第28話 新しい環境へ

 


 めでたく珊瑚と恋人同士になり数週間。

 あの水族館の日から甘く幸せな生活が続き……、


 とはいかなかった。


 といっても付き合って早々に喧嘩だの不穏な事が起こったわけではない。二人だけの事を言うのならばまったくもって良好だ。付き合いたてのカップル、まさにこれである。

 連絡を取り合う頻度は増え、夜の通話は日課になった。その際の会話内容は、かつての俺が聞いたら悶えかねないほど甘い時も少なくない。

 だが通話時間は短い。

 俺としては長々と電話をして語り合い、時には通話中に寝落ちして……、なんて事もしたいところなのだが、だいたい珊瑚から、


『荷造りまだなんですよね? 引っ越しはもうすぐですよ! 通話が終わり次第、早急に携帯電話を手放し、荷造り作業に戻ってください! 今健吾さんが持つべきは携帯電話ではなくダンボール箱を閉じるガムテープです!』


 と、話を終えてしまうのだ。


 これも含めて相変わらずと言えるだろう。

 思い返せば、珊瑚は宗佐の受験に対して協力的であり、その協力する姿勢はかなり厳しかった。『珊瑚に監視されてる……』という宗佐の呻きを何度聞いたことか。冗談や過剰な表現ではなく、実際に窓から監視していたり猫を使って監視していたのだ。

 そこに恋心があるのか分からなくなるほど、と、そんな事すら考えたのを思い出す。


 どうやらそれは恋人になった俺相手でも同じらしい。

 おかげで初デートはいまだ叶っていない。


「よし、まずは引っ越しして、初デートだな」


 ひとまず引越しを優先せねば。

 そう考え、あれこれ引っ張りだしたおかげでいつも以上に散らかった部屋の中で気合を入れ直した。

 携帯電話は机に置く。珊瑚はいつも『引っ越しの日は迫ってますよ!』と言って通話を終了しておきながら、それでも定期的に連絡をくれるのだ。――たまに俺が久しぶりのゲームを遊んだり懐かしい本を読んでたりすると『ちゃんと荷造りしてますか?』と連絡を入れてくる。この抜群のタイミングは、だらしない兄を持つ妹の勘だろうか……――




 元々、俺は大学進学を機に一人暮らしをする予定だった。

 といっても追い出されるわけではなく、家族から距離を取るためというわけでもない。

 ただ上の兄二人が同じように家を出て行ったのを見ていて、自然と俺もそう考えるようになっていたのだ。自分がそうしてもらったように、高校受験を控えた弟に一人部屋を譲ってやりたいという思いもある。


 そういうわけで、大学合格を知ると同時にさっそく部屋を探し始めた。

 長兄は結婚し戻ってきているとはいえ、長兄も次兄も一人暮らし経験者。更に義姉の早苗さんも結婚前は一人暮らしをしていたためアドバイスは多い。

 あれがあると良い、こういう間取りが良い。そんな話を聞きながらインターネットやら駅回りにある賃貸会社で物件を覗く。



 そうして部屋を決めたわけなのだが、前に借りていた住人の転居や部屋のクリーニングが遅れ、結果的に俺の入居は大学入学から三ヶ月以上先になってしまった。

 だが元より俺が進んだ大学は実家からも通える距離で、一人暮らしの部屋も実家と同じ駅で自転車で通える距離だ。

 転居が伸びたところで支障はない。むしろ大学生活に慣れはじめた頃でちょうどいい、そう考えていた。


「……でも引っ越しが伸びたからって油断してたな」


 散らかった部屋の中で思わず呟いてしまう。

 床には本やら雑貨が乱雑に置かれ、ベッドの一角では衣類が山を作っている。机や棚も物を出してはいるがいまだ空にはなっておらず、なにもかも中途半端だ。

 だというのに引っ越しの日まではあと僅か。

 もうどこから手を着ければ良いのか分からなくなってきた。


「けっこうものを捨てるタイプだと思ってたけど、意外とあるんだな」


 俺は生まれた時からこの家で過ごしてきた。その間、もちろん日頃の掃除や年末の大掃除でものは捨ててきたし、思い出の品だの記念だのと拘って物を残す主義でもない。

 それでも改めて私物を引っ張り出すとかなりの量だ。とりわけ一軒家から一人暮らし用の部屋への転居ともなれば持っていけるものの量も限られており、持っていく・残す・捨てるの選別も難しくなる。


「まぁいざとなったら取りに来ればいいんだけど。……でもそう考えてるから荷造りが終わらないんだよな」

「健吾君、荷造りの調子は……。微妙なところね」

「早苗さん」


 ノックの音と共に部屋に入ってきたのは早苗さん。その腕の中には生まれて数ヵ月の赤ん坊。

 起きてしまったのをあやすついでに俺の様子を見に来たのだろうか。だが問うよりも先に部屋を一瞥して理解したようだ。


「なんかいざとなると何を持っていけば良いのか分からなくてさ。本だけ先に詰めようとしたけど、重すぎると運ぶの大変だし。それなら洋服を先にと思ったけど、全部入れたら今着る服が無くなるし……」

「そうなのよねぇ。私、最初に一人暮らしした時、携帯電話の充電器をダンボール箱にいれちゃったのよ。夜になって充電しようと思ったら見当たらなくて、どこに入れたかもわからなくて、結局買いに行ったのよ」


 懐かしい、と早苗さんが話す。

 それを聞き、俺は「充電器か」と呟いた。箱に入れるどころか充電器の存在を忘れていた。

 だが充電器は引っ越し直前まで出しておくべきだろう。充電器と言えばゲーム機も持って行きたいし、そうなるとその充電器も必要だ。そういえば弟の健弥に貸しているソフトもあったが、あれはもうそのまま譲ろうか……。


「このままじゃなにも進まなさそうだ。これならいっそ目に着いたもの全部ダンボールに詰めて持って行って、新居で必要か否かの選別を……。駄目だな、きっとやらない」

「そうね、やらない方が良いわ。一番駄目なパターンよ」


 はっきりと断言する早苗さんに俺も頷く。

 ひとまず荷物を全部……なんて事にしたら、一年はダンボール箱を眺めて過ごす羽目になるだろう。

 となると、やはり今荷物の選別をしなくては。

 そう気合いを入れ直すと、腕の中の赤ん坊がうとうととし始めたのか早苗さんが「もう寝ましょうね」と穏やかに声を掛け、次いで俺には「頑張ってね」と一言残して部屋を去っていった。



◆◆◆



 そんな遅々とした進みながらも、引っ越し当日にはなんとか荷造りを終えることが出来た。

 ちなみに引っ越し作業は業者を呼ばず、家族だけで済ませた。父さんが車を出し、荷物の運搬は俺と弟、そしてこの日のために予定を合わせてくれていた二人の兄。

 細々とした作業は母さんが主になり、それを早苗さんが時に体を休めつつ手伝う。邪魔になるだけかと危惧された甥の双子も、本棚に本を並べたり空いたダンボールを畳んだり、時には弟達を見守ったりと、働きぶりと成長を見せてくれた。


 そんな各々の働きもあり、気付けばあっという間に引っ越し作業は終わっていた。

 朝の九時から始まり、家電の配送等も含めて四時終了予定。時間内に全て終えれば夕飯は焼肉食べ放題という報酬もあってか皆やる気に満ちており、荷解きまで終えてもまだ三時半だった。

 さすが大家族。それも男手に関しては余る程あるのだ。作業の速さと言ったら無い。



 そうして無事に引っ越しを終えれば、次はもちろん……、初デートである。



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