パレット

猫村空理

初めまして

 絵画のような、金の陽を浴びる屋敷が一番初めに目に入った。

 ここまで私を運んできた馬車は窓が目張りされていたため、久しぶりに感じる日光で目がくらむ。すぐに視界は回復したけれど、本当に自分の目が見えているのか、立ったまま夢を見ているのじゃないか、疑ってしまって仕方がない。生まれて初めて見るような、大きな建物だった。ひとめで全貌を把握できない。

 私を連れてきた男が、いつまでも呆けて動かないこちらの背中に手を添える。軽く押されるまま進み、巨大な扉を引き開ける。

 高い窓から陽がいっぱいに降り、木製の床も壁も飴色に艶めいていた。そのエントランスの中央に少女が一人立っている。彼女はどうやら私を待っていたようで、こちらの姿を認めて微笑み、可憐な所作で会釈をする。彼女の腰ほどまである鳶色の髪がふわふわ揺れた。

「こんにちは、新入りさん。あなた、お名前はなんというの?」

「私、ですか? 私、エマっていいます」

「エマ。あたしはモニカ。ここでは年嵩のほうだから、なにかわからないことがあったら、あたしに訊いてね」

 浅い青の瞳でそう言う。おっとりした落ち着くしゃべり方だった。年嵩、と言うけれど、彼女は私よりふたつみっつ年上にしか見えない。十六、七歳くらいだろうか。

 モニカと名乗ったそのひとを観察していると、私の後ろに控えていた男が「では」と低く告げる。気をつけてね、と言うモニカへ目礼で返して、彼は扉の向こうへ消えてしまった。

 去る姿を目で追って、重たい扉がゆっくり閉まるまでを眺めていると、そばに来たモニカに手を握られる。

「長旅で疲れていると思うけれど、屋敷を少し案内するわ。ここは広いから、さしあたってよく使う場所だけ。さあ、来て」

 柔らかい手に手を引かれた。先導する背中は、窓沿いに続く廊下へ向かっているようだった。

 それにしても、広い屋敷だと思う。吹き抜けのエントランスは縦にも横にも広すぎて、大海の上にぽとんと落とされたような気分になる。どのくらいのお金があればこんな建物ができあがるのだろう。なにより、いったいここは、なんなのだろう……。




 手を繋いでいてもらえなかったら、あっという間に迷子になっていたかもしれない。さしあたりよく使う場所だけと言っていたとおり、それほど多くの部屋を回ったわけではないのに、かなり長い間歩き回っていた気がする。ふくらはぎにじんわりと疲労がたまっていた。

 いまは、案内もかねて立ち寄った食堂で休憩をしていた。モニカが私に淹れてくれたハーブティは、なにか果実が入っているのか仄かな酸味があった。花を思わせる香りとあたたかさにぼうっとしてしまって、軽く頭を振った。

「お屋敷の大きさの割に、食堂は小さめなんですね」

「そうね。屋敷の中はいくつか区画が分かれていて、それぞれに食堂があるみたい。ほかの区画の人と会う機会はほとんどないから、あたしもよく知らないけれど」

「はあ……。お金持ちなんですね、ここの人。私、どうしてこんなところにいるんでしょう」

「エマは、なにも知らないの?」

 少し意外そうに、モニカはそう訊いた。頷いて返す。

「家族が誰かからお金を受け取ったのは知っているので、下働きでもさせられるのかと思っていたんですが、なんだか違うようですし」

 今のところは下働きどころか、どちらかといえば賓客扱いの趣すらある。ここに来る前にお風呂に入らせてもらった。貸し出されたドレスは私もモニカも真っ白で、とても家事に向いている服装ではない。

 そう、とモニカは返事をして、視線を落とす。そして言葉を選ぶように、ぽつぽつとこの屋敷についての説明を零した。

「伯爵は……この屋敷の持ち主は、条件を満たす女の子を探して、ここに集めているの。伯爵の本邸は別にあるそうだけれど、たいていこちらで寝泊まりしていらっしゃるから、エマもいつか会うわ。そのときは……失礼のないようにね」

