第2章 本能寺

第2章 本能寺


第1節 1582年6月2日


本能寺を包んでいた炎が消え、もうもうと煙が上がっている。

利三が本能寺に着いてから2~3刻(時間)が経っただろうか、利三は門の外で主君を待っていた。

使番が駆け込み光秀到着を告げる。

平伏してしばらく経つと、光秀が乗っているであろう馬の足音が聞こえてきた。

「利三!!」

光秀は大声で呼んだが、その声にはひどい狼狽が混じっているようである。

もちろん利三にその声は聞こえているはずであるが、平伏したまま何も答えない。

「利三、何があったのだ!」

光秀は馬を降り利三の肩をつかむと強引に起こそうとした。

利三はうつむきつつ、

「この利三、光秀様に謀反を起こしました。我が一存で織田信長様を討ち果たし…」

嗚咽がこみ上げ途中から声にならない。

「なぜ信長様を討ったのだ!わしにとって信長様が決して失ってはならぬ方であること、そちが一番存じておるはずではないか!!」

光秀の声はもはや叫び声になっていた。


第2節 国の政治と地方の政治


明智光秀にとって信長は、なぜ失ってはならぬ男なのか?

その理由を知るために光秀の生まれた明智氏とこの時代の背景から語りたい。


光秀の生まれた明智氏は元々、室町幕府の奉公衆(ほうこうしゅう)の一族であった。

室町幕府は、国の政治を幕府が、地方の政治を守護大名が担う政治形態である。現代に置き換えると、総理大臣含む内閣が幕府、知事が守護大名だと分かりやすいだろうか。内閣が出す国の方針に対し知事が反発することはよくあるが、国の最善と地方の最善はどうしても矛盾してしまうのである。


国の最善と地方の最善の矛盾はなぜ起こるのだろうか?

それを理解するため、ある川に1つの橋を架けることに例えてみたい。

川沿いに住む者は皆、自分の家の近くに橋を架けることを望むだろう。だが、全員の望みを叶えていたら橋は無数に架けなければならなくなる。

では、どこに橋を架けるか?これを判断することがいわゆる国の政治である。

全員の望み通りにできない場合、どの望みを叶え、どの望みを叶えないかを判断しなくてはならない。叶えられた者達からは称賛されるが、叶えられなかった者達は恨むだろう。判断する者は人々の矢面に立たされ称賛も恨みも買う。

だからこそ公平かつ公正な判断が必要だが、何を基準に判断するのか?

判断する者は悩み、迷い、もがき苦しまざるを得ないのである。

最も簡単な判断基準は多数決であるが、常に多数が公正とは限らない。

さて、川に橋を架ける場所について川沿いに住む者達に意見を求めると、ある者は、

「我が町は最も人が多く住んでいる場所である。こここそふさわしい。」と言い、別の者は、

「我が町は川幅が最も狭く、最も安く橋を架けられる。こここそふさわしい。」と言い、さらに別の者は、

「我が町を貫く道は最も人の往来する重要な道であり。こここそふさわしい。」と言う。

これら3人の者は自分の主張を通すべくあらゆる手段を講じる。

より多くの税を払うなどの交換条件を提示し我が町に橋が掛けられるように交渉するかもしれないし、逆に自分以外の町に橋が掛かりそうになれば大規模な反対運動を展開したり工事を妨害したりするかもしれない。

これこそ、地方の政治である。

我が町に橋を掛けたいとの思いもその理由も間違ってはいない。

だが、共通するのは我が町の利益のみを最優先し、他の町の利益は全く考慮していないことだ。

多数決を取るならば最初の者の意見を採用すればいいだろう。だが、人々から集めた税を使うのだから、費用も大事である。また、3人目の意見である重要な道に橋を架ければ、人の往来が更に増え、商業も活性化する。

あなたならどう判断するだろうか?あなたが判断するということは、あなたは人々の矢面に立ち、称賛も恨みも買うということになる。

公平かつ公正な判断と言うのは易しいが行うのは難しい。



第3節 室町幕府と守護大名


幕府と守護大名の矛盾もそうであった。

守護大名は国の最善より自分の治める地方の最善を優先し、幕府の指示に従わないことがあるばかりか、財源欲しさに公家や寺社の財産(領地)を奪うなどもあり、幕府としては守護大名をどのように制御するかが重要であった。

