第18篇『船』

お題『船』


 雨音が遠のいていく。

 それとともに意識が覚醒するのを感じた。

 半ば虚ろな意識のままに顔を上げ、おもむろに外へ出る。

「…………晴れたか」

 夕立は遠のき、晴れやかな空と海が広がっている。

 雨上がりの澄んだ空気と、潮の匂いが次第に意識をはっきりさせる。

 ――約束の時は近い。

 俺は湿った砂浜をゆるゆると歩きつつ、腰の刀に手をやった。

 眠っていた意識が完全に覚醒する。

ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ

 波の音の中、幻影を斬った。

 否――抜いてはいない。

 自らの心象風景の中で刀を抜き、自らの心に現れたる敵の影を斬ったのだ。

 ――斬れる。

 砂浜を踏みしめながら俺は確かな手応えを感じた。

 体調が万全とは言いがたいが、相手を切るのに必要なだけの力は整っている。

 やがて――海の彼方より小舟が一艘、こちらへ向かってくるのを見つけた。

「…………」

 あの様子ではまだしばらくかかるであろう。

 刀を鞘ごと抜き、砂浜に突き立て海の向こうの小舟を見据える。

「この日を待っていたぞ」

 船はまだ遠い。




 その流派は師の興した新参の流派である。

 時は天正の半ば。

 急速に勢力を広める織田信長を討ち果たすべく長大な包囲網が作られ、畿内の各地で戦乱が巻き起こった。

 合戦に次ぐ合戦の乱世の中、師は自らの剣を研ぎ澄ませ、江戸幕府の始まりと共に江戸の城下で中堅の道場としてそこそこの名を馳せた。

 師は強かった。

 彼の剣は本物だった。

 師よりも強いとされる剣士は多く居たが、誰も師を倒すことはなかった。今生き残っているのはその身分の高さ故に果たし合いを受けなかったものたちだけだ。

 その師の剣を究めんと多くの弟子が彼の元に集った。

 だが、師は強すぎた。

 誰も彼の強さを越えることは出来なかったのである。

 それでもなお――技の幾つかを継承することが出来た。

 やがて師は誰にも倒されることのない無敗のまま天寿を全うした。

 残された弟子達は――結局彼を越えることはなかった。

 やがて、後継者を巡って弟子達は泥沼の抗争を繰り広げる。




 ――よくある話だ。

 追想の中、俺はため息をつく。

 どこにでもある、よくある悲劇でしかない。

 かくて最後に残ったのは――どこの派閥にも所属せず、技を磨き続けた俺――西門義四郎と、もっとも多くの弟子を抱えた師範代たる淀川禄衛門だけだった。

 淀川は強い。

 その人当たりの良さ故に多くの弟弟子達の支持を得て最大派閥を形成したが――その実力は一番弟子の名に恥じぬ実力の持ち主だ。

 師には及ばなかったが、彼の力は本物だろう。

 他方、俺は他の門弟達と群れることなく、ただただ技を磨き続け、他流試合を重ね続けた。道場破りの西門とはよく言われたものだ。

 淀川は内向きに強さを深めていき、俺は外向きに強さを磨き続けた。

 彼は友だ。

 孤独を愛する俺が唯一、友と呼べる存在。

 俺は師の後継者であることにこだわりはない。

 道場は一番弟子である淀川が継げば良い。

 されど――周囲は納得しない。

 俺と淀川はもう長い間公の場で立ち会いを行っていない。

 そして――俺も知りたかった。

 道場の外で磨いた自分の剣が彼に届くのかを。

「待たせた」

 追想に耽っていた俺の意識を友の声が呼び戻す。

 いつの間にやら海の彼方にあった船は砂浜にたどり着いていた。

「気にするな。俺とお前の仲ぞ」

 船から淀川が危なげなく飛び降りる。

 着地の音はしなかった。

 ただ無音のまま、静かに淀川は砂浜を歩く。その足跡は驚くほど薄い。

 ――それほどまでに。

 思わず俺は先ほど歩いた自らの足跡を見た。

 それは半刻前のものだが、今もくっきりと残っている。

 淀川は俺よりも長身であり、体重も重い。だというのにこれだけの差がついているとは。

 ――奴は今も自らを高め続けている。決して後継者争いの政争にかまけていた訳じゃない。

 思わず笑みがこぼれ、身体が興奮に震えた。

 まさに武者震いとはこのことだろう。

 今日という日に友と果たし合える喜びが心の渇きを満たす。

「西門殿」

 遅れて立会人である別の道場の師範が降りてくる。名はなんだったか。師の友であった人であるが、俺とは疎遠でよく覚えていない。だが、彼もまた音もなく砂浜に降り立った。老齢ではあるがすさまじき使い手だ。

