第1章 決戦前夜

第1章 決戦前夜


第1節 1582年6月12日


夜、山城国勝竜寺城(京都府長岡京市)である。明智光秀は軍議のため大広間に諸将を集めていた。

偵察隊からの報告によると、羽柴秀吉は大坂まで到着したとのこと。明日にはここへ殺到して来るだろう。


光秀が動員できた兵は約12,000人だが、秀吉にはその倍以上の兵が集まっている。やはり、主君である織田信長の仇を討つという大義を掲げている秀吉の方が集まりやすいのだろう。

光秀と極めて親しい、細川藤孝と筒井順慶でさえも光秀への義理から羽柴軍に加わりこそしなかったが、かといって明智軍に加わるわけでもなく兵の数では圧倒的に不利となっている。


だが、明智軍は京を押さえている。京には帝(みかど)がおり、帝を手中にしているため官軍である。帝とは、もちろん現代の天皇陛下のことを指す。

ここで羽柴軍を食い止められれば、帝に勅命を出してもらい停戦する、和平を結ぶなどの選択肢が生まれる。秀吉も勅命には逆らえず、一時的な休戦もできるはずだ。なにせ本能寺で織田信長を討ってからまだ10日しか経っていないのだ。光秀にとって一番欲しいのは態勢を整えるための時間である。あの信長も、多くの敵に囲まれたときは、何度もこの手を使い不利な場面を乗り切ったのだ。

さらに、勝竜寺城南西にある山崎という場所は大軍を防ぐのに絶好の地形である。この地形を最大限に活用すれば兵の数で少ない不利を覆せる。

つまり、この時点で光秀は負けが確定していたわけではないのである。そもそも負けが決まっているなら12,000人もの兵が付いてくるはずがない。



第2節 山崎の地形


斎藤利三は、光秀からの命もあり、京からここに向かう道中ずっと光秀に付き添ったが、光秀は何か考えを巡らせているのか一言も発することはなかった。

常識的には、山崎の地形を生かし鉄壁の防御を固めることであろう。至って単純なはずである。何をそこまで考える必要があったのだろうか?

だが、いま軍議にいる光秀はそのときとは違うようだ。確信したような表情になっている。何か答えを導き出せたのだろうか?


「細川と筒井は今は来ぬが、羽柴軍に寝返ったわけではない。明日の戦に勝てば必ず我が軍に加わるであろう。既に必勝の策は巡らせた。戦は数ではない、我らは必ず勝つ。」

光秀は、用意した山崎周辺の地図を広げた。


山崎は今の京都府大山崎町であり、名神高速の大山崎ジャンクションの付近だと分かりやすいだろうか。

名神高速で吹田から京都方面へ走ると茨木、高槻を過ぎて大山崎ジャンクションの手前で山が迫りトンネル区間がある。東海道新幹線で新大阪から京都へ向かうと同様に山が迫る場所がある。

天王山という山だが、ここだけ山が迫り、淀川と山に挟まれた狭い道となっているが、これを隘路(あいろ)と言う。当時は淀川でなく桂川であったが、隘路であったことに変わりはない。隘路では、いかに大軍であっても隊列は細長くならざるを得ず、ここで戦うと隊列先頭の少人数しか戦えないために大軍の物量をまるで生かせない。

つまり、この隘路は中国地方から京へやって来る大軍を防ぐのにこれ以上ない地形なのである。

ここを戦場に選ぶのは当然のことだろう。


光秀は、隘路を京都方面に抜けて開けた場所にある円明寺川という小さな川沿いに明智軍を表す白い石を並べていった。

「布陣はこのようにしたい。左翼は津田信春(つだのぶはる)、中央は隘路正面に斎藤利三とその右に伊勢貞興(いせさだおき)と御牧兼顕(みまきかねあき)、右翼は並河易家(なみかわやすいえ)と松田政近(まつだまさちか)を置く。」

これを見た諸将は唖然とし、しばらく沈黙した。


布陣図を見て、なぜ諸将は唖然としたのだろうか?

