五十五年の夢(明智光秀編、第一)

いずもカリーシ

プロローグ 斎藤利三

プロローグ 斎藤利三


第1節 1582年6月17日


その男は大罪人であった。

山城国勝竜寺城(京都府長岡京市)の大広間にその男は太い荒縄で厳重に縛られ座っていた。

体格は素晴らしくいかにも武人を思わせるが、凛とした佇まいには沈着さも感じさせこの男の威厳を高めている。一軍の大将としてこれ程頼もしい男もいないだろう。

だが、衣服はぼろぼろで血と汗が染み付いており、激しく戦い敗れたのは一目瞭然であった。

「斎藤内蔵助、面を上げよ。」

縛られた男は、明智家筆頭家老の斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)である。

山崎の戦いでは明智軍の最も重要な中央を任され、敗戦が決定的になっても最後まで踏みとどまりその後行方不明となっていた。

利三が面を上げると、広間の上座には小男が太刀持ちの美青年を脇に従えて座っていた。

顔はまるで猿を思わせるが、その眼光は鋭く只者ではない雰囲気を漂わせている。他でもない羽柴藤吉郎秀吉、その人である。



第2節 小男、羽柴秀吉


小男の両側には羽柴家の家臣が並び、いずれも凄まじい殺気を発している。だが、この小男が発する怒りの感情はそれ以上であり、並みの男であれば恐怖に縮み上がるに違いない。

「内蔵助、信長様を弑逆した謀反人のおぬしは日の本一番の大罪人ぞ。我らから逃げ切れると思っておったのか?我らは決して大罪人を野放しにはせぬ、草の根分けてでも探し出す!わしは信長様に代わりこれからうぬの首をはね晒さねばならぬが、最後に何か言うことはあるか。」

利三は小男から視線をそらすことなく少しの間を置き、

「秀吉様だけにお伝えしたき儀があり、お人払いをお願いしたく。」

あるいは大罪人との自覚がないのであろうか、その堂々とした物言いはとんでもない波紋を投げた。当然周りは色めき立つ。

「謀反人が何を申すか!」

「殿、謀反人の言葉に耳を傾けてはなりませぬぞ!」

「話す機会など設ける必要はありませぬ!今すぐ首をおはねくだされ!」


そもそも、小男の家臣達が殺気立っていたのには理由がある。

主君である明智光秀の首は既に6月14日に京都で晒されていたが、光秀が相当な切れ者であることは京都周辺に住む者なら誰もが知っている。

そのため、晒された首は影武者であり光秀本人は斎藤利三に守られ逃げているのではないかとのもっぱらの噂であった。

討伐戦は、大将の首を上げれば完了のように見えるが、実際は異なる。確かに大将を討てばその一戦は勝ちだが、一族や支持勢力をそのまま残すと新たな大将を立てられ戦は続いてしまう。

つまり、大将以上に一族や支持勢力を全て滅ぼすか寝返らせることの方が重要である。一族も支持勢力もなければ、仮に大将がどこかで存命でも、一人では何の脅威にもならないだろう。


そのため特に明智家の最大支持勢力である利三捜索は執拗にならざるを得ず、近江にて捕縛されるまで秀吉家臣達は総出で駆り出されていたのである。

山崎の戦いに勝ち一段落したと思えば総力を上げて利三を探せとの命令で不満は鬱積していた。

さらに、山崎の戦いは秀吉軍の圧勝のように書かれることが多いが、合戦経過をよく見ると秀吉軍の当初の作戦はうまくいかず激しい消耗を強いられていたのだが…これは後で描くこととする。

