またあした

 誰かを捜そうと思うと、伯爵の屋敷は腹が立つくらいに広すぎる。紙とペンをもらって、通った場所を記して歩かないと、あっという間に迷子になる。

 モニカもクルスもふさぎ込んでいて、私もじっとしているとニコのことを考えてしまうから、余計にただひたすらアンリを捜しまわった。

 そうして毎日過ごしていると、唐突に他とは少し違う造りの場所に迷い込んだ。屋敷には中庭などもあって、どこもそれなりに明かりが入るようになっているけれど、迷い込んだその通路はとても薄暗い。しかし廊下の中央には埃がほとんど積もっておらず、誰かが定期的に通っていそうだった。いけない場所に入り込んでしまったかと不安で、自然と忍び足になった。

 暗い廊下は道幅も狭く、両脇に迫る壁には圧迫感がある。視界が悪いため壁に指先を添えて進むと、やがてぽふっとカーテンのような物に行き当たった。たっぷりとした深い色の布が、仕切りのように上から吊られている。掻き分けて進もうと伸ばした手は、宙で止まった。布の向こうから、微かに声が聞こえてきたからだ。

「アンリ、顔を上げろ」

 低い声だ。誰だろう、と一瞬考えたけれど、この屋敷に男の人なんて伯爵しかいない。そんな当然のことがわからなかったのは、聞こえた声に伯爵らしくない情感だとか、ある種の熱が篭もっていたからだ。アンリ、と名前ごと舌先でねぶるような声。笑っているのだろうか。

 そろ、とごく慎重に布へ指を掛け、作った隙間に片目を寄せる。

 部屋の中は雑然として、いくつかの胸像や画具が脇に寄せられていた。壁一面に、大小様々な絵が飾られている。

 そのどれもが黒髪の少女のみを描いていた。淡い筆致が偏執的に、髪の一房の艶や爪先の僅かな血色までを紙の上に映し出そうとしている。その半数ほどで、少女は裸形だった。

 いまも、そうだ。部屋の前方、一段高くなったところで横座りをした少女が、アンリがここから見えた。項垂れるように深く俯いて、まっすぐ落ちた髪がその表情を全て隠す。薄い肩も、背骨の連なりも、丸い踵も、魚の腹のように褪めた白さだった。

 横合いの、私に見えない場所から溜息が聞こえた。

「……まあ、いい。動くなよ」

 ギッ、と椅子をずらす音、筆を厚い紙へ滑らせる微かな音。きっとあの影の落ちた瞳に、いま彼女は見つめられているのだろう。言われたままに、その身体は微動だにしない。肋骨の凹凸が、呼吸に合わせて静かに膨らむ。あの真っ赤なドレスをはぎ取られ、光の下に晒された肌はひたすらに白くて、ただ哀れに思えた。

 そっと布から指を離す。重い布は重力に従って落ちて向こうの景色を覆い隠した。

振り向くと、来たときと同じ薄暗い通路がまっすぐ続いていた。




 アンリは暗い廊下の奥で見つけたけれど、声を掛けることはできず、さらに数日。私は礼拝堂を訪れた。

 来てみたもののアンリがいそうだとは思えなかったし、実際、彼女はここで見つからなかった。彼女の代わり、モニカがそこにいた。

 長椅子に腰かけ、握った両手に額を押し当てている。声をかけられずしばらく丸まった背中を見つめた。足音で人が来たことはわかっていたのだろう。やがて体を起こしたモニカがゆっくり振り向く。

「……エマ、珍しいね」

「モニカ、お祈りですか」

「ええ」うなずいて、それから彼女は頬に微苦笑を浮かべる。「でも、あたし、本当はね? お祈りの仕方なんてなにもわからないの。あたし、ばかだから」

「……え?」

「本当は、神様なんて信じていないの。なにをしてくれるのかも、なにが必要なのかも、あたし、知らないのだもの」

 モニカ、と呼ぶ自分の声が当惑で揺らいだ。ふわふわ笑う彼女のほんとうに近い場所を、いま、わずかに見せられていると思った。滔々と、不気味なような無感動さで心を吐露する。ニコの件もあったから余計に、何かの先触れのようで、彼女の普段と違う様子が恐ろしかった。