そこで幕府は、地方各地に幕府奉公衆を設ける。読んで字の通り、幕府に奉公する衆である。奉公衆は幕府直轄であり、守護不入権(しゅごふにゅうけん)、つまり守護の命令に従わなくても良い特権があった。守護大名にとっては自分の治める地方の中で自分に従わぬばかりか、幕府の監視役のような存在がいることになり、さぞかし快くはなかっただろう。

つまり、明智氏は美濃国(岐阜県)に住み、守護である土岐氏の一族でありながらも、幕府直属の家臣として守護大名よりも幕府の命令に従う立場にあったということになる。


さて、最初に腐ったのは幕府である。

時が経つにつれ幕府内には国の最善を図ろうとの信念を持つ者がいなくなり、公正や公平であることよりも自分や自分の息がかかった者の都合、既得権益を守ることに奔走した。それはやがて権力闘争に繋がり、意味のない争いに明け暮れていくようになる。

人々は幕府に失望し、幕府を支持する人々はいなくなっていく。

相次ぐ異常気象やそれにより発生した飢饉、対処できない幕府、人々にとって幕府はもはや不要であった。


守護大名もまた腐っていく。

代を重ねるごとに地方の最善を図るという役割を忘れ自己の利益を優先し、無用な争いに介入していった。

その典型例が応仁の乱である。

応仁の乱を一言でいうと、兄弟争いである。兄が後を継ぐか、弟が後を継ぐか、それを争っていたに過ぎない。

もう一度言うが、守護大名の役割は地方の最善を図ることである。

この責務を果たせるなら、兄が継ぐべきか弟が継ぐべきかなど、人々にとってはどうでもよい。

だが、どちらがふさわいかの戦いを起こし、一度で決着させるならまだいいが、親族であることが災いしたのか曖昧な決着で戦いを終わらせ、しばらくするとまた戦いを始めるということを延々と続けた。その戦いの度に人々から税が徴収されたのである。

人々は守護大名に対しても飽き飽きとした。

守護大名をを支持する人々もいなくなっていき、それに代わり地位が低いにも関わらず人々から支持を集めた者が台頭し、幕府の任じた守護大名を傀儡化し、ときには追放や殺害も行った。

これを下克上という。

戦国大名の誕生である。

これにより、時代は室町時代から戦国時代へ変わった。



第4節 経済成長、そしてその裏側


戦国大名は、その権威を誰からも保障されていない。それを保障することのできる幕府は腐って弱体化している。

幕府に献金し守護に任じられた大名もいるが、実際には地元の人々の支持こそが基盤である。

人々の支持は、ある意味、人々からの人気であるとも言える。だが、人気は移ろいやすいもの。いつまで続くかなど分からないし、強い者が現れればその者に取って変わるかもしれない。

人々の支持、人々からの人気程に脆弱な基盤はない。だからこそ、大名は常に支持集め、人気集めに奔走した。いや、せざるを得なかったのである。


支持や人気を集めるには、人々の暮らしを豊かにすることが最も効果的である。

どのように豊かにするのであろうか?

歴史の教科書によると、大規模な治水工事を行い洪水対策や農業生産性を高めること、城下町を作り商人を保護すること、道を整備し治安を向上し商業活動を活性化させること、などであろうか。

だが、治水工事や町作り工事だけすればいいのではない。


例えば、治水工事は単に堤防を作るだけでは終わらない。

川を流れる水の量は常に変わる。春の雪解け時や大雨の後では量が多くなる。水の量が多いということは、川幅が広くなることでもある。堤防を作るには、川幅がどれくらい必要か、高さはどうするか、高過ぎれば決壊しやすくなる、低ければ水に乗り越えられしまう、決壊しやすい場所は二重にするか、など考えなければならない要素は多い。

また、当時の川は蛇行する場所が多く全てに堤防を作ることなどできず、川の流れそのものを真っ直ぐに変える必要もあった。もちろんその場所に住んでいた者達は立ち退かせねばならない。

さらに、堤防を作っても時間と共に川の水が染み込み劣化する。そこで、堤防を道路とし常に多くの人を歩かせ踏み固めたり、堤防近くに人を住まわせ管理させたりなど、堤防を維持するための様々な仕組みを作らねばならない。

まだある。城下町を作り商人を保護しても、人が多く住まなければ意味がない。そのためにはある程度、強制的な移住も必要である。

先祖代々住んだ場所から立ち退き、望みもせぬ場所に住むよう強制された者達はどう思っただろうか?

