こんにちは

 温室を訪ねると、本当にいつだってアンリがいた。熱帯を模した気候の中でもきまって首元までボタンを閉めていて、口をつぐんだままだと人形かと思う。話し出せば途端に生気が吹き込まれたように人間らしくなるのが、魔法を見ているようだった。

 アンリは私に優しい。でもそのことを含めて、誰かに話さないよう言い含められている。理由は気になるけれど、聞いていない。無理やりに聞き出してしまえばこの関係は壊れるのだろうと、なんとなく悟っていた。

 温室を訪ねる前に鏡の前で服装を確かめていると、「なにしているのよ」とクルスに声を掛けられる。

「あなた、これから採血じゃない」

「採血、ですか?」

「……ああ、あなた来たばっかりだものね。いいわ、しょうがないから案内してあげる」

「ありがとうございます」

 いつもつんと澄ました態度で、けれど、親切ではあるのだ、本当に。

 スキンシップにためらいのないモニカの影響か、クルスも当然のように私の手を取る。白魚のような指が私の掌に絡んで、ちょっと緊張する。高価な細工物を握らされているようだ。

 採血のための部屋は、いつも生活している区画から少し離れた場所にあった。真っ白な扉の前で立ち止まる。

「一人でこの部屋の中に入るのよ。まあ、すぐ済むわ。行きなさい」

「あ……はい。ありがとうございます、クルス」

 礼を言って、部屋へ入る。その内装も、扉と同じく真っ白だった。飾り気のない白色は、汚れを分かりやすくするためのものだろうか。それほど広さはなく、布張りの椅子が二脚と小さい机が置いてあった。

 椅子のひとつに壮年の男性が座っている。くぼんだ眼窩へ嵌った瞳には、深い影が落ちていた。琥珀色の目が鷹のように鋭い。彼は私へ、一言「来い」と命じる。

「あなた、は……」

「お前は、初めて会うのだったか。おれはお前たちの主人だ」

 そうか、この人が、伯爵。

 もう一度、短く「来い」という呼び声に、足が勝手に動く。人を従わせる声をしていた。座れ、という命令で、一も二もなく余った一脚に腰を下ろす。

「採血を始める。片膝を立てろ」

「は……え? あの、片膝を立てたら、ドレスが、お見苦しいことになってしまうのですが」

「問題ない。腿の内側から血を採る」

「あ、あの、あう」

「早く」

 はい、と顎を引いて、右足の踵を椅子にのせた。白いドレスの布地が、脚を持ち上げるにつれて太腿を滑り落ちていく。唇を噛んでいると、伯爵の手が右膝の内側に置かれ、ぐ、と力を掛けられる。片脚を押し広げる形で固定された。確かにそうした方が、血液が採取しやすいのだろう。頬が熱い。耐えた。伯爵の目は、しかし温度がないままで、心底から私自身に興味がないことが知れる。きっと彼は絵の具を水で溶くときでも、同じような目をしている。

 彼の指が柔らかい皮膚の上を探るように滑る。彼の手にした注射器の先端が、斜めに私の皮膚の下へ侵入する。鋭く冷えた痛みが走って、つま先が震えた。

 私の見ている先で、ガラスの入れ物の中を、アプリコットジャムに似た鮮黄色が満たしていく。

「美しいな」

 彼はそう零した。

 脱脂綿が当てられ、注射針が引き抜かれる。血液が溜まった注射器は、コトンと脇に置かれる。

「裾を整えろ。戻っていい」

「は、はい」

 言われたとおり、急いで裾を直して一目散に部屋を出る。急ぎすぎて少し失礼な態度を取ったかもしれなかったが、伯爵は出て行く私に一瞥もくれなかった。

 部屋の外にクルスはもういなかった。落ち着かない、急いた足は温室へ向かっていた。知らなければ辿り着ける気がしない複雑な順路を辿り、ガラス製の重い扉を開けると、湿気と熱気が、むわ、と溢れる。蒸れた草木の匂い。

「エマ。いらっしゃい」

 穏やかな声が耳朶を打った。大きな葉の影からアンリが現れる。昨日も会っているのにとても懐かしい気がした。ちょっとの間言葉が見つからず、下唇を噛んだ。

「……こんにちは、アンリ」

「待ってた、ふふ。果物がいくつか熟していたんだよ、エマ」

「そ、ですか」

「……エマ、ちょっと元気ない?」

 どうでしょうか。答えた声は、自分でもわかる程度には暗い。私も私が、何に対してそれほどショックを受けているのか、わからないでいるのだけれど。白皙が私の顔を覗き込んで、その手が頬に触れる、直前で引っ込む。

