「……お兄ちゃん」
笑みが抑えられない。握った拳を無言で天井に突き上げた。
少し寝るのがもったいない。そんな気分で部屋の明かりを消して布団に潜り込む。目を閉じると瞼がピクピクする。内側から誰かがノックしているみたい。くすぐったいような感じもして思い切って瞼を開けた。
「なんか、素敵かも……」
部屋に夜が来てわたしを優しく包んでくれる。
これからもよろしくね。
夜に見守られて、わたしは眠りについた。
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