「条件、ですか?」

「ええ。……ある、特異な体質を有していて、健康体であること。それが条件」

「特異な体質……」

「心当たりはあるでしょう」

 モニカの言うとおりだ。心当たりはある。

 なにをしても平均かそれ以下の私の、唯一他の人と違うところ。そのせいで得たものなんて一つもなくて、なにより嫌いな私の特徴。

 口をつぐんで、窺うようにモニカを見た。モニカは自身の指を口元まで持っていって、ほの赤くふっくらした唇にくわえた。

 そのまま、強く歯を突き立てる。思ったよりも鋭い犬歯が彼女の指に食い込んで咬傷になり、やがてぽたぽたと、磨き上げられたテーブルに液体が滴った。

 モニカの指の表面を滑り、テーブルに落ちた血液は菫色をしていた。

 紫に濡れた唇が甘く微笑む。

「あたしたちはみんなそう。この屋敷は、伯爵のパレットなの」




 臍の緒から零れる鮮やかな黄色に、出産へ立ち会った人はとても驚いたらしい。

 私の生まれ故郷は特筆するところのない片田舎で、自分はなんなのかさえ知ることが難しかった。苦労して聞きまわり、私は世界で一人きりの化け物ではないらしいということを知った。

 特異な体質は少女のみに具わる、そうだ。血液の色が生まれつき常人のものとは異なる。怪我などを負わない限り外見からそれと見分けるのは不可能で、健康への影響も基本的に確認されていない。人と違う血液を皮膚の下に隠して生まれ、育ち、そしてある日突然その色は赤へと変化する。

 その日を心待ちに、血の色という秘密を家族以外にはひた隠しにして暮らしていたけれど、その前にこんな、よくわからないところへ連れてこられてしまうなんて。

案内を再開したモニカは、相変わらず私の手を引いて歩く。

「あたしたちは自分の色のリボンをどこかに結わえておく決まりなのだけれど、あなたはもう、受け取った?」

「あ……もらいました」

 渡されたはいいものの、あまりに上等そうな素材だったので、祭日用かなにかと思って背負い袋の奥へしまいこんでいた。綺麗な陽の黄色をしたリボンだった。

 リボンは荷物の中にあるという旨を告げると、「じゃあ、あたしたちの部屋に行きましょう。荷物を広げてゆっくり探すといいわ」とモニカは言う。あたしたちの部屋、ということは、私と彼女は同室らしい。

 こっちよ、と廊下の角を曲がったモニカが、不意に立ち止まる。同時に片手が解放されて、どうしたのかと彼女の肩ごしに前を覗く。

 一人の女性が立っていた。少女なのか、あるいは妙齢に達しているのか、判別し難い容姿だ。真っ直ぐ落ちる黒髪に、目に染みるような赤いドレス。美貌の人だった。

 彼女と話してみたいと突然に思った。声を聴いてみたい。私へ笑ってくれたなら。……くれたなら、何? 展開した自分の思考を怪訝に思う。

 あのう、という言葉尻が意味のわからない緊張でひっくり返った。

「こ、こんにちは。私……エマっていいます」

 よろしくお願いします、と右手を差し出せば、鴉を想起させる黒い睫毛がさわさわと瞠られる。絵に描いたような惚け顔で、その人は小首を傾けた。指ですくえば溶けてしまいそうな黒髪が、幾筋か肩を滑って落ちた。深い黒色が瞬いて私を見ている。

「こ──」

 彼女は言いかけた言葉をはっとしたように呑み込む。そして背けられた横顔に、私は彼女から拒絶されたことを知った。所在ない、握手を求めた手をゆるゆると引っ込める。

 このあと、どうしたらいいでしょうか。助けを求めてモニカを見ると、彼女も私の視線からなにか察してくれたようで、苦笑いのような顔を目の前の美人へ向けた。

「アンリ、この子が、今日新しく来た子よ。よければ、仲良くしてあげて。……じゃあ、あたしたちは失礼するわ」

 押し黙る、アンリと呼ばれた女性に軽く会釈をして、モニカは私の手を改めて握るとその人の横をすれ違う。

 赤いドレスの人と距離が空いてから、モニカへおそるおそる訊いた。

「えっと……あの人は?」

「アンリは、あたしやあなたと同じよ。でも、そうね、少し気難しい人……なのかしら」

 自分でも自分の説明に釈然としていないような、あいまいな口調だ。眉をひそめて笑う。

「以前は、……あたしが来たばかりのころは、あんな風じゃなかったの。だからまだ、あたしもどうしたらいいかわからなくて。あたしが言うことではないけれど、エマもあの人のこと、嫌わないであげて。それでできれば仲良く、ね?」