「顔色も悪いかな。……採血してきた?」

「……はい」

「そう。花壇の端、座って休むといいよ」

 彼女に誘導されるまま、高い花壇のへりに座った。私の正面でアンリがしゃがんで、彼女に顔を見上げられる形になる。

「大丈夫? 痛くなかった?」

「それは、平気、です」

「怖くはなかった? 恥ずかしいよね、あれ」

 ちょっと怖かったです、と言ったつもりの、私の声はほとんど吐息のようだった。

怖くて恥ずかしかった。その通りだ。男の人の目に、身体のやわらかい場所をさらしたことなんてほとんどない。下着だって見えていたと思う。それなのにあの人は全く理性的で正常な、凍った目をしていた。それが、すごく怖かった。決して欲の篭った視線がほしかったわけではないけれど、でも、この屋敷の中で私は人間ではないのだと、あの目が告げている気がした。

「アンリ……」

 喉が引きつって、無様に縋るような声が出た。私の目から水滴が生まれて、膝の上に落ちる。泣きたいわけじゃないのだ。手の甲で拭うと拭った分だけ涙が溢れ、腕を伝って肘まで流れた。歪んだ視界の中で、あやすようにアンリが頷くのがわかる。

「怖かったね。大丈夫だよ。わたしがいるからね」

「うえ……?」

「あの人がきみを大事にしないぶん、わたしが、きみを大事にするからね」

 包むような声音だ。妙に上ずっても聞こえた。この場所にひとりでも私を尊重する人がいると言葉で示されて、確かに安心した。肩から力が抜ける。ぐずぐず、垂れてきた鼻水を啜った。もう一度目元を拭くと、少し視界がはっきりする。アンリの顔が見える。

 しゃがんで私をのぞき込むアンリの頬は、薄く紅潮していた。温室の熱気で蕩けたような瞳だ。エマ、と呼んだ彼女の手が、私のドレスの端に触れた。

「ねえ、きみの血はどんな色? 採血の痕、見せて、エマ」

「あ、アンリ……?」

「わたしも見せるから。だめ?」

「だめ、というか……」

 悲しそうな顔をされて、うっと言葉に詰まる。ずるい表情だ。頷かざるを得ない。でも、どうして彼女はこんなこと、言い出すのだろう。真意が読めないまま、じゃあ、と口に出す。

「アンリの方が、先に見せてください」

「いいよ。ほら」

 びっくりするほどの即断で、するすると赤く裾の長いドレスがまくり上げられていく。次第にあらわになる、足首も、ふくらはぎも、膝も白い。見ていいと言っているのだし、一応私が頼んだことでもあるけれど、どぎまぎして目が泳ぐ。逸らしかけた瞳を、「見てて」という言葉が釘付けにする。

「ほら、ここ。これは、一昨日くらい。見えるかな」

 温室の空気そのもののようなじっとりとしたささやきが耳に流れ込む。アンリは腿の内側を私の方に向け、親指で皮膚を引っ張った。伸びた皮膚の上に、薄赤いちいさな点が見えた。

「赤色、ですか?」

「うん、赤。わたしは伯爵の赤絵の具だよ」

 つまり、彼女はその体質において特異な点はないのだ。普通の人の、赤色をした血液。いいな、と思ったが、結局ここに行き着いている彼女をうらやむのもお門違いのような気がした。

 もういいかな、と赤色の布が広げられて、彼女の脚は一瞬のうちに隠れる。

「次は、エマの番だね」

「……やっぱりいやっていうのは」

「だぁめ」

「はい……」

 諦めて、花壇に右足を置き、布地に手を掛けた。温室は暑くて熱が篭もるから、ドレスをめくるほど涼しくなるはずなのに、熱い。俯いた顔や身体が汗ばむ。覗いた、できたばかりの注射痕に、アンリは手を伸ばす。

 彼女の指は、肌に触れないぎりぎりの距離で、傷痕を撫でるように動いた。触れられていない皮膚の表面からくすぐったいような刺激が襲って、びく、と首を竦めた。アンリの瞳が、僅かに血液をにじませた採血の痕を注視している。伯爵とはまた違う意味で、耐えられない、と思った。どうして耐えられない? わからない、でも。

