第35話 小さくてやわらかな
待つしかない、というのはもどかしいものだ。
それでも話が出来るのは不幸中の幸いと言える。これが俺一人だったなら手持ち無沙汰の挙げ句に携帯電話を弄り、今頃充電が無くなりかけて……、なんて羽目になっていたかもしれない。
それに相手は珊瑚だ。他愛もない会話をして笑い合う事が出来る。
とりわけ会話が弾んだのは、文化祭におけるベルマーク部の出し物。
残念ながら俺は行けそうにないが、ベルマーク部の喫茶店はかなり凝っていたようだ。
家庭科部が用意する和装、調理部が提供する純喫茶のメニュー。店内は大正昭和時代を意識したレトロな飾り付けが施されている。それらを監修するのは歴史研究部。――正式名称はいまだ分かっていないらしく、珊瑚が肩を竦めて「変わった部活です」と言いのけた――
もちろん今年も防犯対策はバッチリで、緊急ボタンを押せば蓄音機を再現し少し音の割れた歌謡曲が鳴り響き、屈強なレスリング部がナンパ男達を攫って行く……。
「去年のメイド喫茶も本格的だったし、やっぱり人数が多いと派手になるな」
「はい。特に今年の衣装は凄いんですよ。去年の文化祭が終わったあとすぐに家庭科部からも提携の依頼が来て、一年掛かりなんです」
去年はキットを利用したり既製品を組み合わせたが、今年は生地を選んで一から作ったという。
随分と気合を入れているようで、着ていない間はトルソーに飾られ、店内に展示しているらしい。
それほどの衣装を纏った珊瑚が給仕する。想像しようにも和装がうまく想像しきれず、なんて惜しい。
「見に行けないのが残念だな」
時刻は既に三時半過ぎ。仮に今この瞬間に扉が開いたとしても、珊瑚がベルマーク部の給仕に戻る事は難しい。
事情説明の後、急いで戻って着替えても、店に出たタイミングで文化祭終了のアナウンスを聞くだろう。
残念だと本音を漏らせば、珊瑚も苦笑と共に肩を竦めた。
そんな会話の中、ふと珊瑚が何かに気付いたようにパッと背後を振り返った。
どうしたのかと尋ねるも、彼女自身わかっていないようで「なにか動いたような……」と首を傾げている。
用具室内は物が溢れている。雑に積み上げられていた資料が何かの振動で崩れたのか、もしくは埃が飛んだか……。
それとも、と俺が言い掛けた瞬間、珊瑚が「きゃっ!」と高い悲鳴をあげて立ち上がった。
「なんだ、どうした!」
「い、いまなにか動いて……っ!!」
言いかけた珊瑚が言葉を詰まらせる。
『なにか』を見つけたのか一瞬にして顔を青ざめさせ、声にならない悲鳴をあげるや慌てて俺の方へと近付き……、
なかばよろけるように、俺に抱きついてきた。
あまりの勢いに倒れそうになるが、それをなんとか耐えて彼女を支える。……腕を回し、抱きしめるようにして。
「お、おい! どうした!?」
「虫が……大きな虫が……!」
先程まで自分が座っていた場所を見ながら珊瑚が訴える。
曰く、虫が出たらしい。それも震える声と青ざめた表情を見るに、なかなか大きい虫のようだ。
……だが今の俺はそれどころではない。
なにせ俺の腕の中に珊瑚が居る。
当人は己の体勢を理解していないようだが、俺達の体は密着し、俺の腕は珊瑚の背を押さえている。珊瑚の手は俺のシャツの胸元を強く掴んでおり、互いの体温が伝わるほどに触れているのだ。
珊瑚からしてみれば少しでも虫から遠ざかりたい一心なのだろうが、俺にとっては身を寄せてきているとしか思えない。
小さくて柔らかい体が、俺の腕の中に……。
暖かな体温を布越しに感じ、心臓が早鐘を打つ。
「い、妹、とりあえず落ち着け。虫もあっちに居たんだろ、それならむやみに物を動かさなければ出てこないだろ」
今の今までダンボールの隙間にひっそりと忍んでいた虫ならば尚更、ちょっかいを出さなければ姿を見せることはしないだろう。
だから落ち着けと諭せば、珊瑚も「そうですね……」と俺の話に納得し、次いではっと息を呑んだ。