苦戦した戦いの後で人物捜索、小男の家臣達もさぞかし辛かったのではないだろうか。



第3節 羽柴秀長


家臣達の反応と比べると、上座の小男のそれは周りと違っていたようだ。

それを察知してか、家臣達の中で最も上座に近い席にいる男が声を発した。小男とは対照的に長身でありその声は穏やかさが、その目は懐の深さを感じさせる。

「皆の怒りはもっともであり、上様を討ったこの謀反人をすぐにでも始末すべきとそれがしも思う。だが、明智家中で他の家臣が皆討死する中でこの者だけが山崎の戦場から逃げおおせたのはなぜであろうか?しかも何日も我らの目を晦まし続けれたのはなぜか?逃亡に手を貸した者がおるのではないか?まずはこの者の言うとおりにし、子細を全て話させようではないか。首をはねるのはその後でも良いと思うが、いかがか?」

家臣達は沈黙した。

周りを納得させるには十分であったようだ。

「ははははは」

小男が笑い出した。

「さすがは我が弟、なかなかの知恵者よ。皆の者良いな、下がれ。小一郎、そちは残れ。」

それにしても、小男の先程までの激怒はどこにいったのであろうか?激怒と笑顔、相反するような感情を一瞬で変えることができることが、この小男の凄まじさを物語っているのかもしれない。

さて、皆を納得させる発言をした男こそ、小男の弟、小一郎秀長である。



第4節 本能寺の変の謎


家臣達が下がり静けさが訪れる。

小男は、静けさが周りを十分包むのを待ち、おもむろに口を開いた。

「望み通り家臣は下がらせた。だが小一郎は別、否やは言わせぬぞ。」

利三も、見事に当てた秀長には一目置いたのか同席を拒むことはしないようである。

小男は続けた。

「明智殿にはずいぶんと冷や汗をかかされた。数で勝り、山崎の地形を押さえ、我が軍は圧倒的優位にあると思っていた。それが、終わってみればわしは三千人もの兵を失った。見事に嵌められたのだ。もし明智殿にあと五千の兵がおればわしの首は飛んでおったかもしれぬ。恐ろしい御仁よ。」

しばらく置き、

「弟が申した通り、わしは山崎の後、明智殿とおぬしを探させたがまるで見付からぬ。おぬしは明智殿と共に逃げたのであろう?明智殿はいずこに?」

利三はそれには答えたくないのか、下を向き黙っている。

「答えたくないか、まあ良い。合戦後にどこかの落人狩りが明智殿の首だと持ってきたが、それは見分けがつくような状態ではなかった。わしはもっともらしい理由を付けて明智殿本人だと認め、その者が掴み切れない程の銭を与えた。今頃は死んでおるはずじゃ。あれだけの銭を持てば目立つゆえ、明智殿を慕う者達からは格好の的であろう。」

小男はどこか自慢気である。

「安心せい、明智光秀なる者がどこかで生きておるとの噂があったとしても、それは偽物じゃ。偽物を探す必要はない。そうであろう?」

小男は利三に探るような眼差しを向けてきたが、利三は下を向いたままだ。

「肝心な話はここからじゃ。先程は皆がおるからとぼけたがの、わしは分かっておる。本能寺でのこと、明智殿の指図ではない。違うか?」


明智光秀は本能寺にいる信長を討てとは命じていない!?

小男の発言に最も衝撃を受けたのは横にいた秀長である。

「あ、兄上、そ、それは真にござりますか?」

「信長様は5月29日から本能寺に入られ、5日間留まることが決まっていた。もし明智殿が信長様を討つつもりであれば、周到に準備し信長様亡き後の体制を万全にしてから臨むはずじゃ。親類でもある細川と筒井に根回しすらしておらぬのはおかしいではないか。細川と筒井を率い中国へ向かうことが決まっておる以上、率いる者達と談合することに何ら不審はない。」

