第23話 紺色チェック柄、刺繍入りのネクタイ

 


 手鏡を覗き込みながら「お母さん心配するかな」と珊瑚が目元を指先で擦りながら呟く。

 聞けば母親が車で迎えに来ているらしく、そのまま買物に行く予定だという。だが今の珊瑚の目元は泣きはらして赤くなっており、それを見た母親が案じる可能性は確かにある。

 それに対して俺は大丈夫だろうと返した。


「卒業式で泣く奴なんて少なくないし、『大好きな先輩が卒業して悲しくて泣いた』とでも言っておけば平気だろ」

「大好きな先輩?」

「俺の名前を挙げて良いからな」


 しれっと言ってやれば、珊瑚が瞳を潤ませたままきょとんと目を丸くさせた。次いで慌てて顔を背けてしまう。

 その動きに合わせ、彼女の首元に飾られているリボンが揺れる。


 普段珊瑚は宗佐のネクタイを着けている。蒼坂高校指定の、紺色チェック柄のネクタイ。端には元々の所有者である宗佐のイニシャル『S・S』の文字が刺繍されている。

 だが今日は卒業式だけあり、既定の装飾品であるリボンを着用している。同色同柄のリボン。

 珊瑚はそれをゆっくりと外すと、鞄へとしまいこんだ。

 その際に鞄の中にしまわれていたネクタイがチラと姿を見せるが、そのまま取り出されることなく鞄を閉じると共に見えなくなってしまった。


「ネクタイ、着けないのか?」

「いつまでも『お兄ちゃんのネクタイ』を着けてたら皆に笑われちゃいますよ」


 まだ少し切なそうな色を残して、それでも珊瑚が苦笑して話す。

 その言葉に隠された思いを想えば俺の胸まで痛みを覚えた。


 珊瑚にとって宗佐のネクタイは『好きな人から貰ったネクタイ』という特別なものだ。だけど世間的にはただ仲の良い兄妹の装飾品交換にしか過ぎず、贈った宗佐でさえも『兄があげたネクタイ』としか考えていない。

 誰にも言えず、大事に着けていた、想い人から貰ったネクタイ。

 それを今はっきりと『お兄ちゃんのネクタイ』と言い切ったのだ。

 

「そうか、それなら……」


 言いかけ、俺もまたネクタイを外した。


 普段は身に着けず鞄にしまい込み、制服指導の時だけ引っ張り出して着用していたネクタイ。

 その生活指導だって、年に数回しかなく、指導員の前を通り過ぎればさっさとネクタイを外していた。使用した回数など数える程しかなく、時間にすればほんの僅かだ。


 自分でしまっておきながら言うのもなんだが、わざわざ買ったのに勿体ない話だ。

 だけどあと一年、それも日常的に使われるのであれば、買ったかいもあると言えるだろう。


 そう考え、外したネクタイを珊瑚の首に引っ掛けた。

 わざとらしく端を見せつけるように揺らせば、そこに刺繍されているのは所有者のイニシャル。もちろん俺のイニシャルだ。『S・S芝浦宗佐』ではなく、『K・S敷島健吾』。

 珊瑚は首にネクタイを引っかけられた事できょとんとしていたが、俺がわざとらしくイニシャルを見せつければそちらに視線を落とし……、次いで顔を赤くさせた。


 この行為が、異性のネクタイを着ける事が、何を意味するか。

 それを珊瑚が知らないわけがない。


 更に追い打ちをかけるように珊瑚の首に引っかけたネクタイを結び始める。

 

「な、なんですか……!」

「返事はあと三ヶ月待つけど、学校ではとりあえず俺のネクタイ着けとけよ」

「だからそれは待つって……、き、期限が設けられている!?」

「待つとは言ったけど、いざ卒業となると俺も余裕が無くなってさ。そばに居られない代わりにこれぐらいは良いだろ。まぁ三ヵ月は待つから、夏にはデートしような」


 しれっと今後の話をしながらネクタイを結び……、「ん?」と手を止めた。

 ちなみに珊瑚は真っ赤になったまま「デートってそんな」と呟いているが、俺の手を止めてはこない。

 止める余裕が無いのか、止める気がないのか、それどころではないのか、真っ赤になった彼女の顔からは判断がつかないが、今のうちにネクタイを結びたいところである。


 ……だけど結び方が分からなくなった。

 今まで自分でネクタイを結んではいたが、向かい合う相手に結んでやったことは一度として無かったのだ。手順は同じだというのに不思議と左右が分からなくなる。それどころか迷っているうちに手順すら怪しくなってきた。


「ん、あれ? こっちが右で……。普段、俺どうやってたっけ」

 

 右を上に、いや、その前にこっちを……。と試行錯誤していると、もたつく俺に珊瑚が「もう」と小さく呟いた。

 次いで俺の手からネクタイの端をすっと取ると、手早く自分の首元に結ぶ。さすが今まで着けていただけあり迷いのない動きだ。

 そうして仕上げと言わんばかりにきゅっと締めると、ネクタイを結べる己を誇るように胸を張った。

 得意げな表情。「どうですか、こうやるんですよ!」と生意気な口調で告げてくる。


 もっとも次の瞬間には、自分の首元から下がるのが俺のネクタイであることを思い出し、顔を真っ赤にさせてしまったのだが。


 一連の流れに、そして今更になって「これは」だの「見ててもどかしくて」だのと言い訳をしてくる珊瑚の可愛さに、思わず笑いそうになってしまう。


「うん、似合ってるな。宗佐のネクタイより似合ってるんじゃないか?」

「な、なに言ってるんですか。学校指定なんだから柄は同じですよ……!」

  

 頬を赤くさせたまま珊瑚がそっぽを向けば、それとほぼ同時に彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。見れば校門の横に一人の女性が立ち、こちらに向かって手を振っている。

 芝浦家の母親だ。俺も軽く頭を下げておく。

 母の姿を見た珊瑚が「もう行きますね!」と断言すると、こちらの返事も聞かずにパタパタと両親のもとへと駆け寄っていく。明らかな逃走だ。

 だがその途中で足を止め、クルリとこちらを振り返った。


「健吾先輩、ご卒業おめでとうございます」


 改めて深々と頭を下げる律義さは何とも彼女らしい。

 その表情は晴れやかで、目元には泣きはらした跡がうっすらと残っているが笑顔は普段のものだ。


 なにより、彼女の胸元では先程渡したネクタイが揺れている。

 俺のネクタイだ。


 その光景に俺は苦笑し、片手に持っていた賞状筒を掲げてみせた。


「ありがとうな、妹」


 礼を告げれば、俺のその言葉に珊瑚が悪戯っぽく笑う。

 そうして彼女がゆっくりと息を吸えば、次に返ってくる言葉はもちろん、


「先輩の妹じゃありません!」


 この聞き慣れた言葉だ。



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