「綺麗な黄色だね」

「あっ、……アンリ、もう、いいですか」

「うん。ありがとう、エマ」

 ぱぱっと裾で腿を覆う。肩に入っていた力が抜けて、はあ、と息を吐いた。

「どうしたんですか、アンリ、急に」

「どうして――どうしてだろう」

 彼女も、改めて考えると不思議、みたいな表情で口元に手を当てた、

「ただ、見たくなったんだ。エマの皮膚に穴が開いて、血管に針が差し込まれて、そこから血が吸い上げられたんだって思って。それは……とても、かなしいけど、すてきなことのような気がした」

 どうしてだろうね、ともう一度言って、アンリはなんでもないように笑った。その笑顔が見ていられなくなって顔を伏せる。耳が熱い。どうして、なんて、私に訊かれたって知らない。




「エマ、可愛いね、そのハンカチ」

「そうですか? えへ……。この刺繍、自分でやったんです」

「すごい。わたしはそういうの全然だめだから」

 不器用なんだよねえ、と彼女は白い指を振って苦笑する。刺繍といっても褒められるようなものではなく、ちいさな花の模様が散らしてある程度だ。本当にただそれだけの、どこにでもある白いハンカチだけれど、あまりじっとアンリが見てくるものだから「あげましょうか」と尋ねた。

「……いや、いいよ。悪いから」

「私は構いませんよ、ハンカチの一枚くらい。アンリが気に病むのなら、なにかと交換しますか?」

 うーん、と彼女はしばらく考え込む。考えに考えた末、こくんと頷いた。

「する。交換、したい」

 言って、アンリは上まで留めていたボタンをいくつか外し、自身の首の後ろへ手を回した。軽い、澄んだ音がして、細い鎖のようなものが彼女の服の下から現れる。

「これ、あげる。でも、あまり人には見せないでね。特にあの人……伯爵には、絶対に」

「わ、わかりました。ありがとうございます」

 言い含める語調に気圧された私の手に、華奢なチェーンのネックレスが置かれ、代わりにハンカチがアンリへ渡る。受け取ったアンリは、頬を染めてはにかむように笑った。

「ありがとう。嬉しいな。エマが刺繍したんだよね」

「はい」

「エマが自分の時間を使って、花の模様にしようって決めて、刺繍針に糸を通して、全部、刺繍したんでしょう?」

「そう、ですね」

 一応そういうことになるけれど、なんだか細かい。

 ネックレスをポケットにしまおうとして、少し怖くなってやめた。絡まりそうだ。アンリが私のものを持っていて、私もアンリのものを持っているのは、結びつきが深まるような気がして嬉しい。掌の中にぎゅっと握ると、鎖が手に食い込む感触がした。


 ネックレスを四人部屋のどこにしまっておこうか思案していたところ、折悪く人が来る。軽い、未成熟な足音でニコだとわかる。アンリはあまり人に見せるなと言っていたから、枕の下にでも隠してしまおうかと思ったのだが間に合わなかった。

「あれ? エマ、それなあに?」

「……何でもないですよ」

「嘘。エマ、妹になるって言ったでしょ? お姉ちゃんに嘘ついたらいけないんだよ」

「そんな決まりはないと思います~」

 力一杯握った拳の中に隠してみたところ、ニコの小さい手で指を一本一本剥がしにかかられる。結局根負けして、力を緩めてしまった。現れた細いネックレスを、ニコが興味津々の目で眺める。

「綺麗ね、これ」

「……もらい物です」

「いいなあ。ニコ、ちょっと借りてもいい?」

「え、それは……」

 あまり、気は進まない。ニコはわざと人の物を壊すような子ではないけれど、不注意で、ということはあり得る。アンリから見せびらかさないよう言い含められたものを人に貸すのも躊躇われた。

 困っている間に、ニコがネックレスを手に取ってしまう。怒ろうかとも思ったが、彼女があまりに目を輝かせているので、つい絆された。仕方のない姉だ……。

「……しょうがないですね。でも、この部屋の中だけで――」

「本当? やった!」

「あ、こら!」

 許すやいなや、ニコはネックレスを手に持ったまま部屋を飛び出していった。大方モニカやクルスへ見せに行くつもりなのだろう。ああ失敗した。渡すにしても先に注意をするべきだった。