だが、そうしなければ治水工事も城下町の整備もできない。

人々の暮らしを豊かにするには、人々の自由もある程度制限しなくてはならないのである。

これには強力な発信力、調整力、行動力が求められたはずであり、まさにこれが統治能力である。


大名同士はこの統治能力を競い、能力の低い大名は高い大名に飲み込まれ滅ぼされ、大名は淘汰されていく。

この時代の著しい経済成長は、大名同士の命をかけた激しい競争により成り立っていたと言えるだろう。

経済成長に更に拍車をかけたのが、金や銀の海外輸出である。特に日本の銀は、堺、博多などの港を通じ、世界へ飛ぶように売れた。当時の日本の銀の生産量は世界の三分の一を占めたとも言われている。

この世界との貿易は商人を大いに富ませ、富んだ者はその富を元手に事業を拡大し、更なる富を積み上げていく。

なぜそこまで日本の銀が売れたのか、それは世界の動きも関係あるのだが、それは後で描く機会があると思う。


ここまでで、国の政治を担う幕府が腐り、地方の政治を担う守護大名も腐り、人々の支持を受け成立した戦国大名が生む激しい競争社会によって統治能力が向上された結果、著しい経済成長をもたらしたところまで話をした。

だが、この競争は一部の富んだ者を生んだが、その裏側はあまりにも酷(むご)いものであった。

豊かになるには、他人の富を奪うのが手っ取り早い。そのため、力のない大名、公家や寺社の財産は次々と狙われ、命も平然と奪われた。大した理由もなく隣国に攻めこみ、勝てば略奪し、捕らえた人々を奴隷にした。

戦いの後、勝者には大勢の商人が押し掛けてくるのが常である。奴隷や略奪品を買い取るためだ。そして商人にとって戦いは投資の場でもあった。勝つと思う戦国大名へ金を貸し、武器や傭兵を提供する。勝てば略奪品と奴隷を利息として受け取った。

だからこそ、強力な軍隊を持つ大名は兵や商人からとにかく人気が高かったのである。戦に勝つ確率が高ければ、兵は死ぬ心配も少ないし、商人は安全な投資ができる。有名な戦国大名達はこの兵や商人の心理を利用し、戦いに明け暮れた。戦いもまた商売であった。

このように、経済成長の裏側では多くの犠牲者と異常な格差が生み出されていたのである。


この状況は奉公衆の立場にも影響を与える。幕府の弱体化は、奉公衆の弱体化でもあり戦国大名から容赦なく狙われる。

それが原因かは分からないが、明智氏は美濃国の領地を奪われてしまう。光秀は浪人し諸国を渡り歩いたとも、幕府に仕え京都周辺にいたとも言われているが、不明である。

一つはっきりしているのは、光秀が幕府奉公衆の家に生まれたからこそ、幕府とは、国の政治とはどうあるべきかを考える機会があったことは間違いないだろう。



第5節 織田信長


明智光秀が注目したのが、尾張国(愛知県西部)の大名織田信長である。

このときの室町幕府は将軍の足利義輝が暗殺され、弟の義昭も諸国を彷徨うなど、ほぼ瓦解していた。義昭は将軍になるべく各地の戦国大名へ上洛の協力を要請したが、応える大名は誰もいない。各地の戦国大名にとって重要なのは地元の人々の支持であり、上洛のために人々から更に税を集めるなど反発を招くだけである。実際に、義昭が身を寄せた朝倉氏も、上洛の検討はしたものの断念している。