 俺は何も言わず、深々と頭を下げた。

「立ち会いの願い出に応じていただき、感謝つかまつる」

「なに、古き友の縁ぞ。断れるはずもなし」

 続けて彼の共である弟子達が数人砂浜にばしゃばしゃと音を立てながら小舟を下りてきた。

 俺と友。

 三人の立ち会い人。

 すべての舞台は整った。

 小舟は適当な岩にくくりつけられ、準備が整う。

 いくつかの立会人の説明の後、俺と淀川は宣誓を行い礼をする。

 大の大人の四人分の距離を置いて俺と淀川は対峙した。


「始めっ!」


 立会人の老剣士の言葉と空気が張り詰める。

 さざ波の音の中――俺と淀川は真剣を手ににらみ合った。

 我らが流派の立ち会いに木刀は用いない。

 抜き身の刀を手に、淀川は正中線に沿ってそっと中段に剣を置く。もっとも隙のない中段の構え。ともすれば自然体と見違えるほどの気負いのない体裁き。

 自然体とはもっとも自由度の高い万能の構えとは師の教えだ。

 ともすれば器用貧乏にもなりがちな特徴のない構えとなるが、ありとあらゆる攻撃に対応出来る万能手である淀川がそれをとれば、ただの自然体そのものが必殺の構えとなる。

 どこから打ち込もうとも、淀川は必ず「後の先」を取り、こちらの首を取ることだろう。

 対する俺は――半身を後ろに下げ、刀を下段に据える。

 敵からは俺の身体に隠れて刀の動きが見えない攻撃の型。

 刀を後ろにした分、斬撃の距離が増し、その威力も増える。だが、後ろに回している分、敵の攻撃には遅れる。防御を捨てた攻撃に特化した型だ。

 さざ波の音が響く。

 俺たちは対峙したまま動かない。

 淀川はぴくりとも動かない。

 防御を捨てた攻撃の型をしているというのに、あくまで彼は待つ気らしい。

 むしろ、しびれを切らせて俺が攻めてくるのを今かと待ち構えている。

 俺たちと淀川はにらみ合いながら、幾たびも「こころ」で打ち合った。

 俺の一撃が淀川を貫くこともあれば、淀川に俺が切り払われることもあった。

 何度殺し合っただろうか。

 じりじりとにらみ合う中、俺たちは数十回殺し合った。

 さざ波の音が遠ざかっていく。

 神経が研ぎ澄まされていく。

 不意に、俺たちの心象風景での激突が潰えた。

 音も光もない。

 時間をも超越した刹那。

 限界を超えた超感覚が俺と淀川をつなぐ。


 ――行くか。


 ――ああ。


 砂を蹴っていた。

 一歩。

 身体が加速を開始し、全身に風を纏う。

 二歩。

 同時に前へと踏み出した淀川が距離を詰める。

 三歩。

 交錯。

 四歩。

 歩みを止め、大きく息を吐いた。

 半身を生暖かい血で塗りつぶされ、鼻を突く血の匂いが思わず顔を歪める。

「くっ」

 引き延ばされていた時間が、感覚が、すべてが現実へと返っていく。

 俺は――ただ静かに振り返った。

 友は笑っていた。

「美事」

 刀を持つ腕は落ち、胸元は斜めに大きく切り裂かれている。

 だが、彼は立ったまま笑い、倒れることなく絶命した。

「勝負あり!」

 立会人の声が響く。

 雨が再び降り注いだ。

 俺は刀を鞘に収め、静かに友へ頭を下げた。




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