「ですが兄上、信長様は疑り深い方、明智殿が密告を恐れ根回ししなかった可能性もあるのではござりませぬか?」

小男が最も信頼する人が、弟の秀長であった。

「弟よ、しばらくそちと話す暇がなかったのう。良いか、明智殿の縄張りをよく見てみよ。坂本城(滋賀県大津市)が都の東を押さえ、周山城(京都府京都市)が北を、亀山城(京都府亀岡市)が西を、縁者である筒井の大和郡山城(奈良県大和郡山市)が南を押さえる位置にある。京はまさに袋の鼠ぞ。明智殿がその気になれば、信長様の上洛中いつでも討てるではないか。ならば慌てず周到な準備をすれば良い。信長様の側近衆は、京の周りが明智殿の縄張りばかりであることを信長様へ何度も警告しておった。だが信長様は耳を貸さなかった。明智殿を完全に信頼しておられたのだ。万が一、細川や筒井が密告したところで、証拠がなければ信長様が耳を貸すはずがない。」

「まだあるぞ。明智殿はなぜ信長様の首を晒さなかった?灰になっていようが、似た首でも取って信長様の首だと言えば良い。他にもあるが、明智殿の動きはあまりに不可解であった。信長様の死そのものを疑い、明智殿への加勢を日和見する者も少なくなかったのだ。」

秀長は小男の答えにある程度は納得したものの、まだ衝撃があるのか冷静さを失っているようである。

「では、兄上、信長様を討ったのは誰のお指図で?」

小男は秀長がら利三へ視線を移した。

「この者は、自分が討ったのだと言いに来たのであろう。明智殿の汚名を注ぐために。」


利三の目が大きく開かれた。秀長とは別の衝撃ですぐに言葉が出ない。小男の観察眼は尋常ではないようだ。

少しの間を置き、

「さすがは秀吉様にござります。上様弑逆はそれがしの一存にて、明智殿に関わりはありませぬ。謀反の罪はそれがし一人に負わせて頂き、明智殿の汚名を注いで頂きますよう…」

だが、秀長はまだ納得していないようである。

「利三殿。そなたは明智殿への忠義厚い方であろう。信長様を討てば、明智殿にどれだけ迷惑がかかるか分からなかったわけではあるまい?あまりに矛盾した行動ではござらぬか。」

小男もそこは同じ考えのようである。

「わしが知りたいのはそこよ。利三よ、おぬしの一存だとして、理由はなんじゃ?」

利三の返答は早かった。

「我が斎藤家は長宗我部殿と縁組しております。信長様は最初、長宗我部殿に四国を全て任せるとお約束なさいました。が、時が経つと三好殿の持つ富に目がくらみ約束を反古にし阿波と讃岐を返せとおっしゃった。あまりにも理不尽な申し出にござりましょう。さらに、従わぬと見るやこの度の四国征伐、それがしは親類を守るべく立ち上がったのでございます。三好殿の厚遇については羽柴殿も一枚噛んでいたとの噂にございますが。」



第5節 四国説


長宗我部とは、四国の土佐国(高知県)の領主、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のことである。

元親の妻は美濃の土岐一族である石谷氏の娘であり、その石谷氏に利三の兄が養子に入っていた。

つまり長宗我部元親は利三にとって義理の兄弟に当たる。

織田信長と長宗我部氏との関係を語るには、時代を織田信長の上洛時にさかのぼる必要がある。


1568年9月、織田信長は足利義昭を奉じ上洛した。上洛前に京を支配していたのは三好氏であったが、その頃の三好氏は内紛状態であり、勢いのある上洛軍の敵ではなかった。

三好氏は京から追い払われ、足利義昭は晴れて将軍となる。

しかし、15年以上も当時の日本経済の中心地である京のみならず畿内(現在の関西地方)を中心に9ヵ国を実質支配し、三好長慶(みよしながよし)という天下人を出した三好氏の底力は絶大である。

その後も数度にわたり京周辺を脅かしただけでなく、1570年8月、三好氏の息の根を止めるべく摂津国の野田、福島を攻めた幕府軍と織田軍を大坂本願寺の加勢を得て討ち破ったのである。