山崎の地形を全く活用していないのである。

隘路を抜けて開けた場所に布陣し、隘路を塞ぎもせず、隘路を進む敵を攻めるのに最も効果的な天王山もどうぞ取ってくださいとでも言うかのようにがら空きである。これでは羽柴軍は何の抵抗もなく安心して隘路を通過してしまうだろう。



第3節 山崎の戦いの謎


山崎の戦いは、一般的に羽柴秀吉が最も有利な地形である天王山を押さえたことで明智光秀に勝利したと言われている。ここぞという重要場面を指す、「天王山」の語源になった程だ。

だが、この戦いは謎が二つある。

一つ目は、先に戦場に到着したはずの光秀がなぜ天王山を無視し、山崎の地形を生かさなかったのか?

二つ目は、明智軍より倍以上の兵数があり、かつ天王山を押さえて圧倒的有利なはずの羽柴軍がなぜ、明智軍とほぼ同じ3,000人近い犠牲者を出したのか?

である。

この疑問への答えは曖昧なままである。光秀の作戦は間違っていて、家臣達も勝てないと分かっていたが死に物狂いで戦った、この程度の答えで納得いくだろうか?

この時代の戦いは、勝つか負けるかで自分と自分の親族や家臣達の命が懸かっている。当然、全身全霊で臨んでいる。

明智家の存続を背負った光秀が、最初から勝負を捨てるなど有り得ないし、光秀の家臣達も勝ちの見えない作戦に黙って従うとも到底思えないのである。


むしろ、光秀は必勝の作戦を立て、家臣達もそれを信じ戦ったからこそ羽柴軍は多大な犠牲を強いられたのではないだろうか?

だが、その作戦は何らかの発生した齟齬により破綻した。

必勝の作戦とは、発生した齟齬とは、何だろうか?



第4節 官軍と賊軍


さて、物語を戻す。

当然ながら、軍議でも最初は全員が反対したと言っていい。

「殿、なぜこのような開けた場所で布陣するのでございますか?これでは山崎の地の利を全く生かしておりませぬ。敵は無事に隘路を通過し我が軍へ殺到しますぞ。むしろ天王山と隘路に重点的に兵を配置し万全の守りを固めるべきではありませぬか?」

まず異論を唱えたのは伊勢貞興である。周りの者も当然だと頷いている。蛇足だが、伊勢家は幕府では侍所執事という職を務めた名門一族で貞興は光秀の娘婿でもあったと言われている。下剋上の象徴として有名な北条早雲(ほうじょうそううん)も、元の名は伊勢盛時(いせもりとき)と言い、伊勢家の出身である。


光秀にとってその疑問は想定通りであった。

「貞興の申す通り、万全の守りを固めることは最良の策に見えるかもしれぬ。だが、考えてもらいたい。我らは京を留守にしてここにきている。守れば羽柴軍を食い止めることはできようが、長引けば京の者はどう見る?」

「京では、我々が不利との噂が立つと申されますか?」

「良いか、貞興。我らは京を、そして帝を押さえている。我らは信長様を討ったが、京を、帝を押さえている限り、我らは帝の軍、官軍であり、謀反人ではない。官軍がすべきことは、賊を攻め、賊を討つことである。不利と見えた官軍は、もはや官軍ではないぞ。」

貞興だけでなく、皆が沈黙した。光秀はまだ続ける。

「更に、守りを固めるということは、攻撃を捨て防戦一方になることを自ら選ぶということぞ。戦の主導権は攻撃する側にこそあって防戦する側にはない。主導権を持てぬ軍が官軍になれるか?

