夜散歩

黒羽カラス

第1話 夜の大冒険

 明かりを消した部屋のベッドで、わたしは仰向けになっていた。身体を覆う掛け布団はもしもの時の保険。瞼は開けたままで耳に意識を傾ける。少し前に二つ上のお兄ちゃんがトイレに起きたみたいだけど、他には何の音も聞こえてこない。


 冒険に出るなら今しかない。


 用意はちゃんと出来ている。ガバッと起きて壁のスイッチを押した。部屋が本当の色を取り戻した。モスグリーンのリュックはベッドの側ですっくと立っている。じっと見ているとしなびた感じが少し頼りない。冒険に必要な物は入れたはずなのに不安が胸にじわじわと広がった。


 もう一度、見てみよう。


 外に出れば遠くに山が見える。でも、暗くて歩けないような田舎ではない。細い道だと街灯が少ないから転ぶこともあるかもしれない。そこで活躍するのがLEDライトの懐中電灯。単三電池が二本とは思えない明るさで周囲を照らしてくれる。あ、虫よけスプレーは出かける前に使わないと。

 掌に吹き付けて顔や首によく塗り込む。今日はスカートではなくて、七分丈のズボンだからすねにも擦り付ける。

 あとはタオルにペットボトルのお茶。スマホは万能グッズとして持っていく。


 さあ、冒険に出発だ。


「そうだった」

 洋服ダンスを開けた。奥の方に突っ込まれていた野球帽を取り出して目深に被る。これで十四才の女子には見えないはず。なんだけど、実際はどうなんだろう。口に出して誇れる話ではないけれど、平らな胸には自信がある。スポーツブラは押え付けるものがほとんどなくて役に立っていない。断言すると、なんか、悲しくなってきた。

 沈みそうになる頭をフンと勇ましい鼻息一つで持ち上げる。Tシャツの上にパーカーを羽織ってリュックを背負う。後ろに引っ張られるような感覚で背筋が伸びて、同時に気分が上向いた。

 最後の確認で部屋を見回す。机の上のパソコンに目が留まる。フリースクールの問題は解いて送信した。宿題は出ていない。


 メールはどうだろう。


 ふと浮かんだ考えは頭を振って否定した。考えたら切りがない。真横を向いたつばを正面に戻して部屋の明かりを消した。行動の開始だ。ゆっくりとドアを開ける。顔だけで左右を見て素早く廊下に出た。

 壁に背中を付けて横向きに歩く。築四十年の家らしく、真ん中はトラップになっていて踏むと軋む。トイレを通過した。L字型の廊下を抜けると玄関はすぐそこ。壁を離れて速足で突っ込む。

 運動靴に足を捻じ込んだ。扉には鍵が掛かっていた。震える指先で突起を摘まみ、金庫破りのイメージで回す。冷ややかな金属音は思ったよりも音が小さかった。

 扉を少し開く。出来た隙間に身体を入れて両手で閉めた。ズボンのポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込み、軽い息のあとに思い切って鍵を掛けた。意外と音が大きく、足がすくんだ。

「……大丈夫みたい」

 空で笑う三日月に向かって胸を張る。わたしは夜の冒険の一歩を踏み出した。


                *****


 家の前の道には誰もいなかった。正面の家の明かりは消えている。代わりに電信柱から生えたようなライトが周りをぼんやりと包み込む。

 道の真ん中には良いイメージがなかった。踏んでも音は出ないとわかっていても道の端を選んで歩く。自宅から二軒目で強い光を受けた。壁に取り付けられた筒状のライトが、わたしを照らす。


 舞台女優になったみたい。


 歩きながらクルリと回る。飛び跳ねて隣の家に行くと新たなスポットライトを全身に浴びた。鉢植えやプランターの花は小さなお客さん。取って置きの笑顔をあげる。拍手喝采とはいかないけれど、吹いた風で頷いてくれた。気分を良くしたわたしは軽やかに舞い踊る。背中のリュックがカチャカチャとリズミカルに鳴った。

 二車線の道路に突き当たる。ファミレスは閉まっていた。その隣の居酒屋も同じように明かりを消して暗い。枯れ木のような街灯だけが誰もいない歩道を照らしていた。

 手足を元気よく振って歩道をゆく。遠くの方に小さな明かりを見つけた。お父さんがこじんまりとした縁側で吸っている煙草の箱に似ていた。

 近づくとコンビニだった。駐車スペースはがらんとしていた。ガラス越しに見える雑誌コーナーで立ち読みをしている人の姿もなかった。あまりに人がいないので心配になる。レジを見るとお母さんくらいの人がいた。眼鏡の奥の目を指で擦りながら大きな欠伸をした。


 わたしがお客さんになろう。


 歩き掛けた足が止まる。パーカーのポケットに手を突っ込んだ。何も入っていない。ズボンを調べると自宅の鍵が出てきた。

「……財布がない」

 必要な物は全てリュックに入れている。そのせいで財布の存在をすっかり忘れていた。ごめん、と小声で謝って速足で離れた。野球帽の鍔を下げて前のめりで歩いた。

 明るい光が右目に入る。顔を上げると道路の向こう側に大きなコインランドリーがあった。驚きの白さで光り輝く。二台の車が停まっていたことにほっとする。

 ただ、夜の冒険にはふさわしくない。逆の方を何となく見ると鳥居が立っていた。赤い部分が剥げて長い時を感じさせる。

 奥を覗いてみる。石畳の道が闇に呑まれている。両側は黒い影を引き伸ばしたような木々に覆われていた。

 背中のリュックを下ろした。ペットボトルを取り出して少し飲んだ。落ち着いたところで懐中電灯で奥を照らす。丸い光の中心に石段が見えた。


 行ってみる?


 弱腰の自分にムッとして急いでリュックを背負い直す。懐中電灯を手にして鳥居を潜る。ひんやりとした空気に包まれて身体を縮めて歩く。深い山に迷い込んだ遭難者の気分になった。大きく息を吸うと湿ったキノコのような匂いがする。

 石段の前で止まった。懐中電灯で先を見ると、すっぱり切り取られたようになっていた。

「……行くよ?」

 いいよ、とは返って来ない。そんな反応をされたら泣いて逃げる。懐中電灯を少し下げて一歩を踏み出す。よく見ると苔が生えている。角ばったところの一部が欠けていて人の行き来があるように思えない。

「冒険だから」

 さっきよりはしっかりした声で石段を上がる。頭の中で数えていくと十五段。辿り着いた先におやしろがあった。百五十三センチのわたしの身長よりも低い。格子の扉の奥には丸い鏡のような物が置かれていた。周囲には米粒が散らばる。

 お社の周囲に他の道はなかった。懐中電灯を石段に向けて引き返す。


 え、音がした!?


 石段の途中で足を止めた。聞こえた方向はわかっていても光を向けることが出来ない。風のいたずらかもしれない。それ以外の考えには蓋をした。緩んで外れる前に残りの石段を下りた。

 覆い被さる木々を無視して石畳の道を俯いて戻る。鳥居の柱が目の端に見えて顔を上げた。

 コインランドリーの白い輝きに心が満たされる。


 帰って来れたんだ。


 涙ぐみながら鳥居を駆け抜けた。そのままの勢いで元の道を走って戻る。

 空で笑っていた三日月に負けない笑顔を返した。

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