苦境の織田信長が目を付けたのが、土佐国(高知県)を統一した長宗我部氏であった。

土佐国は、三好氏の本拠地である阿波国(徳島県)と讃岐国(香川県)を背後から襲える絶好の位置にある。

ここで長宗我部元親の親類である斎藤利三が脚光を浴びる。取次役(外交の窓口)として適任の人物であったが、このとき利三は美濃国人の稲葉一鉄の一家臣に過ぎず、1国の大名との取次には役不足である。

そこで、明智光秀は信長の許可を得て斎藤利三を明智家筆頭家老に抜擢する。当時の光秀は幕府に属しており、幕府家臣の筆頭家老であれば十分に拍が付いただろう。

一般的な歴史書には、光秀が一方的に利三を引き抜き、稲葉一鉄からの抗議があったために信長は光秀に利三を返すよう命じたものの、光秀は命令を拒否し信長から叱責された、という逸話がある。

表向きは確かにそうだったかもしれないが、客観的に見てこの一連の騒動は、長宗我部氏に三好氏の背後を襲わせることを目的とし信長と光秀が一芝居演じたものだったのではないだろうかと思う。


さて、この外交は大きな成果を出す。四国は全て切り取り次第、つまり奪った領土を自分の物にすることを公に認められた長宗我部元親は、大きな力を得て瞬く間に阿波国と讃岐国を攻略していく。

三好氏の軍の主力は対織田戦線に張り付いていたのもあり背後はそもそも手薄であった。

本拠を襲われ補給が絶たれた三好氏は、一気に形勢が不利に傾き敗退を続け、1575年ついに織田信長に降伏するのである。

だが、この時期は状況が怒涛のごとく変化している。1575年の織田信長は、浅井朝倉を滅ぼし、武田を破り、足利義昭を追放し、将軍と同じ官位を得て事実上の天下人となっていた。

天下人の仕事は天下を大局的、俯瞰的に見て判断することである。

三好氏は敗退を続けたとはいえ、その財力、影響力は大きい。降伏した三好氏の命は助けるとしても、土地を奪ったままであれば彼らは食べていけない。恐らく死に物狂いで戦い、戦は泥沼化しまた更に多くの血が流れるだろう。

信長は三好氏の排除は不可能と考え、長宗我部元親には讃岐と阿波の一部を返すよう命令を下すのである。


元親の家臣達は三好氏の土地が褒美にもらえると信じ多くの血を流して戦ってきた。ここでその土地を三好氏に返せば、元親は一気に家臣達の支持を失う。

本心は信長に逆らいたくなかったが、結果としては信長と敵対の道を選ばざるを得なかったのである。

だが、やはり三好氏は強かった。三好氏が対織田戦線に張り付いていた軍の主力を引き返すと元親の奪った城は次々と奪還されていく。

更に信長の息子である織田信孝が率いる四国征伐軍が大坂(今の大阪市)に集結し、元親は追い込まれた。

本能寺が炎に包まれたのは、まさにそのときである。



第6節 本能寺の真相


利三の話に対し、小男は訝しげな表情に変わっていく。全く納得いかない答えであったからであろう。

すかさず秀長が割って入った。場の空気を察する能力こそ、小一郎秀長の真骨頂である。

「確かに我らは三好殿の取次を務め、便宜を図りもした。これによって明智殿やそなたに迷惑を掛けたのかもしれぬ。それは、畿内や四国の島という島、山という山まで三好殿の息がかかりその力侮りがたいからじゃ。最後の一人まで滅ぼすことなど不可能ではござらぬか?」

利三に反応はない。秀長は続ける。

「利三殿。そなたの申す通りなら、なぜ長宗我部殿と連携を図ろうとされなかったのか?本能寺の後、明智殿が京の次に押さえたのは安土(滋賀県安土町)であった。長宗我部殿を守るためなら、なぜ大坂に向かわれぬ?明智殿の軍であれば、織田信孝様などひとひねりでござろう。兄者が訝しんでいるのはそこじゃ。我らに明智殿の汚名返上を望まれるなら真実を申されよ。」