我らが主導権を失ったこと知れば、帝は我らが不利になったと考え羽柴軍に通じる可能性すらある。そうなれば、我らは賊軍ぞ。我らは明日、ここで羽柴軍を攻め、打ち破らねばならぬのだ。」

皆は沈黙したままである。山崎の地形を利用し、負けぬ戦いをすれば良いとの考えは、見事に打ち砕かれたのである。

大局的、俯瞰的に見れば負けなのだ。



第5節 官軍の戦い方


利三は、織田信長の戦いを思い出していた。信長は上洛してから死ぬまでの13年半、失敗も多かったものの、ずっと官軍であった。

それは、ずっと攻め続けたからである。どれだけ多くの敵に囲まれても守りに入り、受身になることはなかった。

多くの敵の中で最も弱い敵に果敢に攻め、各個撃破を狙った。そうして戦いの主導権を握り続けたのである。

そしてその13年半は、光秀が信長と共に戦った時期と重なる。

「やはり、光秀様は目の前の一戦だけでなく、大局を見ておられたか…」

利三は誰にも聞こえぬ小さな声でつぶやいた。


だが、数の少ない明智軍が、数の多い羽柴軍を攻めて打ち破ることなどできるのだろうか?

その困難さは尋常ではない。軍議の空気は暗く、重い沈黙が訪れていた。

その沈黙を破ったのは貞興である。

「殿。打ち破らねばならぬ理由は分かりました。しかし、このような開けた場所で戦っては我らが打ち破られてしまいまする。」

光秀は貞興を見つめ、そして地図に目を落とすと、落ち着いた声で答えた。

「貞興、地図をよく見よ。隘路を大軍が一気に通ることはできぬことは分かっていよう。先頭の羽柴軍前衛の隊列は細長い。当然、隘路を抜けたら隊列を横に広げねばならぬ…」

「む!隊列を整える最中に攻撃を仕掛けるのでござりますか!」

貞興の目が輝いた。布陣の狙いにようやく気付いたのであろう。

「そうじゃ。だが仕掛けが早すぎてはならぬぞ。前衛すべてが隘路を通り抜けてからじゃ。繰り返すが、前衛すべてが隘路を通り抜けるまで手を出してはならんぞ。隘路を抜けた先の人数が多ければ多い程混雑し混乱も増すからだ。

正面から利三が仕掛け、貞興と兼顕は敵の左側面を突き羽柴軍前衛を壊滅させよ。敵が退却しようにも後ろは隘路、逃げ道は狭い。容赦なく切り伏せ敵の士気を削ぐのだ。」

光秀の落ち着いた声には凄みがあり、発するごとに増していくようであった。

「ははっ!必ずや敵前衛を壊滅させてご覧にいれまする!」

貞興と兼顕は力強く応えた。


続いて右翼に配置された並河易家が声を上げる。

「殿、羽柴軍は大軍。隘路だけでなくこの天王山にも登って攻めてきましょう。さすれば貞興殿と兼顕殿が天王山を降りた兵から右側面を突かれることになります。右翼の我らはその備えにござりますか?」

「易家、その通りじゃ。敵は必ず天王山に主力を置くであろう。率いるのは羽柴秀長と黒田官兵衛あたりか。天王山の兵が降りてきたら易家と政近で左側面を突きこれを崩せ。天王山の兵をそちたちで釘付けにするのだ。易家、政近、我が軍の主力はそちたち丹波の兵ぞ。必ず敵主力を打ち破れ。」


さて、丹波人はここ数年で光秀に仕えたばかりの新参者である。これを外様(とざま)とも言う。当時、外様は最前線の最も損害が多い場所に配置されるのが常であり、このような最も戦果を上げられる重要な場所を任されるのは当時ではあまりないことであった。

当然ながら、易家、政近ともに感激に震えていた。

「我ら新参者にこれほど大事な場所を任せて頂けるとは。必ずや光秀様のご期待に答えてみせまする」

「わしは、昔から仕えた者と仕えたばかりの者で分け隔てはせぬ。丹波の兵が強いからこそ任せるのだ。易家、政近、頼んだぞ。」



第6節 浄土谷


光秀は念を入れるべく、溝尾茂朝に命令を下す。

「天王山を最初から空にしては敵も怪しむであろう。茂朝、今すぐ兵300を率い天王山を占拠せよ。桔梗の旗は3,000人分を持ち兵を多く見せるのだ。敵が迫ったら適当に戦い、逃げよ。我が軍の士気が低いと思わせておく。さすれば羽柴軍は絶好の機会だと先を争って隘路を通り、罠にはまるであろう。」

