第27話 健吾と珊瑚
「……なぁ、妹」
「はい……」
極力落ち着いた声色を取り繕って話しかければ、返ってくる珊瑚の返事が上擦って聞こえる。
彼女は水槽の方を向いたままだが、その瞳は魚を追ってはいない。ただ俺の方を向けずにいるだけなのだろう、時折はちらと俺の様子を窺ってくる。
彼女の返事に、控えめながら送られてくる視線に、元より落ち着きの無かった俺の心臓が早鐘のように鼓動を早めた。
それにつられるように今更になって不安が沸き上がる。
断られたらどうする?
やっぱり宗佐が好きだと、諦められないと、そう言われたら?
宗佐じゃなくても、別の『俺じゃない誰か』を好きになったとしたら……?
そんな考えが頭の中に浮かんでは消え、また浮かぶ。
あれだけ「待つ」と言って、その後もずっと積極的に好意を伝えて、そして手応えすら感じ初めていたのに、いざとなったらこの様だ。
なんて情けない……。
だけどそんな不甲斐なさに陥っているわけにもいかず、俺は意を決すると再び珊瑚に声をかけた。
「前に言った時から俺の気持ちは変わってない」
はっきりと告げれば、珊瑚がこちらを向いた。緊張を隠し切れぬ表情をしている。
それに当てられ、俺の中でも緊張が嵩を増す。周囲に居るはずの人の気配など既に失い、賑やかさも水族館内の音楽も一切耳に入ってこない。聞こえてくるのは自分の声と、珊瑚の小さな相槌と、そして身体の中で響く心臓の音だけだ。
それでもと俺はじっと彼女の瞳を見つめた。
「宗佐の代わりとか宗佐を諦めるためだとか、そんな理由じゃなくて、俺の事が好きで俺を選んでほしい」
「……健吾先輩」
「絶対に幸せにする、辛いなんて思わせない。泣かせたりなんかしない。だから俺と……!」
俺と付き合ってくれ。
そう珊瑚に告げようとした瞬間……、俺の声が発せられるより先に、ブツ、と雑音が周囲に響いた。
突然のことに出掛けた言葉を飲み込んでしまう。さながら異物を飲み込んだ時のようにぐっと喉が詰まった。
そんな俺の状況など知る由も無く、再度雑音が聞こえてきたかと思えば、女性の声がそれに続いた。
『ただいまより、ワクワク触れ合いコーナーが始まります!』
明るい声のアナウンス、それと同時に流れ出す陽気な音楽。
曰く、ショースペースでイルカやペンギンと触れ合えるコーナーが始まるとかなんとか。そのうえ一緒に写真まで撮れるのだという。
楽しそうな女性の声は聞く者の興味を引き『ショースペースでお待ちしております!』という締めの言葉につられて、水槽を眺めていた客達がぞろぞろと移動していく。
なんとも水族館らしい話ではないか。
イルカもペンギンもこんな機会でもなければ触ることが出来ず、この水族館の売りの一つなのだろうパンフレットにも大きく記載されている。
それを告知するのは当然だ。
……当然だけど。
なんでこのタイミングで!
見事なまでに出鼻を挫かれ、先程までの意気込みが盛大に空回って虚脱感と溜息に変わる。
一気に体から力が抜け、ここが水族館でなければ頽れていたかもしれない。
それと同時に思い出すのは、宗佐が月見に告白した時。あの時も似たような邪魔が入っていた。
……入っていたけれど、宗佐の言葉はきちんと月見に届いていた。ゆえに結果的に宗佐の告白は成功に終わったのだ。
だが今回は違う。俺と宗佐とでは事情が違う。
俺の言葉はもうずっと前から珊瑚に届いていた。届いたうえで、何度も訴えて、そして今日ここで返事を貰おうと思っていたのだ。
声が届けば良いわけじゃないのに……!