「……はい」

 モニカを見ていたら、とても「ちょっと荷が重いです」などとは言えなかった。肯ったとはいえ、できるかは、わからないけれど。かなり自信がないけれど。つんとすましたあの人は作り物のような美しさで、血が通っていないようにすら見えた。

 さあ、と気を取り直してモニカが言う。

「そこが、あたしたちの部屋よ」

 彼女が指さした部屋はとりたてて他と変わった外観ではなく、一人でも迷わずにここへ辿り着けるか不安になったけれど、よく見ると扉の横に名前を刻んだプレートが取り付けられている。四人分の名前があった。

「私とモニカの他に、二人いるんですか?」

「ええ。ニコと、クルス。いまは二人とも部屋にいるかしら……」

 呟きながらモニカが扉を開けるのと同時に、小さな人影が飛び出してきた。半ば必然的にモニカにぶつかったその子は、彼女の腰回りへ抱きつくようになって動きを止める。ニコ、とモニカが驚いた声で呼んだ。

 ニコと呼ばれたのは、まだ幼い女の子だった。六、七歳くらいに見える。栗色の髪を横切って、深い緑色のリボンがカチューシャのように結ばれている。

 ぶつかったままの体勢で、ぎゅ、とモニカの服を握り、ニコは私の方を見上げた。真夏の森のような深緑色の目だ。

「あ……。あなたが、あたらしく来た人?」

「うん。エマって名前です。よろしくお願いします、ニコ」

「ふぅん……」彼女はモニカの服に頬を押しつけて上目で私を見る。「小さくないの……つまんない」

「つまんない……ですか?」

 思わず聞き返すけれど、どういうことか答えを得る前に「こら」とモニカがニコの頬をつついた。眉を吊り上げて一応叱っているつもりのようだが、心底で可愛いと思っているのが丸わかりだった。ニコも全然堪えていないようだ。

「ごめんなさいね、エマ。ニコは妹みたいな人ができるかもしれないって、ずっと楽しみにしていたから」

「ああ、なるほど……」

 しゃがんでニコを覗き込もうとすると、逃げるように顔が逸らされる。今度はあの黒髪の人みたいに断られなければいいなと思いつつ、少女へ右手を差し出した。

「私、妹でもいいですよ。ニコが大きい妹のこと嫌じゃなければ、これからよろしくお願いします」

「ん……」ニコは思案する表情で、改めてこちらへ目を向けた。少し間を開けて彼女の手が私の指先を軽くつまむ。「大きくても、いいよ。……よろしくお願いします、エマ」

「それで、どうしてニコは、お部屋から飛び出したりなんてしたの?」

 成り行きを見守っていたモニカが、ニコに尋ねる。ニコは、なにかを思い出したように顔をしかめて部屋の中を指さした。

「クルスがひどいこと言うから。お夕食を、クルスの嫌いなものにしてもらおうと思って」

「ひどいこと言ったの? クルス」

 モニカが部屋の中へ問いかけると、「言ってないわよ」と澄ましたような声で返事があった。部屋を覗くと、四つ置かれたベッドの一つに私と同い年くらいの少女が腰掛けていた。くすんだ金髪をふたつに結い上げている、紺に近いほどの青色をしたリボンが、髪と一緒に流れた。

「それより、そんなこと考えてたの、ニコ。陰険なちびね」

「またちびって言った。ニコ、小さくないよ」

「ただの事実じゃない。私より頭ふたつ小さいんだから」

 自分の半分ほどの歳の子供と口論しているのは果たしてどうなのかと思いもしたが、なんだかんだと仲は良さそうにも思えた。モニカも止めには入らない。やりとりに圧倒されて棒立ちでいた私へ、「そこの、新入りの方」とクルスが急に矛先を向けてきた。