「信じていないけれど、でも、あたしを救ってくれるものを、あたしはここしか知らないから」

「救う、です、か?」

「痛いのと怖いのは嫌だってお祈りを」

 ステンドグラスを透過した混ざりものの光が邪魔で彼女の表情がよくわからない。相変わらず薄く笑っているようではあった。

「あたし、もうすぐ卒業なの。だから少しナイーブになってしまって」

「卒業……?」

「血の色がただの赤に変われば、あたしたちがここにいる意味もないから」

「そっか……モニカ、もう、そういう年ごろですものね」

 羨ましいけれど、さみしいです、と言う私に、モニカはうん、とどこか上の空で返した。


 今は側にいるのも迷惑になる気がしたから、モニカを置いてひとりで礼拝堂を出る。押し開けた扉の横に、くすんだ金髪の少女がいて驚いた。クルスは壁から背を離し、ドレスの裾を軽く払った。

「クルス、来てたんですね。中には?」

「いえ」

「……中での話、聞いてましたか?」

「聞いてはいないわ、聞こえたの。私は盗み聞きなんてしないもの」

「……あの。あれって、どういう」

 尋ねると、一瞬険しくなった蒼の目が私へ走る。一度の瞬きでその険しさは幻のように霧散した。物憂げな、麗しい令嬢の横顔が後に残る。

「知らない。私は、なにも。……エマ、行きましょ」

 ほっそり柔い指が掌に絡み、くいと引かれるのにあらがわずついていく。

 礼拝堂を囲む庭は陽光に照らされ、咲き誇る黄色のマリーゴールドが華やかだった。ニコが戻ってこないことも、モニカが謎めいて笑ったことも、私がアンリと会えないことも全部嘘みたいに完璧な景色だ。さく、さく、花を踏みしだいて歩く。不意に、「エマ」とクルスが振り向かず私を呼んだ。

「なんですか?」

「あなたがいてよかったわ。一人部屋は、久しぶりすぎて、慣れないし」

「ああ……」

 モニカがいなくなってしまえば、残るのは私とクルスのふたりだけ。いっそうがらんと寒々しくなる共同部屋のことを思って怖くなる。無意識にクルスの手へ力を籠めた。

「私も、クルスがいてよかったです」

 ひとりじゃ、あんな場所、いられない。同じことを思ったように、彼女は「そうね」と応えを返した。




 相変わらず時間があれば昼も夜も屋敷をうろつき回っていたので、いつか、そうなることは必然だったのかもしれない。

 ある日の正午、私は伯爵に出会った。

 廊下を進んで、丁字に交わった先を曲がろうとすると、伯爵がちょうど部屋から出てくるところだった。

 先日覗き見た光景を思い出してしまって、いたたまれない気分になる。会釈をして通り過ぎるのを待っていると、彼は予想外に私の前で立ち止まった。

「お前は、ここでなにをしている」

「さ……捜しもの、を」

「そうか」

 なにを言われるのだろうか。伯爵がどんなことを考えているのか本当にわからない。影の落ちた猛禽の目が刺すように鋭く、身を縮めた。

 伯爵は、低く響く声と、変わらない調子で言った。

「アンリを捜しているのか」

 びく、と肩が震えた。晒されていた肌の白さが、また瞼の裏に浮かぶ。この質問へ、仮に「そうだ」と答えたとしたら、この人はどうするのだろう。

「そ……その……」

「アンリなら、そこの部屋にいる」

 入れば会える。自分が出てきた部屋を指してそれだけ伝え、伯爵は私とすれ違って後方に消えた。静かな廊下に、しばらく伯爵の足音が響いていた。

 信じていいのかと訝しく思ったが、扉を開けてみるだけなら、そんなに危ないこともないだろう。他の部屋と同じ造りの、金属製のドアノブを恐る恐る捻った。

 中は装飾品であふれかえっていて、宝物庫かと見まがうくらいだった。それらに囲まれて、アンリはベッドに座っていた。温室で待ち合わせていたときよりも退屈そうな横顔だ。久しぶりに、顔を見られた。

 彼女は扉の音に反応して緩慢に視線を向け、入口に立つ、私の姿に唖然と目を見開いた。

「え、エマ……? どうして、ここに」

「さっき伯爵に会って、アンリならここにいるって教えてもらいました」

「は、伯爵に?」

 アンリの顔色が、目に見えて悪くなっていく。そんな、嘘、とうわごとのような言葉が零れる。

「アンリ? どうしたんですか?」

「……ここから、逃げよう、エマ。もうそれしか」

「逃げる? どういうことですか?」

「だめなんだよ! もう、逃げるしか道がない。あの人は怖い人だ。……エマ。いい子で、言うことを聞いて」

「は、はい。あの、アンリ?」

「今日の晩、温室で落ち合おう。荷物はできるだけ小さくして。できるよね」

 モニカもクルスもニコも、ほとんど誘拐されたような身なのに、逃げだそうと言い出すことはついぞなかった。それは、ここの暮らしがそれほどひどくはないというのもあるだろうけれど、それ以前に脱出が不可能だからではないのか。考えてみれば私たちは孤児みたいなもので、逃げてもその先はきっとない。