ところが、信長だけは違っていた。信長は上洛を決断し、実行するのである。


信長は、他の戦国大名と比べると異様であった。

他人の富を奪うことを目的とした戦をほとんどしないのである。

尾張国の東隣の三河国(愛知県東部)とは、信長の父信秀の代では侵略戦争を盛んにしていたが、桶狭間の戦いの後は松平元康(後の徳川家康)と和平を結んでいる。

尾張国の北隣の美濃国とは、信長の妻の帰蝶(きちょう)の父である斎藤道三が息子の斎藤義龍に討たれて敵対関係となったが、侵略戦争を仕掛けるのではなく最初は上洛のための協力を求めている。ところが、義龍もその子の龍興も上洛には全く興味なく信長の申し出を拒絶したため、7年かけて美濃国を併呑することになる。

信長は勝者であったが、敗者である美濃の小規模の領主(国人または国侍とも言う)の財産を、逆らわない限りは極力保護し奪うことをしないばかりか、京に近いとの理由で本拠を美濃国の岐阜に移すのである。

信長の戦はまるで、侵略というより、京に近づくためにやっているようである。こんな大名は信長しかいない。



第6節 信長の副将軍職辞退の真相


1568年10月、織田信長はついに上洛戦を起こす。

信長はここで兵の略奪禁止を徹底している。兵の一人がすれ違った女性にちょっかいをかけただけで首を刎ねられる程であった。

上洛戦は信長の圧勝に終わり、義昭は晴れて将軍に就任し幕府機能は再開した。

このとき義昭は信長に副将軍職就任を要請したが、信長はこれを断り、堺と大津と草津の支配権を求めている。堺は大きな商人町があり、大津と草津は物流の要衝である。


信長はなぜ副将軍職就任を断ったのであろうか?

この上洛戦における信長の動機については様々言われている。

一番多いのは、信長は天下取りのために幕府を利用することしか考えておらず、副将軍職よりも利用価値のある商人町や物流の要衝を手に入れた、であろうか。

そもそも信長の織田家は、戦国大名である。先に戦国大名とは地元の人々の支持により成り立つと述べた。

このときの信長は尾張国と美濃国の戦国大名であり、尾張人と美濃人の支持基盤により成り立っている以上、地元の繁栄を最優先しその支持を保ち続けなければならない。

もし信長が副将軍職につけば人々はどう思うだろう?

日本全体で見れば尾張と美濃は一地方に過ぎない。尾張人と美濃人は、信長は地元を疎かにし一地方のように扱うつもりだと思い、足元から崩れてしまうだろう。

信長はそれを避けるため、就任を断ったのである。

現代に当てはめると、岐阜県と愛知県の知事が副総理大臣を兼任しようとするようなものである。それこそ報道に意図を疑われて叩かれるだろう。断るのが普通だと思う。


では、信長は幕府をどこまで支えるつもりだったのだろうか?

幕府は再興したとは言え基盤は脆弱であり、信長の軍事力が頼みである。反対勢力が襲ってくれば幕府を救いに京へ駆け付けねばならない。信長の兵は尾張人と美濃人であり、京との往復には金もかかるし補給路も必要である。わたしは、信長が堺と大津と草津の支配権を求めたのは、資金源と補給路の確保にあったのではないかと思っている。



第7節 幕府の過ちと自滅


信長が副将軍とならなかった幕府はどうなっていったのだろうか?

幕府はかつての力を取り戻すべく精力的に動いたが、これが大いに問題であった。

自分より更に力の弱い、公家や寺社、小領主から次々と土地を横領、つまり財産を奪い始めたのである。

さらに、かつて幕府の要職や守護であった一族の権威を復活させようとした結果、その一族を下剋上で追放した戦国大名を次々と敵に回してしまう。

若狭(福井県西部)武田氏を救おうとして朝倉氏を敵に回し、信長を含む朝倉討伐軍を派遣すると、京極氏の北近江(滋賀県北部)の復権に反発していた浅井氏にその背後を突かれ窮地に陥る。

それだけではない。義昭を上洛前から支えた和田惟政を摂津国(大阪府北部)一部の守護に任命するも、惟政は任地統治に失敗、反抗した者達を討伐しようとすると逆に惨敗し惟政自身が戦死する大失態を演じる。

あの有名な松永久秀も、幕府が天敵である筒井氏を優遇したことに反発し大和で挙兵するなど、幕府の政治は失敗に失敗を重ねていくのである。


国の政治を担うのに、力は不可欠である。

幕府に力がないとすると、「幕府の命令である」と言われたところで、都合の良い命令なら聞くだろうが、都合の悪い命令を聞くだろうか?

