第39話 今更匿名なんて
廊下に戻れば、携帯電話を見ていた顔をパッと上げた。
「悪い、待たせたか?」
「いえ大丈夫です」
矢絣模様の着物に濃紺の袴、白いエプロン。華やかな姿。
改めて見てもやはり可愛い。だが今は見惚れている場合ではない。
高鳴りっぱなしの心臓をなんとか落ち着かせ、持ってきたお菓子を差し出す。
先程言っておいたようにどれも子ども向けの菓子だ。それも低年齢用で、グミや飴、幼児向けキャラクターの棒付きチョコレートもある。
「なんだか、手作りカステラとじゃ比べものにならないな」
「そうですか? こういうの最近食べてなかったから嬉しいです」
珊瑚の言葉はお世辞ではないようで、受け取る彼女は確かに嬉しそうだ。崩さないよう大事そうに鞄にしまっている。
良かった、とひとまず彼女が喜んでくれたことに安堵し……、次いで「それと」と一言告げてポケットに入れておいた生徒手帳を取り出した。
そこに挟んだままの一枚の紙を取り出す。だが次に「あ、」と小さく呟いたのは用紙はあってもペンが無いからだ。
しまった、こういう時に詰めの甘さを実感する。
「妹、悪い。ペンあるか?」
「ペンですか? ありますよ」
珊瑚が鞄からペンを取り出す。どうやら喫茶店で使っていたものらしく、和柄の可愛らしいボールペンだ。
曰く、今日のためにとベルマーク部全員で揃えて買ったものらしい。嬉しそうな珊瑚の話に、そこまで凝ってるのかと感心しながらペンを受け取り……、
彼女が肩から下げた鞄に、見覚えのある和柄のバッグチャームか飾られている事に気付いて息を呑んだ。
心臓が跳ねるどころじゃない、逆に止まるかと思った。
「あっ、えっと、その、悪い。ちょっと借りるな」
「構いませんけど、どうしました?」
珊瑚が首を傾げながら俺を見上げてくる。
次いで彼女は俺の視線を辿るように自分の腰元を見下ろし……、そして俺が挙動不審になった理由を察し、小さく声を漏らした。
純喫茶のレトロで可愛い制服に合わせたシックな鞄。
そこで揺れるのは、和風の飾りがついた桜色のバッグチャーム。
……俺が以前に珊瑚に贈ったものだ。
楠木荘に旅行に行き、そこで彼女にバッグチャームを贈り……、そして想いを伝えた。
それを見た瞬間にあの時の緊張が蘇り、それと同時になんとも言い難い感情が胸に湧く。嬉しさと照れ臭さを綯交ぜにした、くすぐったくて、自然とにやけてしまうむず痒い感情。
「こ、これは……、その、今回の和装の雰囲気に合ってたから着けてるだけで、別に、そんなに深い意味はないんですよ……」
頬を赤くさせてしどろもどろに珊瑚が話す。
それを俺はにやけそうになるのを堪えながら――多分堪えきれてはいないだろうけれど――聞きつつ、借りたペンを用紙に走らせた。
見た目も華やかだが、それだけではなく書きやすいペンだ。そう呟けば、これぞ話題を変えるチャンスと取ったのか、珊瑚が「そうでしょう!」とやや食い気味に話に乗ってきた。
「見た目も可愛いし、軽くて書きやすいんです。……それで、なにを書いてるんですか?」
珊瑚が俺の手元を覗き込み……次いで「私の名前」と呟いた。
俺の手元には一枚の小さな用紙。そこに書いたのは『芝浦珊瑚』という彼女の名前。
不思議そうに首を傾げる彼女に、俺は書き終えた用紙を手早く折り畳んで差し出した。不思議そうに眺めていた珊瑚が、いよいよをもってわけが分からないと目を丸くさせる。
「……これ、私にですか?」
「あぁ、やるよ」
「……ありがとう、ございます?」
疑問だらけだと言いたげな表情で、それでも珊瑚は用紙を受け取った。
折っていたのを開いて、中に書かれている自分の名前を見つめ、それだけでは分からないと引っ繰り返して裏を見て、また表に戻して首を傾げる。
その仕草は見ていて面白いが、そろそろ彼女をベルマーク部に戻してやらないと。そう考え、俺は緊張して上擦りそうになる己の声を咳払いで律した。
「今更、匿名投票なんてしたって意味無いだろ」
「匿名投票? ……あっ、」
ようやく気付いたのか、珊瑚が小さく声をあげた。
一瞬で頬を赤くさせ、手元の用紙をどうしていいのかとあわあわと忙しなく持ち直す。
だが突き返すことはせず、それに俺は安堵し、改めて彼女の手元にある用紙に視線をやった。
あれは投票用紙だ。
蒼坂高校の男子生徒達が秘密裏に行っている――建前上は秘密裏という事になっている――、人気投票の投票用紙。
俺は結局投票するタイミングを失い、用紙は生徒手帳に挟んだままだった。
もう集計は終わっただろうか。
だが今更俺が珊瑚に投票したところで何になる。
投票は匿名だし、そもそもが友情票どころか強奪票すら有りのお祭り行事。
なにより俺は珊瑚に想いを伝えているのだ。今更匿名の『誰かが入れた一票』になんてなる気はない。
それならいっそ。
いや、だからこそ……、
「匿名の一票になるぐらいなら、ちゃんと本人に直接投票した方がいいだろ」
「と、投票って……、私に渡されても集計出来ませんよ」
「知ってる。だから持っていてくれれば良いから」
「……分かりました」
用紙を手に珊瑚がコクコクと頷く。
握り潰さないよう両手の中に収める姿は、まるで投票用紙を大事に包んでいるかのように見える。
「あの、私そろそろベルマーク部に戻らないと……」
「そうだな。わざわざ来てくれてありがとう」
「いえ、そんな。私の方こそ、お菓子ありがとうございました。……それと、これも」
手にしていた用紙に視線を落とし、珊瑚が小さく「ありがとうございます」と感謝を告げてきた。
だが俺が返事をするより先に、踵を返すと足早に廊下を去っていってしまった。
朱色の着物と濃紺の袴が揺れる。見慣れた廊下だが珊瑚の後ろ姿は普段と違い、なんだか不思議な気分だ。これで俺もいかにもな学ランを着ていたら様になっただろうか。
そんな事を考え、俺は緊張が次第に解れていくのを感じながら深く息を吐き、教室に戻ろうと扉を開け……、
にやにやとこちらを見ているクラスメイト達に気付き、ちょっと時間潰しに校舎を回ろうかと扉を閉めた。
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