 あまりに突然で、返答に間が開く。クルスが片方の眉を吊り上げる。

「どんくさいひとね。なんだか田舎くさいし。まあ、いいわ。田舎の人間が田舎くさいのは、本人の責任ではないのだし。これからよろしくしましょう、エマ」

「はあ」

 ちょっとよろしくしにくい挨拶だった。「悪気はないのよ、一応。……それほどは」と、モニカから庇いきれていない弁護が入った。

 田舎者と面と向かって連呼してくる彼女自身は、実際、その容姿からも良家の子女だと窺える。皮膚の薄い透けるような肌は、日常的に太陽の光を浴びる必要がない上流階級特有だ。溜息が出るような美しい手指。その繊細な手で、もふりもふりと自分の隣のシーツを平らにした彼女は、私を振り返って小首を傾げた。

「なにをしているのよ。まだ入り口なんかに突っ立って。とろいわ。こっちに来なさい。そして聞かせるのよ、あなたの生年月日から生い立ちまで!」

 ぺしぺしぺしぺし。いまさっき伸ばされたシーツがはたかれてしわになっていく。多分あそこに座れということだと思う。なんか、元気だ。

 一応歓迎はされているようだった。それほど不安にならずとも、これならやっていけるかもしれない。




 連れてこられて数日経てば、生活の流れも大方把握できた。

 朝昼夕の食事と入浴、就寝の時刻が大まかに定められている以外は自由。なにをしていても咎められず、代わりになにも求められない生活だ。慣れない暮らしを、私は同室の三人に倣いながら過ごしていた。

 彼女たちは日に一度、勉強の時間を設けていた。屋敷の図書室は立ち入りも書籍の持ち出しも制限されていないため、その本を教材にして読み書き等の練習をする。

 モニカはニコの隣に座って付きっきりで文字を見ていることが多かった。お嬢様らしく教養のあるクルスが、たまにそこへ口をはさむ。私も簡単な字は読めるから、レベルの合った本を借りてきて側で読んでいた。三人の中にいるとまだほんの少し疎外感を覚えなくもないけれど、穏やかな時間だった。

「ニコ、dとbを間違えてるわ」

「……あ。ほんとだ」

 石板の上、白墨の跡を指でこすり、ニコがスペルを書き換える。課題に没頭する幼女の丸い頬。モニカは彼女をいとおしそうに見つめて、不意にその髪へ指を滑らせた。

 こどもが好きで、人の世話が好きで、そしてニコが好きなのだと全身で語っているようだった。きっとニコがこの先一生dとbを間違え続けてもモニカは構わないだろう。だんだん恋人の逢瀬に紛れ込んだような不思議な気分になってくる。ただの勉強会のはずなんだけど。窓から差し込む金の光もやたらまぶしい。

 瞬きしていると、頭に薄布がかかるような感触がした。視界にくすんだ金糸が垂れる。面を上げれば、すぐそこにクルスの顔があった。

「あのふたり、私よりずっと前からここにいるのよ。ふたりの世界よね。参ってしまう」

「へえ……」

「同じ部屋にあなたが来てよかった」

 見合わせたクルスの目は油絵の具みたいな蒼色をしていた。ぽってりと濃くて深い。その目で直視されるとなにか発言にも深い意図があるのかと思わされ、「どうしてですか?」と尋ねる声に若干緊張がにじんだ。

「人数が偶数になれば余らないで済むからよ、エマ」

「なるほど」

 数字上の理由だった。そう言われてみれば、私もクルスがいて助かったかもしれない。

 隣ではニコがまたつづりを間違えたようだった。




 モニカ、と紫瞳の少女を呼んだ声がしじまに反響して消える。四人部屋の中を覗いても、彼女の姿はなかった。いたのはクルス一人だけ。古びた表紙の本が細い膝に載っていた。

「クルス。モニカ、どこにいるか、知りませんか」

 尋ねると、クルスはアーモンド形の目を細めてわずかに考えたあとで言う。

「たぶん礼拝堂ね。モニカ、けっこう熱心だから。こんなところでなにを祈るって言うのかしらね。……モニカに用事?」

「あ、いえ、姿が見えないので気になっただけで」

「ふうん。なついちゃってあかちゃんみたい。礼拝堂は、正面玄関を出て東に行けばあるわ」

「あ、ありがとうございます」

 合間に悪態をつくわりにいろいろと教えてくれる。どうにも暇だったから、クルスの道案内に従って、礼拝堂とやらに向かってみることにした。


 それは思っていたよりも荘厳なつくりの建物だった。誰が手入れしているのか寂れた様子もない。煉瓦の肌に青い蔦が這っていた。正面にある両開きの扉は、押せば重たい音とともに内へ開く。