 それでも、私は否定の言葉を呑み込んだ。

「わかりました。夕食後に温室へ向かいます」

「うん。約束」

 アンリはそっと微笑んで、さあ、もう戻って、と私の背中を押した。廊下に出た私の後ろで扉の閉まる音。一人で放り出された廊下は耳が痛くなるほど静かだった。




 温室には明かりがなく、夜は不吉なほど暗かった。見つかるのが怖くて明かりを持たなかったから、余計にそう思う。ガラスを透過するか細い星明かりの下で、赤いドレスが滲むように映った。アンリはすでに温室にいた。

 彼女は私を認めて、なだめるように笑った。

「来たね、エマ。行こう」

「……はい」

 アンリの背中が私を先導する。ここ数日で屋敷の造りには多少慣れたけれど、外は不案内のままだ。彼女を見失うことはすなわち迷子になることだった。昼間の彼女の剣幕からして、迷子だけで済むのかはわからないけれど。彼女の纏う赤色は気を抜くと夜闇に溶けてしまうので、必死に目を凝らした。

 歩く方角からして、私たちは以前遠くから見た黒い森に足を踏み入れているらしかった。足場は当然のように悪く、草につま先を取られそうになる。

「あ、アンリ、どこに向かっているんですか?」

「出口だよ。もう少しのはずなんだけど……」

「出口、ですか? このまま森を抜けるわけではなくて?」

「この敷地は高い塀で囲まれているんだよ。でも、一つだけ出入り口がある」

 確かに、私たちは伯爵の敷地の外から来たのだから、出入りのための場所はあるはずなのだ。きょろきょろ辺りを見回していたアンリが、不意に「あ」と声を出す。

 アンリが指さした方向の、木立の奥に、僅かに砂色の壁が見える。彼女の案内は正確だったようで、近づくとアーチ状の門も見えた。よかったですね、と言いかけて、見上げたアンリの表情に気づく。

 教学と絶望の張り付いた、ひどい顔だった。「ああ、なんで」と彼女の唇が小さく零した。

「アンリ、なにかおかしいんですか」

「……いつもはこの時間、扉が開いたままなんだ。夜中に物の運び入れをしてて、その間……。あの人は、全部わかって」虚ろな声だった。唇が、声の空虚さと対照的にわなわな震えていた。「わたしは、試されていた」

 尋常ではない様子に戸惑う。立ち尽くす彼女の袖を小さく引いた。

「アンリ、その、今日は諦めて戻りませんか。別の、もっといい方法を考えましょう。大丈夫ですよ、ふたりなら」

「だめだよエマ」

 アンリは泣きそうな顔でそう言った。彼女のそんな顔を見たのは初めてかもしれなかった。強く唇を噛んで、そこから血が滲んでいるのがわかる。

「もう全部、手遅れなんだ。……どうしてなんだろう。わたしはただ、きみと」

 そのとき、がさりと下草を掻き分けるような音が、遠くで聞こえた。アンリがはっとそちらを向いて、怯えた表情をする。

「来てしまう。あの人が、は、伯爵が……」

 アンリが言うように、それは心なしかこちらに向かってきているような気がした。アンリは呆然といまにも座り込んでしまいそうな様子で、どうすべきなのか、判断しかねた。

「あ、アンリ、あの、逃げなくていいんですか?」

「……いや、そうだね、逃げよう」

 彼女は私を先導しようとするけれど、いまはもう行く当てを失ってしまって、足取りがふらふらと頼りなげだ。時折聞こえる物音に追い立てられるように森を彷徨っていると、木立の間に高い建造物の影を見た。

「アンリ、あそこ、行ってみましょう」

「わ、エマ、待って……」

 アンリより前に出て、少し駆け足で進む。本当に追いかけられているのか、確かめられてはいないけれど、なんにせよどこかで隠れて様子を見た方がいい気がした。

 近くに行ってみると、それは石造りの塔らしかった。苔むして、上へひょろ長い円筒状の外観をしている。入り口は少し高いところにあって、そこまで短い階段が延びていた。中に隠れられるかもしれない。好奇心もあってさらに塔へ近づくと、アンリも後ろから付いてきた。