「はっ!」

命令を受けた溝尾茂朝が兵を率いて駆けていく。


話が進むにつれ諸将の士気は高まっているように見える。

光秀は一呼吸置いて更に続けた。

「この作戦の要は、敵には味方の右側面を攻めさせ、我らは敵の左側面を攻めることにある。こうして常に我々が有利に戦うことができるのだ。そしてこれが最後の策である。

利三、貞興と兼顕が敵前衛に痛手を加え、右翼が敵主力を釘付けにしたときを見計らい、我が本隊は天王山の北の浄土谷(じょうどだに)を通り羽柴軍本陣を突き、秀吉の首を取る。」

天王山の北側には浄土谷と言われる場所を通る迂回路がある。狭い道ではあるが、ここを抜けると隘路の反対側に抜けることができる。地元の者にしか分からない道であり、敵を奇襲するのにこれ以上の道はないだろう。

諸将から驚きの声が上がる。天王山を一度占拠し撤退することで明智軍の士気が低いと思わせれば、楽勝と錯覚した羽柴軍将兵は恩賞欲しさに警戒もせず次々と突っ込んでくるだろう。その結果として羽柴軍本陣の守りは手薄となり、本陣への奇襲の成功の可能性は増すに違いない。


さて、歩兵は右側より左側からの攻撃に弱く、槍はその傾向が特に強い。武器を右側に持つために左からの敵に対応するのに時間がかかるからである。左翼や中央で敵を食い止め、右翼または本隊が敵の側面や背面に迂回し弱点を突いたり敵本陣を突くなどの戦術は、鉄床戦術とも言われる。

ただし、この戦術は弱点もあった。迂回攻撃が早ければ対応され効果がなく、遅ければ左翼か中央が崩れ敗北が確定する。一分の狂いも許されない危険な戦術であるが、光秀は敵を攻め、打ち破るため賭けに出たのである。



第7節 光秀の作戦


山崎決戦前夜の時点で光秀が立てた作戦をまとめると以下の通りである。


第一段階 隘路を通り抜けた羽柴軍前衛を陣替えの隙を突き明智軍中央で叩く

第二段階 天王山にいる羽柴軍主力を明智軍右翼が釘付けにする

第三段階 明智軍本隊が天王山を迂回し羽柴軍本陣を突き秀吉の首を取る


ここで一つ分からない点がある。羽柴軍は隘路と天王山の二方向から攻めてくるが、桂川沿いを攻めてくる可能性はないのだろうか?

当時は、現代のように川に必ず堤防があるわけではない。したがって川幅は雨の量によって広くも狭くもなるため川沿いは湿地帯、泥だらけである。しかも6月はまだ梅雨であり川幅も狭くはなかったであろう。

だが、泥だらけとはいえ兵が進むことは物理的には可能だ。

明智軍諸将の中でそれを危惧しなかった者はいなかったのであろうか?


士気が高まった諸将の中で、まだ何か足りないのか不安げな表情を浮かべている者が二人いた。

一人目が左翼を任された津田信春である。

この津田信春については謎が多い。ただ、名前をよく見ると見当は付く。大坂で暗殺された津田信澄(つだのぶずみ)の親族で、家臣達に擁立されたのであろう。

津田信澄は明智光秀の娘婿であったために明智側と勝手に見なされ殺されたが、これは結果的に津田信澄の家臣達を明智側に走らざるを得ない状況に追い込んだのではないだろうか。