「まさか、ここまできて……」
思わず呻いてしまう。己の声のなんと切ないことか。
珊瑚もこの展開には緊張より驚きが勝ったようで、きょとんと目を丸くさせながら天井のスピーカーを見上げた。
先程までの緊張も、いよいよだという張り詰めた空気も、なにもかもが消え去った。
……消え去ってしまったのだ。
そのうえ、覚えのある賑やかな声が聞こえてきたかと思えば、
「触れあいコーナーだ! 芝浦と木戸をイルカの口に放り込め!」
「イルカに食われる無様な二人を前に、ペンギンと握手をしながら写真を撮るんだ!」
見覚えのある集団が賑やかかつ喧しく通り過ぎていった。
どうやら水族館内を一回りして戻って来たらしく、その間に捕まったのか宗佐と木戸が囲まれて連行されている。
そんな集団が通り過ぎてしばらくすれば、「宗佐くーん」と相変わらず切なげな声をあげて月見が歩きながら追いかけ――最初は小走りだったのに今は歩いているところを見るに、きっと途中で体力が尽きたのだろう――、その隣では桐生先輩がパンフレットを見ながら「亮平、私イルカと写真撮りたい」と瞳を輝かせている。
なんて騒がしくて迷惑な集団なのか。……本当に迷惑すぎる。
もとより壊れていた空気が、彼等の賑やかさによりとどめを刺されたのは言うまでもない。
これは修復不可能、もう一度と改める度胸と気力は今の俺には無い。
そう考えると疲労やら虚しさが募り、思わずがくりと肩を落としてしまった。集団が去っていった先を眺めて「いい加減にしろよ……」と高校時代に何度も繰り返した言葉を口にする。
ひとまず奴等を止めよう。
そうして機会を窺い、もう一度珊瑚に話をしよう。
その時こそ返事を貰うんだ。
まだチャンスはあると折れかけた心を無理やりに奮い立たせれば、クスと小さな笑い声が聞こえてきた。
見れば、先程まできょとんとしていた珊瑚が楽しそうに笑っている。目を細め、口元を押さえ、ふふっと笑みを零す様は楽しそうだ。ついさっきまでの緊張の表情ではない。
その楽しそうな表情に、俺は落胆していいのかどうかも分からなくなり、気恥ずかしさで頭を掻いた。
「……なんだよ、笑うなよ」
「だって、なんだか凄く健吾先輩らしいなって思って」
「そうだな、確かに俺達らしいな」
珊瑚の言葉をあえて『俺達』と強調して言い直せば、彼女は一瞬目を丸くさせ、だが笑みを強めると「私達らしいですね」と同意してくれた。
楽しそうで、穏やかな表情。その表情はやはり可愛らしい。
「とりあえずあいつら止めに行くか。なぁ、妹」
仕方ないと溜息を吐いて、賑やかな集団が去っていった先へと視線をやる。
このやりとりも高校時代に戻ったかのようだ。
そんな俺の言葉に、珊瑚もまた同じように、
「先輩の妹じゃありません」
と、何度も繰り返した言葉を返してきた。
そうして歩き出す俺に続いて彼女も……、と、以前と同じ行動を予想しながら歩き出し、だがすぐさま足を止めた。
珊瑚がついてこない。振り返れば、彼女は立ち止まったままだ。
水槽の前に立ったまま、じっと俺を見つめてくる。
楽しそうだった笑みはいつの間にか消え、緊張を感じさせる表情に戻っている。その頬が赤い。
俺を見ているのに、水槽はもう覗いていないのに、そもそも水槽の照明は今は青く灯っているのに。……それでも赤い。
「……妹」
「わ、私は、健吾先輩の妹じゃありません。……私は、」
告げてくる珊瑚の口調はしどろもどろで、声も弱々しく震えている。
それでも決意したかのような色を見せ、瞳は困惑を宿しつつも真っすぐに俺を見つめてくる。
その表情に、視線に、声色に。
彼女の必死な訴えの後に続くであろう言葉を想像し、俺は小さく息を呑んだ。
緊張が再び舞い戻ってくる。落ち着いたばかりの心臓が早鐘を打つ。
俺はずっと珊瑚を『妹』と呼んでいたが、当然だが実の兄妹ではない。ただ彼女が『
忘れもしない、珊瑚の合格発表の日。祝いの言葉を掛けようと思ったものの何と呼んで良いのか分からず、咄嗟に口にしたのがこの『妹』という呼び方である。
この呼び方は不思議と馴染み、そして繰り返される応酬が楽しくていつの間にか定着していた。
兄である宗佐が『珊瑚』と呼んでいるのに俺が『妹』と呼ぶのも変な話で、周囲を混乱させたこともある。それでも変えることなく今に至る。
だけど今は、いや今どころかずっと前から、俺の中での珊瑚の位置は変わっていた。
『友人の妹』でもなく『学校の後輩』でもない。誰より大事な女の子。
もし俺と同じように、彼女の中の俺が『兄の友人』ではなくなっていたとしたら。
俺はちゃんと……。
「そうだ、珊瑚は俺の妹じゃない。『友達の妹』でも『後輩』でもなく、俺の恋人になってほしい。好きだ、珊瑚。だから俺と一緒に行こう」
俺が名前を呼んで手を差し出せば、珊瑚がゆっくりと目を細める。
「私も健吾先輩のことが……、健吾さんの事が好きです。だからこれからは健吾さんの恋人です」
そう嬉しそうに微笑みながら答え、俺の手を取ってくれた。
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