 礼拝堂の中で立ち尽くしていたモニカは、闖入者に気づいて半身をこちらに向けた。ステンドグラスの光が彼女の波打つ髪に差し掛かっている。

「……エマ。どうしたの? なにかあった?」

「いえ。クルスが、モニカならここにいると言っていたから、気になって。……ここは?」

「かみさまに祈るための場所よ。伯爵が、あたしたちのために造ってくださったんですって」睫毛を伏せ、モニカは唇だけに微笑みを浮かべた。それはひどくあいまいな笑い方だった。「ここで、たくさん祈れば、あたしたちは幸せになれるんですって」

 熱心に通っているという割に、初めから終わりまで彼女の言葉は伝聞調だった。自分の言葉を心底から信じられてはいないような、断定を避ける語尾。

「モニカは幸せになりたいんですか」

「そうね……。あたしたちだれだって、幸せになりたいでしょう」

 ひらひら真意をつかみにくいことを言い、引き返してきた彼女がいつものように私の手を握る。

「ここの裏、小さい庭園があるの。案内するわ、エマ」

「あ、はい」

 手を引いて、彼女が私を外へ連れ出す。たぶんはぐらかされたのだと思った。それ以上は訊かないことにして、導かれるままに庭園へと足を運んだ。




 ニコの気まぐれで屋敷を連れ回されていたあるときに、窓と向かい合って並ぶ扉の中で、一つだけ様子の違うものがあると気づいた。他よりも少しだけその色が深い。

「この部屋、なんでしょう」

「そこはギャラリーだよ、エマ」扉を見つめる私へ、ニコは言う。「気になる?」

「そう、ですね、気になります。ギャラリーって、絵かなにかが飾ってあるんですか?」

「うん。伯爵が集めた絵とか、伯爵が描いた絵とか。ここにあるので全部じゃないみたいだけど」

 そうして、ニコはなにげなくその扉を開けた。確かに、隙間からでも壁に整然と掛けられた絵画たちが見て取れた。

「勝手に入っていいんですか?」

「大丈夫だよ。ほら、入ろう」

 ニコの小さな手を握って、彼女の後に続く。それほど大きくない部屋の白い壁や仕切り板に、一列に絵画が並ぶ。風景画が多かった。朝靄の漂う船着き場に幾艘かボートが浮かんでいたり、若い緑をしたなだらかな丘の遠くに風車が建っていたり。あとは、のびをする猫の絵などもあった。

「この中に、伯爵が描いた絵もあるんですか? ニコ」

「ううん。伯爵はめずらしい絵の具を使っているんだって。だから、まぶしくならない、部屋のいちばん奥に飾ってるの」

 モニカが言ってた、と最後に付け足す。

 その「伯爵」には未だ会ったことがないけれど、それだけに興味があった。角度が悪くて入り口からだと見えない部屋の角を目指してみる。

 そうして隅のほうに見つけた絵は、ニコの言うように特殊な絵の具を使っているためか、あるいは伯爵の画風なのか、飾られているどの絵とも似つかない色合いをしていた。水彩に見えるけれど、モチーフに色を近づけるというよりは、色彩を主役にして絵を描いているようだった。現実感がない。

 真っ白い背景に、ただ手折られた野花が数本転がっている。胸のざわつくようなヒナゲシの深い赤に、同色のドレスを纏う人がふと浮かんだ。




 驚いたことに、この屋敷の敷地内には湖があるらしい。「窓から見えるあの黒い森も、伯爵の持ち物よ」とモニカが教えてくれた。驚いて、貴族ってみんなそんな感じなんですか、と訊くとクルスが嫌そうな顔をしていたので、伯爵が規格外という話のようだ。

 湖なんていままで見たことがない。敷地内であれば、安全が保証される範囲で自由にしていいと教えられている。軽食をもって湖を見に行こう、と思ったのだけれど、今日に限って誰も見当たらず、結局ひとりで向かうことになった。