小男だけでなく、秀長にも全て見抜かれている。誤魔化しの利かない相手であったか。

利三は覚悟を決めざるを得ない。

「真実を申さば、明智殿の汚名を注ぐことをお約束頂けますか。」

小男はすかざず、

「約束しよう。ただし、どう注ぐかはわしのやり方でやるが、良いな。」

利三は大きく一呼吸を置き、答えた。

「あの朝、我らは信長様が本能寺で丹波(京都府西部)の新兵の閲兵を行うとの命を受け…」


小男の反応は凄まじかった。利三の話を遮るように身を乗りだし、

「閲兵じゃと!」

響くような大声を上げた後、

「なんたる無警戒な!そのようなものは安土でこそすべきであろうに。利三、よもやおぬしが本能寺に来たとき既に…」

小男は深いため息をついた。

「信長様は愚かじゃ。明智殿が信頼に値する御仁としても、その配下全ての人間に悪意がないなどとどうして言えようか。京の公家達は信長様は抵抗する間もなくすぐに討たれたと申しておったが、本能寺は周りを堀と塀に囲まれた要害であるのになぜなのか謎であったがそうか、そういうことであったか…」


補足するが、閲兵とは軍の総指揮者に兵士を実際に見てもらうことである。

総指揮者は兵士の士気を上げるため、正義のためだ、国のためだ、平和のためだ、家族のためだ、など戦う目的を大袈裟に演説したものである。

この正義というのは時に厄介である。自分の思い込みの正義のために人は何の罪悪感もなく他人を攻撃し、痛め付けられた他人を見て可哀想に思うどころか達成感を覚えるのだから。

ちなみに、丹波の兵は明智軍に新たに属した新兵であった。


第7節 戦いの回想


さすがの小男も肩の力が抜けたようであったが、何か決断したようである。

「わしは配下の者を信じはしない。信長様のようにはならぬぞ。ところで利三、信長様を討った者は行方をくらませたままなのだな?」

利三の無言が、その答えであった。

「わしは必ず犯人を捕らえてみせる。そして、おぬしの代わりに罰を与えてやろう。立場を弁えぬ者達への見せしめとしてな。どのような罰が良いか…釜茹でなどはどうじゃ。」

小男は一人で笑った。その笑いには、どこかにいる者への凄まじい憎悪が込められているようである。

「さて、問答はここまでとしよう。ここで長く話しておれば下がらせた家臣達が気を揉む。後の世の者がどう見るか分からぬが、真実は明智殿にとって一番不名誉ではないかとわしは思う。

かといって、おぬしが討ったとの話も理由は立つだろうが家臣の勝手を許す主君となりこれもまた不名誉であろう。明智殿が自らの意思により討ったことにするのだ。そのためには信長様にも非があったことにせねばならぬか。後のことはわしに任せよ。おぬしはこれから信長様を討った軍の大将として本能寺にて首を晒すが、明智殿含めおぬしの係累にはこれ以上の手は出さぬと約束しよう。安心して死ぬがよい。」


家臣達が戻り、秀長より処刑の段取りが伝えられている。

これで良かったのか…利三には分からない。小男の言う通り、後の世の者がどう見るか分からないからだ。

利三は勝竜寺城から京へ連行されていく。

この道はあの山崎の決戦の前日に利三が明智光秀と通った道でもあった。そのときとは逆方向だが。

本能寺に着けば利三の戦いは終わる、利三の全ても終わる。

山崎の決戦は、光秀が智謀の限りを尽くした戦いであり、天才にしか許されぬすさまじい作戦であった。利三だけでなく光秀の家臣全てが勝利を信じた。あの戦いに参加できたことは人生の誇りであったかもしれない。

利三は不思議な高揚感に包まれていた。本能寺に着くまでにあの戦いをもう一度、思い出そう…。


あの戦いはさっきまでいた勝竜寺城で行われた軍議に始まったのだ。


(プロローグ 斎藤利三 終わり)

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