逆らっても罰がないのであれば、結局は都合の良い命令にしか従わなくなるのは当然の成り行きである。

だが、逆らえば罰があるならばどうだろう?渋々でも従うのではないだろうか。

幕府が力を付けるために、どこからか財産を奪い富を増やす、あるいは誰かを優遇し味方を増やす、などを行うのはある意味仕方のないことかもしれない。

だが、その反動として奪われた者達、冷遇された者達はたまったものではない。激しく抵抗し、争いの火種となることは避けられないだろう。


一番の問題は、その火種をどう処理するかである。

自分で鎮めるか、誰かに鎮めさせるか、であるが幕府は完全に後者となった。

幕府の者達は、争いの火種をまき散らしながら、それを鎮めることを信長や京周辺の大名など軍事力を持つ者に丸投げしていく。勝てば賞賛するが、負ければ自らは無関係のように振る舞い切り捨てようとさえするのである。幕府は他人を前面に立たせて自分をその後ろの安全な場所に置き、他人を動かし他人を矢面に立たせ他人を死地に送り続けた。


光秀は幕府の姿勢に深く失望したが、他にもそう思った者は多いだろう。それに比べて信長はどうか。

光秀は幕府の家臣、つまり幕臣として信長との窓口であったと考えられる。

信長を知れば知るほど、光秀は信長に清々しいものを感じていた。

もちろん信長も失敗はいくつも犯している。だが、信長は自分を安全な場所へ置かなかった。

矢面に立ったからこそ、信長の失敗はそのまま信長の犯した失敗になっている。

そして失敗により困難な状況に追い込まれることもあったが、原因を分析し改善を図り続けた。他人を死地に送り込んでしまったこともあるが、彼らが危機となれば兵が整うのを待たずに自ら飛び出し、駆け付けて救ったこともある。

光秀は、信長と共にいるうちに、国の政治を担うのは幕府ではなく信長こそふさわしいのではないかと考えるようになっていくのである。



第8節 幕府との決別


明智光秀はついに幕府と決別の時を迎える。

武田信玄が遠江国(静岡県西部)三方ヶ原で織田徳川連合軍に大勝したとの情報に、幕府は信玄上洛を信じ信長討伐軍を起こす。

ここで光秀とその盟友である細川藤孝は幕府から離脱し、織田軍に加わるのである。

だが、幕府より信長を選んだのは光秀らだけではなかった。信長討伐軍は期待に反し兵が集まらず仕方なく山城国槙島城(京都府宇治市)に立て籠もらざるを得なくなる。

賊を討つのが官軍であり、守りを固め引き籠った時点で幕府は賊軍と化した。

もう人々は皆考えていたのである。幕府はやはり必要ない、と。更に武田信玄の目的は侵略にあるのだ、と。


幕府が信玄側に付くことを鮮明にする前から、信長は大きな方向転換を強いられていた。

先に述べた通り信長は最初、副将軍職を辞退し、尾張と美濃の支持基盤を守ることを優先した。

だが、周りがそれを許さないのである。

人々が幕府を必要ないと考えれば考える程、信長は必要となっていく。

多くの者は、困ったときに幕府に相談せず、信長に相談した。信長もその者達を無視はできなかった。その度に幕府との溝は深まる。

私は、困った者の声を無視できない、ある意味お人良しの信長の性格を垣間見たのであるが、いかがだろうか?