 食堂で軽食を作ってもらえないか頼むと、しばらくして籐編みのかごが渡された。埃よけの布がかけられていて籠の中身は見えず、手に持つとずっしり重い。食堂と厨房を繋ぐ窓にはカーテンが掛かっているから、どんな人が私たちの食事を作ってくれているのかはわからないけれど、コックの顔はどうであれ味のほうは折り紙付きだ。

 そうして準備万端で屋敷を飛び出した。ざっくりとした方角しか把握していなかったが、しばらく行けば案外簡単に湖は見つかる。木々の間に、光を受けた水面のきらめきが覗いていた。

 開けた場所に出ると日差しが一気に降り注ぎ、うなじに太陽の熱を感じる。湖畔には、誰かが手を入れているのか柔らかな芝生が広がり、小指の先ほどのちいさな花がぽつぽつと咲いていた。風があまりないため水面は凪いでいる。岸辺できらきらと光を跳ね返しているのは魚の鱗だろうか。そして湖畔には、一人だけ先客がいた。

 真っ赤なドレスを着ているから、離れていても誰だかわかる。裾を腿までたくし上げ、両足を湖水に浸していて、労働と縁のなさそうなほっそりした脚線があらわになっていた。

 彼女に関しては、初対面時のもろもろのせいで「怖い人」という印象がぬぐえない。あまり話しかけたくはない、けれど、モニカの頼みがどうしても頭に引っかかった。モニカのことが、好きだ。彼女に頼まれたことだから、もうすこし、勇気を出してみようと思った。

 そろそろ距離を詰めて、アンリの少し近くに腰を下ろす。向こうも私に気づいていないはずはないのに、こちらへ目もくれずに水中の淡水魚ばかり見ている。

「あの、アンリさん」

 返答はない。もしかして耳が聞こえないのだろうかとも思ったけれど、見ているとそれも違う気がする。聞こえていて、そのうえで自分の意志で無視を決め込んでいる人の反応だ。さらに何度か話しかけて、こちらを見もしない横顔に、ぽっきり心が折れた。

 そもそもモニカへの義理以外で私が苦労し続けるいわれもないのだ。ひとつ息を吐いて、それからは隣の麗人を意識から追い出してしまうように努める。山がきれい、水がきれいだ。魚が泳いでいる。

 魚を見ると、いつも思うことがある。

「この魚、食べたらおいしいのかなあ」

「……え? ……あ、んふふ」

 女神みたいな声がした。見ると、彼女は両手で自分の顔を覆って俯き、扇のように広がった黒髪でその表情が覆い隠されている。ふふ、震えた息が聞こえる。少しして、彼女が詰めた息を苦し気に吐く。涼しい一重の瞳が初めて私を見て、そのことにどきりとする。ガラスの鏃を備えた矢、みたいなものに射抜かれたように感じた。

「……かわいいとか、そういう感想はないの?」

「あ、あります、ちゃんと。ただ生きるのに必要なのって、まず可食かどうかじゃないですか。……アンリさん、喋れたんですね」

「アンリでいい。……話せるけど、でも、きみたちと話すつもりはないよ。申し訳ないけどね」

「どうしてですか?」

 また、アンリは口を噤んでしまう。残念だが、会話ができただけで進歩だ。すこしふわついた気分で軽食のかごに手を伸ばす。

 布をめくると、いくつかサンドイッチが納められていた。真っ白なパンはやわらかそうで、作られてから少し時間が経ったはずなのに、具材の水気で湿らずふわふわのままだ。挟んである具が、感じた重さの分だけ贅沢に厚い。書籍一冊と同じくらいのぶ厚さだ。真っ白のクリームにいちごのジャムが粗く混ざってマーブル模様を描いている。鼻先に持ってくると、いちご以外に爽やかな酸味のある匂いがした。じっくり観察して、一口かじる。

 目を見開いた。

「わ、おいしい!」

 華やかな酸味と甘み、それから小麦の香りが口腔内に広がる。どきどきして、両手に持ったサンドイッチを取り落としてしまいそうだった。いままで食べたものの中で、きっと一番おいしい。