 後を追って部屋を出るが、すでに小さな背中はどこにも見えない。どこかで角を曲がってしまったのだろう。この屋敷の入り組んだつくりを恨んだ。

 少なくとも夕食時に食堂で一緒になるはずで、そこで返してもらうまでは、なにも起こらないことをただ祈るしかなかった。


 そのあともこちらが迷わない範囲でニコを捜しはしたのだが、案の定見つからずに夕刻になった。どこかで、ぼおん、ぼおん、と時計が鳴っている。食堂に集まる時間だ。

 食堂に着いたときには、すでに私以外の三人が待っていた。「遅いわ」とクルスに挨拶代わりの文句を言われる。

 ちなみに、アンリが食事の時間に顔を出したことはない。どこか別のところで食事をとっているのだろう。

「ごめんなさい、クルス。……ねえニコ、あれ、返してもらえますか?」

「うん。ありがとうエマ」

「どういたしまして」

 ニコから受け取って、軽く状態を確認してみるが、変わりはない。持っていても食事の邪魔になるので、アンリがしていたように首に掛け、襟の下にしまった。モニカやクルスはすでにニコから見せられていたのか、ネックレスの存在についてなにも言わない。

 ねえ、エマ、とニコが袖を引く。

「なんですか?」

「さっきね、伯爵に会ったよ。そのネックレス褒めてくれた」

「伯爵に?」

 アンリの言葉がよみがえる。伯爵には、絶対に見せないこと。彼は褒めていたというけれど、どういうことなのだろう。なんだか意図が分からなくて嫌な感じだ。明日アンリに相談してみよう、と思う。

 夕食は、ふわふわのパンとほうれん草のサラダ、ロールキャベツのクリームソース煮、だった。キャベツが肉厚なのにやわらかくておいしい。

 いつも通りに食事をしていると、パンを大きく千切りすぎだ、というクレームがクルスから入った。べつにいいと思う。モニカはただ笑って、私たちのやりとりを眺めていた。

 不意に、カラン、となにかが落ちた。テーブルの上に、ソースまみれのフォーク。今の今まで、ニコの握っていたものだった。けほ、とまだ幼い声が咳き込む。ぷっくりした唇の端から、たらりと緑の血液が垂れる。

「ニコ……?」

「え、エマ……」

 ニコはちいさな手でその喉を押さえていた。見開かれた栗色の瞳と、目が合った。

 次の瞬間、ニコの身体が吊り糸を絶たれたように前へ傾く。ぺちゃ、と音がして、彼女は顔からクリームソースに突っ込んだ。

 そのまま、彼女は動かなくなった。

「ニコ!」

 椅子を蹴って駆け寄る。料理はどれもまだ熱くて、顔を浸けていて平気なはずがないのだ。

 クルスも同じようにニコの側で彼女の名前を呼んでいて、モニカはとても青い顔で震えていた。いくら大声で呼んでも、助け起こして肩を揺すっても反応はない。そのとき、食堂の扉を開けて、黒づくめの女性が複数入ってきた。

 エプロンドレスを脱いだ給仕服に近いような格好だ。その顔は黒色のベールで覆われており、ひとりの容貌もうかがえない。紅い唇だけが印象的だった。

 私たちに一礼をして、動かないニコの身体へ手袋をはめた手を伸ばす。そして彼女たちはニコを腕に抱え、そのまま部屋を出て行こうとする。待ちなさい、というクルスの言葉は黙殺された。くたりと垂れ下がったニコの腕が目に焼き付いていた。

 そうして、ニコは私たちの前から消えた。


 翌朝、共同部屋の扉前からモニカの短い悲鳴が聞こえてきて、驚いて外に飛び出す。彼女はぺたんと床に座り込んでいた。どうやら腰が抜けてしまった様子だった。その視線を追って、扉の外装に目をやる。

 カンバスが一枚掛けてあった。白い表面に太い線がのたくっている。手つきが幼く種類も判別できない花の絵、それから、文字。インクは濃緑ただ一色で。

『Good-bye, Monica, Cruz, anb Emma.』

 釘づけにされたように視線が逸らせなかった。andのスペルが違う、と思う。

 これ、なんですか、と問う私の言葉にモニカは応えず、細い声で一度ニコの名前を呼んだ。


 その日からアンリが温室に現れることもなくなった。

 私とアンリが関係を終わらせるのはこんなに簡単なことだったのだと初めて気づく。どちらかが温室に行かなければそれでおしまい。でも、これで終わりなんて認められない。こんなに謎ばかりを残して。

 ニコがいなくなった理由は図ったように私を避け始めた彼女がきっと知っている。もしかしたらニコの居場所も。それからただ単純に、私が彼女に会いたいから。

 アンリを捜そう。

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