「伯爵、本当に私たちを追いかけてきているんですか?」

「どうだろう。足音みたいに聞こえたのは、本当は気のせいだったかもしれない。こわくて、聞き間違えただけかも。……けど、いつかあの人はわたしを探しに来る」

 それは絶対、と彼女は確信を込めて呟いた。

 中に入ると、らせん階段が壁に沿って遙か上へと伸び、それから下へも同じように階段が続いていた。どうやら地下室があるようだ。少し隠れて様子を見るだけなら下の方がいいか、と階段を降りようとすると、アンリが「そっちは」と嫌そうな顔をする。

「アンリ、ここに来たことがあるんですか?」

「うん、ちょっと……。行くなら、上の方にしない?」

「でも、上、ずっと先まで続いてます。登るのは大変だし、少し隠れるだけなら、下に降りた方がいいんじゃないですか。それとも下の階って、なにか危険なものが?」

「それは、ないけど……」

「じゃあ、行きましょうよ」

 危険はないとアンリも言うので、階段に足を掛けてみれば、彼女も渋々といった様子で後を追ってきた。

 階下は、ものも見えない暗さだった。少し目が慣れると、黒っぽく汚れた桶が隅に置かれていて、同じように変色した布が掛かっているのが見える。戸棚もあるけれど、戸が閉まっているため中身はわからない。

 見回して、壁面に目が留まる。ほとんど床に近い低い場所に点々と汚れが残っていた。開いた花のような小さい模様。五枚の花弁が縋るように石壁へ押しつけられる。「手形?」口にしてからはっとした。思わず自分の掌を見つめる。これよりずっと、小さい。手の跡だとするなら、もっと幼い子供のものだ。

 頭に浮かんだ顔が消えなくて無意識に呼吸が浅くなった。暗いから色の識別はできず、そのことに私は安堵していた。深い、森のような濃緑をもし見てしまったら。確信を得たくなかった。

 胃液が上がってきて酸っぱい味がした。口元を押さえた私の側へアンリが慌ててやってくる。どうにか彼女の前で吐瀉してしまうことは避けられたけれど。ほとんどがらんどうの部屋なのに、身動きするたびに沈殿した臭気が巻き上がって胸を悪くした。

「アンリ、ここ」

「……やっぱり、この部屋、出よう」

 素直に、はい、と同意した。とても、厭な部屋だ。隠れるためとは言っても、この部屋に長くとどまりたくない。すでに階段を上り始めていたアンリに続く。

 地下から出て、これからどうしようかと考えていると、真剣そうな声音でアンリが私を呼んだ。

「エマ。あのね、考えが、ある。一番上の階、一緒に行ってくれないかな」

「考えですか? それってどんな」

「着いてから」

 考えがあると言う割に、アンリの眉間には深いしわがある。真意の読めない提案だったけれど、彼女の頼みだから頷いた。

「わかりました。でもこの階段、全部上るんですね……」

「うん……そうだね」

 一段、足を掛けて上る。階段には柵がないので壁に寄って進んだ。次第に息が切れて、ぽつぽつとあった私たちの会話が途切れる。歩調を緩めたかったけれど、不思議とできなかった。伯爵はここにいないのに、追い立てられているようだった。ぐるぐるとらせんに沿って上っていると別の世界へ辿り着けそうな気がしてくる。

 けれど到達した最上階は別世界などではなく、ただのがらんとした小部屋だった。家具もなにもない殺風景な空間の、壁面に大きな窓がひとつ口を開けていた。

 ガラスもなにも嵌っていないから、窓よりも壁に空いた穴と言った方が形容として正しいのかもしれない。

「アンリ、ここって」

 彼女は荒い息のまま私を見た。私の手を取って両手で握り締める。

 ――はじめて。

 初めて、私、この人に触った。体温が思考の間を奪う。言いかけた言葉はどこかに飛んで行った。

 触れ合った掌は熱く、私もアンリも汗ばんでいて、ふたり違う周期で脈拍を刻んでいた。

「エマ、わたしを信じて」

 彼女の体温と、まっすぐ覗き込まれた瞳。その二つから流し込まれたように、なにをしようとしているのか全て、わかってしまった気がした。初めからわかっていたようにも思う、というのは、気のせいとか、負け惜しみかもしれないけれど。