 もぐもぐ口いっぱいにほおばって震えた。カッテージチーズと生クリーム、ストロベリージャムの鮮やかな味。かみしめたパンまで甘くて柔らかでおいしい。へら、と笑った。

 ふと視線を感じてアンリを見る。彼女はぼうっと、私の方を見つめていた。その唇が小さい子供のように薄く開かれている。

「ええと、アンリさ……アンリも、食べますか?」

「あ……え、いや」

 はっとしたように目を瞠って、それから彼女は視線を逸らす。頬が薔薇色に紅潮していた。

 本当は人にあげるのがもったいない気もしたのだけれど、おなじくらい、これを誰かと分け合わないのももったいなく感じた。それに、渡されたサンドイッチはまだたくさん余っていて、ひとりで食べきれる自信もなかった。

 問われたアンリは、逡巡するように瞳を揺らした。私の顔と自分の膝の上を視線が往復している。でもやがて、意を決したようにひとつうなずいた。

「た、食べる」

「食べますか! じゃあ――」

 ふわ、と私の鼻を擽った香りは変哲無い石鹸のものだったはずなのに、どこか夜を思わせる色香を含んでいた。長い黒髪が艶のある液体のように目の前で流れる。

私のサンドイッチから一口分をかじり取って、彼女の身体が離れていく。残された歯形の半円を見つめた。

「ほんとうだ、おいしい」

 控えめな感嘆の声で我に返った。おいしいですか? と自分の声が妙にうわずる。きれいな人の急な接近で心臓が焦って脈打っている。私の胡乱な様子も気にせずに、アンリは相好を崩した。目をつむって無邪気で緩みきった顔だ。年齢のつかみにくい人だと思っていたけれど、こうして見ると結構歳が近いのかもしれない。

「でも、まだ数はあるので、わざわざ私のを食べなくてもいいんですよ」

「あ、あれ、ごめん」

 は、と自分の行動に気がつき、彼女は少し焦ったように視線をさまよわせた。両手で覆った彼女の頬が薄赤く染まっていく。恥じ入っているようだ。

「その、美味しそうな気がしたんだ。きみのが。きみを見ていると。……ごめん、ね」

「謝らなくても、平気です。あの、ひとついりますか?」

「……う、うん。いる、もらいます。ええと……ありがとう」

「いいえ」

 ひとつ手渡す。受け取ったアンリが嬉しそうにほほ笑んだ。まだ頬に血色が残っていて、しどけない笑みだった。

(とっつきにくい人だと思っていたけれど)

 そう見せようとしているだけで、彼女の本質は、もっと別なのかもしれない。彼女の雰囲気がいつの間にかずいぶん緩んでいた。甘味は偉大だ。おいしい、と稀に零す口調が子供っぽくて可愛かった。

「本当においしいね。エマ、ありがとう」

「どういたしまして。でも、お礼を言うなら厨房の人にですね。……アンリ、私の名前、覚えていたんですか」

「うん? うん、覚えてる。印象的だったから。人が来るのは珍しいことだし、それに、わたしは人と話さないから」

「なんでですか?」

「いろいろね」

 言いにくいことのようで、アンリは目をそらす。睫毛を伏せ、黒い瞳がかげる。

「……エマも、わたしと話したってこと、誰にも言わないで」

「どうして? モニカは喜びますよ」

「あの子、世話焼くの、好きだからね……。でも、とにかく、誰にも言わないで」

「はあ、わかりました」

「それで」つんのめったような間を開けて、アンリは言う。「きみも、もう、わたしに」

 そこでふつりと言葉が途切れた。彼女の揺れる瞳が、不意に泣きそうに見えて、私はそれをどうにかしないといけない気がした。身を乗り出して、それだけ距離が縮まる。

「どこに行けば、あなたに会えますか」

「え?」

「あなたのこと、絶対、誰にも言わないので。いつもどこにいますか?」

「え、あ、ええと……。温室、に」そうこぼして彼女は自分の口を押さえる。呼吸一つ分の沈黙。

 後に続いた言葉は反対にはっきりとして、今度は明確に、彼女の意志を伴っていた。

「わたし、よく温室にいる。あの人も、暑いって、あそこには行かないし。わたしと会いたくなったら温室においで。……そうだね、待ってるから」

 そしてアンリは微笑んだ。見る人全てを惑わせるような、はかなくも鮮やかな笑みだった。緩やかな風が私とアンリの間を吹き抜ける。すっかり魅入られてしまって、私はぎこちなく頷くしかできなかった。

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