第9節 国の軍


ついに信長は国の政治を担うことを決断する。

そのためには、尾張と美濃の地方の政治を誰かに移譲せねばならない。

信長は織田家の家督を息子信忠に譲り、信忠に地方の政治を担わせた。

ここで肝心な問題が発生する。信長直属の国の軍の不足である。

信長が元々持っていたのは、大半が尾張人と美濃人で成り立つ地方の軍であり、信忠に譲る兵を差し引くとどうしても兵が足りない。

当然ながら、国の政治を担う以上、国の軍という力は必須だ。

信長は自分直属の兵を増やすことが急務になったが、これには大きな問題が3つあった。


一つ目は、信長の軍の大半が尾張人、美濃人なことである。彼らは尾張や美濃のためなら戦うが、他の地方のため命を掛けて戦うだろうか?

この解決のため信長直属の国の軍は、尾張でもない美濃でもない土地に家族ごと移し、地元意識をなくさせることにした。

近江国安土(滋賀県安土町)に城を築き、そこに兵とその家族を強制移住させた。つまり安土は国の軍の駐屯地(ちゅうとんち)だったのである。


二つ目は、当時の兵はほとんど農業を兼業していた、いわゆる農兵であったことである。当然、農業が忙しい時期は戦いに参加できない。

このため、信長は農業を兼業しない専門の兵、足軽を大量に雇うことにした。大量の足軽の維持には大金が必要で、潤沢な税収を得るべく、元々支配していた津島や岐阜に加え、堺、大津、草津、敦賀、大坂などの物流の活発な町や港の完全支配を目指した。


三つ目は、実際のところ兵が手足のように使えないという一番厄介な問題であり、これには大名の持つ構造的な問題と関係していた。

大名はその地方で一番の長なのだが、地方には大名よりも小さい小領主が多く存在し、彼らは大名にある程度は従っていたが独立し自由を獲得していた。

つまり、大名は緩やかに小領主を支配していたのである。この小領主のことを国衆(くにしゅう)とも言う。

以前に大名を現代に例えると知事に当たると説明したが、小領主を現代に例えると市長に当たるだろうか。

当然ながら市のことは市長が判断するもの。それに対し知事は意見はできても強制はできない。

加えて、地方全体では大名直属の兵よりも小領主の兵を合わせた方が多かった。これが大名が小領主達に厳しくできない要因でもある。彼らが連合して対抗すると、さすがの大名も苦戦を強いられてしまう。

この力関係により、大軍を編成するには小領主達の協力が欠かせない。大名は戦いをするとき、彼らに戦いの目的を説明し、報酬を約束して兵を集めたものである。

もちろん、説明しなくても協力してくれる忠実な小領主もいたが、とても手足のように兵を動かせる状況ではないことがお分かり頂けると思う。

この対策に大名は様々なことをしている。税収を増やし大名直属の兵を手厚くしたり、事あるごとに小領主に服従を誓わせ、自分の子供を小領主の養子に押し込めて親族にしたり、逆に隙があれば従順でない小領主を滅ぼしたこともある。


信長も、この小領主達をどう扱うか悩んでいた。

大軍を編成するのにいちいち、小領主達に説明し協力を求めていては迅速な対応はできない。

欲しいのは、無条件に従う兵なのだ。

加えて、この無条件に従う兵は迅速に集めなければならない。

信長は強引な手段を使うしかなかった。

これこそが信長と光秀の悲劇へと繋がってしまった大きな問題だと思っている。これも後で描くことにしたい。



第10節 室町幕府滅亡


さて、人々の支持を失った幕府は弱かった。槙島城はあっけなく落城し、足利義昭は追放される。室町幕府は完全に崩壊した。

いよいよ信長は国の政治を開始する。

その補佐役は明智光秀であった。このため信長は旧幕府の者達を全て光秀の配下としている。

国の政治は大きな立て直しを求められている。地方はそれぞれがそれぞれの都合で政治を行い、戦を行い、人を殺し、金を稼いでいる。富んだ者達は喜んでいるが、奪われた者達は無秩序な世に悲嘆し、普通の暮らしを、平和を、安全を求めている。

しかも問題は国内だけでなく、海外からも迫っている。

この時代、イスラム勢力が地中海貿易を独占し、その利権にからむことのできないスペインとポルトガルは起死回生を狙い大西洋航路を開拓、アフリカ大陸とアメリカ大陸で略奪の限りを尽くし、その矛先を日本を含むアジアへと向けている。