まさに、敵の敵は味方である。

主君を一方的に殺され彼らは明智側にいるしか選択肢がない。ある意味、光秀にとっては裏切られる心配のない心強い味方であったことだろう。


光秀は抜け目なく二人の不安に気付いていた。いや、むしろ予想していたと言った方がいいかもしれない。

「津田殿、何か不安があるか?」

信春はすかさず応えた。

「殿、もし敵が桂川沿いに攻めて来たらいかがなさいますか。」

それを聞いた諸将から笑い声が出た。その中で発言したのが御牧兼顕である。

「津田殿、ご心配が過ぎましょうぞ。桂川沿いは湿地帯で沼地もある。敵がそこを通れば泥に足を取られまともに進めませぬ。鉄砲の良い的にござろう。ははははは。」


光秀は兼顕を手で制しつつ、

「津田殿の兵はわしにとっても大事な兵。危険に晒すわけにはいかぬ。確かに敵は、隘路と天王山で苦戦すれば桂川沿いにも兵を繰り出してくる可能性はある。柵を立て、堀を作り守りを万全にされよ。わしからも鉄砲隊を援護に出す。敵が多ければ援軍も出そう。いかがか?」

この言葉で信春は安心したようだ。

不安げな表情を浮かべている二人目は、利三である。

だが、光秀は利三には何も言わず軍議を終え解散させた。その際、利三だけは残るように命じた。

筆頭家老が残ることは特に不思議はない。諸将は何ら疑うことなく作戦準備のため急ぎ足で去っていった。



第8節 敵を欺くにはまず味方から


広間には光秀と利三が残っている。

「光秀様…」

「利三、そちの言いたいことは分かる。羽柴軍主力の位置であろう。」

「殿は、羽柴軍主力は天王山にあると仰せになりました。しかし、それがしは桂川沿いと思っております。」

「なぜそう思うのじゃ?」

「天王山に登るにも、降りるにも兵は疲れます。いくら高地で有利とは言え、主力を昇り降りで疲れさせるなど到底思えませぬ。奇襲されないよう占拠する程度でござりましょう。」

「さすがは利三。その通りじゃ。天王山に敵主力はない。」


利三は驚きを隠せない。光秀は分かっていてわざと皆に嘘をついていたのだ。

「敵を欺くにはまず味方から、でございますか。」

「利三、敵主力が大挙して津田殿を襲えば、津田殿ではひとたまりもあるまい。しかし、細く、なおかつ湿地ゆえに兵が進むには時間がかかろう。敵主力が湿地帯に入ったときこそ、迂回奇襲する絶好の機会である。津田殿が壊滅するのが先か、秀吉殿の首を取るのが先か、どちらかじゃ。我が手にあと5,000人の兵がおれば、津田殿に援軍しかつ迂回奇襲もできよう。だが、兵が足りぬ。どちらかしかない。我が軍勝利のために津田殿には犠牲になってもらうしかない。」

「それ程のご覚悟とは。この利三、殿が敵の首を取るまで必ず持場を守って見せまする。」

「津田殿が崩れれば、次はそちじゃ。何としても持ちこたえて欲しい。」



第9節 光秀の妻、煕子


光秀は、利三の肩に優しく手を置いた。

「あの日のことは忘れよ。明日の決戦に勝てば良いのだ。勝つことだけを考えようではないか。」

利三の目からは涙が滴り落ちた。

「利三、わしはまだ迷っているのだ。これで本当に良かったのかと。煕子はどう思っているのであろうな。煕子がまだ生きていてくれたら…」

光秀の目にも涙が光った。


煕子は、光秀の今はなき妻である。5年程前に他界していた。光秀の出世を誰よりも支えた生涯の伴侶である。

煕子が亡くなった日、光秀が人目も憚らず涙を流し続けていたときのことを鮮やかに覚えている。

利三は、光秀と煕子の仲睦まじい場面を幾度も見ていた。光秀は煕子の前では子供のように自分の理想を語っていた。

迷っているときは、

「煕子、これで良いと思うか?」

とよく聞いていた。その度に煕子は笑顔で、

「私にはそれが良いかどうか分かりません。でも、わたしはあなたがしていることが好きです。」

光秀はそう答えて欲しくて聞いていたのかもしれない。


忘れることなどできない…

すべてが変わり、すべてが狂った、あの日…ずっと頭から離れない、あの日のこと…

本能寺が炎に包まれた、あの日のことだ…


参考:山崎決戦布陣図(みてみん)

https://35206.mitemin.net/i524462/


(第1章 決戦前夜 終わり)

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