 アンリは窓枠に登ると私のことも同じように引き上げる。夜半の風が耳元をくすぐった。彼女は私の手を取って、指を深く絡める。

 窓の向こうを眺めると、空は微かに白み始めていて、黒い人影が塔の周りにぽつぽつと見えた。ニコが倒れた日に、彼女を運んでいった女性たちだった。やっぱり逃げようとしたこと、ばれていたんだ、と他人事のように思った。

「ごめんね、ごめん、エマ」

「いいです。信じてますから」

「うん。……ごめんね」

 きっとここから生きて出るつもりなんてないのだろう。ここでお終いにするのが一番賢いと、彼女はそう判断した。

 すり足で彼女と距離をつめて、甘えるようにその肩へ頬を寄せる。

「アンリ。ずっと、苦しいことばっかりでした。普通の人と違う身体で生まれて、売られて……。だから、こんなに苦しんだんですから、きっと、報われますよね」

 少し落としていた視線を上げて、アンリの目をまっすぐ見つめた。涙の膜が張った瞳は美しくて、その中には私だけが映っていた。彼女が好きだったんだな、と今になって気づいた。

 私は、今この瞬間すべての不幸の清算が済んでしまって、まぎれもなく幸福なのかもしれない。「きっと報われる」なんて、そんなものは、もうとっくに。

 お互いに目を離さないまま、身体が次第に重心をずらしていく。踵が、ずっ、と縁を滑った。そして、私はゆるく目を瞑った。




 悲しい夢を見ていたような寝覚めだった。

 とりあえず起き上がろうとして、身体の右側が思ったよりも軽く、ベッドへ横倒しになった。違和感を覚えて右肩のほうへ目を向ける。わたしは右腕を根元から失っていた。

 部屋のドアノブが回る音がして、伯爵が顔を覗かせる。

「目が覚めたか、アンリ」

「これ、は」

「お前の右腕は地面に叩きつけられた損傷が激しかった。無茶はするものじゃない」

「違う、そうじゃなくて――」

 最後までつかんでいた、大事なものが、大事な人がわたしの手の中にない。かたく絡めたはずの指はほどかれ、その温度すら掌からとうに失われていた。なら、どこに、どこにいるの?

 視界の隅を鮮やかな色がよぎって、その瞬間心臓が一度強く打った。

伯爵の袖口に、鮮やかな陽の色がしみ込んでいた。その色で混濁した記憶が一気に明瞭になる。

 つまり、わたしはあの塔で死に損ねたのだ。そして、エマもきっとそう。あそこで死んでいれば、伯爵の服へ鮮血が飛ぶ機会もない。

 この人はエマを手に掛けたのだ。わたしへの独占欲と血液への蒐集欲で、そのくらいのことをする人だと、わたしは知っている。それを知っていたから、わたしは、誰ともかかわるべきではなかった。なかったのに。

 思わず尋ねた唇が、震えた。

「どうして、わたしを生かしたの」

 どうしてか、と彼は顎を撫でる。何気ないような表情で言う。

「おれがお前をみすみす死なせることはない。お前はおれの全てで、おれの唯一だ。おれのアンリ。苦悩するお前は美しい。おれは、実際、これほどなにかに焦がれたのは初めてだ。おれ以外の何人も、お前の愛や、視線や、言葉を受けるべきではない。あの少女たちでさえ、いまはお前の彩りに過ぎん」

「は……」

 聞いたとたんに臓腑が燃えた。吐く息が炎のようで、なのに耐えきれないほど凍えていた。腹の底に深い穴がある。呻くようにやっと一言を絞り出す。

「……出て行って」

「そうか、わかった」

 わたしの言葉に気分を害した様子も見せず、伯爵は部屋を出た。豪奢な部屋でわたしは一人取り残される。

 エマ。エマ、会いたい。会えなくていい。生きてさえいればいい。それでよかったの。頭の中がぐちゃぐちゃで、けれども妙に冴えていて、たったひとつすべきことだけは鮮明にわかった。

 逃げ出すときに持ち出した荷物はどこにもないようだったから、わたしはまず左手と歯を使って、苦労して枕を引き裂いた。綿に紛れてカバーを掛けたナイフが現れる。その柄を、残った手でかたく握った。

 利き手じゃなくてもやれるだろうか。

 わたしはふらつきながら、裸足で、冷たい床を踏みしめた。

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パレット 猫村空理 @nekomurakuri

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