信長と光秀が解決しなければならぬ課題はとてつもなく多い。何が正解かさえ分からない。信長と光秀の手探りが始まる。だが、彼らがやるしかない。



第11節 1582年6月2日再び


舞台は本能寺へと戻る。

「利三、なぜ信長様を討ったのだ!!」

光秀はもう一度叫び声を上げた。

「光秀様、なにとぞ、なにとぞ、ここでそれがしを成敗なされませ…」

光秀は、利三の反応に違和感を覚え始めた。信長を討った者の反応ではない。


そういえば…

光秀はここに来る前に使番が言ったことを思い出した。

信長様が討たれた模様、とは言っていたが、利三が討ったとは言っていない。

だが、明智軍前衛の総大将が利三であったため光秀は利三だと勝手に思っていただけである。

光秀は穏やかな声で訊いた。

「利三、誰が信長様を討ったのだ?」

「光秀様、なにとぞ、なにとぞ…」

「利三、落ち着くのだ。そちが全てをかぶることはできぬ。桔梗の旗が本能寺に攻めかかったことはもはや京にいる誰もが知っている。桔梗の旗はすなわちわしじゃ。仮にそちが信長様を討ったとしても、わしが討ったことになるのだ。そちは明智家筆頭家老であろう。何があったか話せ。策を練らねばならぬ。」



第12節 光秀の決断


利三はここで死ぬつもりだった。全てをかぶって。

だが、光秀の言う通りでもある。ここで光秀の命令ではないと言ったところで誰も信じまい。

利三は本能寺に着くまでのこと、着いてからのことを全て話した。

「光秀様、我が軍の先鋒大将の中で一人行方をくらました者がおります。恐らくは。」

「間者がおったとは…。その者の素性は?」

「かつては丹波の波多野に仕えていた者にござります。光秀様の丹波攻めの折に我らに寝返り、赤井攻めや波多野攻めで抜群の功を上げた者がまさか…」

「その者は波多野に仕えていたと申したな。それは確かか?」

「波多野の八上城落城のおり、城が焼けたため波多野の家臣を記した物は全て焼け落ちてございます。」

「丹波攻めでは多くの城が落ち、焼けた。素性を吟味できぬ者は多かろう…。」


光秀は、自らの足元にとてつもない脅威を抱えていたのだ。

今になって見落としていた事実に気付き、光秀は強い衝撃を受けた。

「我が家はどうなるのか。我が子達は?家臣達は?煕子、わしはどうすればいい?」

利三は光秀の苦悩が痛い程に伝わった。

「わしは大きな過ちを犯した。だがこの現実を変えることはできぬ。我が家を守るため戦うしかあるまい…」

光秀は苦悩の先に一つの答えを見出だしたようである。

「利三、信忠様はまだ妙覚寺におられるのか?」

「隣にある御所に移られております。京にいる信長様直属の軍の将が次々と集まっておるとか。妙覚寺では手狭なゆえ移動したものと思われます。」

「信長様直属の兵達は?」

「安土から動いたとの知らせはありませぬ。」

「こちらに向かったとしても間に合うまい。将がここにいるならばむしろ幸い。これより、信忠様を…討つ。」

織田信忠は、織田信長の長男である。このとき既に信忠は織田家を相続し当主となっている。信長は正確には隠居の身であった。隠居とはいえ、権力は絶大であったが。


遂に光秀は織田家への謀反を決断した。

今はなき妻、煕子の忘れ形見である子達を守るため、家臣を守るため彼自身が最も嫌っていたはずの、主君への裏切りを。

この日、すべてが狂い、すべてが変わった。



第13節 1582年6月13日


それから羽柴秀吉の、いわゆる中国の大返しはあまりにも早かった。

だが明日、羽柴軍に勝てば、あの日をやり直せるかもしれない。

もう一度光秀様にやりなおす機会を…

利三は眠れなかった。

そして、決戦の朝を迎える。


(第2章 本能寺 終わり)

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