今の己の状況をようやく理解したのだ。
俺の腕の中にいるという、それも自ら抱き着いてきたという状況を。
彼女の顔が一瞬にして真っ赤になり、腕の中の体が強張った。
「あ、す、すみません、私ビックリしちゃって……!」
慌てて珊瑚が俺の腕の中から退こうとする。
それに対して俺は「大丈夫だ」と答え……。
離れていこうとする珊瑚の体を、放すまいと強く抱きしめ直した。
「ひゃっ」と間の抜けた声が俺の腕の中から聞こえてくる。
小さな体がより強張ったのが分かるが、それでもなお柔らかい。
「な、なんですか……!」
「なぁ妹、『飛んで火にいる夏の虫』って言葉を知ってるか?」
「健吾先輩の妹じゃないし、その言葉は今聞きたくありません!」
俺の腕の中で珊瑚が喚き、それだけでは足りないと俺の腕の中でもがきはじめる。俺の体を押して距離を取ろうとするが、ビクともしないあたりが可愛い。
そんな余りに必死な抵抗に仕方ないと腕の力を緩めれば、途端に珊瑚がスルリと抜け、それだけでは足りないと俺から距離を取った。
「健吾先輩、なにするんですか……!」
「悪い。虫扱いは失礼だな。訂正する。『据え膳食わぬは男の恥』だ」
「そこを謝ってほしいわけじゃありません!」
頬を赤くさせたまま珊瑚が怒りながら俺と距離を取り、少し離れた場所のダンボールに腰掛けた。かなりお怒りなようで、じっとりとした目で睨んでくる。
だが睨みつつも時折ちらと周囲を見るのは、いまだ虫が怖いのだろう。
虫が怖くて気になる、見たくはないが確認しないわけにはいかない。俺から遠ざかりたいが下手に動いてまた虫が出るのは怖い。俺の動きを警戒したいが虫も気になる……。
そんなジレンマが落ち着きの無い動きから分かる。
その姿に俺は苦笑を浮かべ、少しずれると空いたスペースをポンと叩いた。
「こっちは箱も資料も新しいし虫も居ないだろ。こっち来いよ」
「……虫は居なくても健吾先輩が居ます」
「失礼な言い分だな。……まぁ言われるだけの事をした自覚はあるけど。とにかく、もう何もしないから安心しろって」
だからと念を押せば、珊瑚は怪訝そうな表情のまま、それでもこちらに来ると俺の隣に腰を下ろした。
そう広くもない場所に二人で腰掛ければ、必然的に距離は近くなる。軽くぶつかる腕に思わずドキリとしてしまうのは、勢いに任せて抱きしめた珊瑚の体の感触がまだ俺の腕に残っているからだ。
小さくて暖かくて柔らかかった。
あの感触も、腕の中であがっていた不満の訴えも、何もかもが愛おしい。
だが今はそれを反芻している場合ではない。さすがに二度もやらかせば警戒どころではない。
そう己に言い聞かせ、首を横に振って蘇りかけた感触を掻き消せば、俺の仕草に気付いた珊瑚がじっと見つめてきた。瞳には警戒の色が含まれている。
「……怪しい」
「今のは、ちょっと……。ほら、こんな狭い部屋に閉じ込められてて肩が凝っただけだ。少しは動かないとな」
「どうだか。もう変なこと考えないでくださいね」
まったく、と言いたげに珊瑚がツンとそっぽを向く。
それを横目に、俺は「変な事か……」と呟き、
「そりゃあ、考えるだろ」
と断言した。
仕方ない、だって思春期の男子高校生だし。
そんな俺の断言を聞くや珊瑚の口から「ひぇ」と間の抜けた悲鳴があがり、慌てて距離を取ってきた。それだけでは足らないようで、手近にあった紐を境界線代わりに俺達の間に置き、「こっちに近付かないでください!」と告げてくる。
その警戒ぶりが面白く笑いそうになるのを堪えれば、からかわれた事に気付いた珊瑚が不満そうに睨んできた。
「こんな時にふざけて、健吾先輩は危機感が足りません!」
「危機感って言われてもなぁ。こっち側は焦ったところでどうしようもないわけだし」
「それは……そうですけど」
結局のところ、慌てても焦っても危機感を募らせても、閉じ込められている側の俺達に出来ることなどない。宗佐達を信じて待つだけだ。
それは珊瑚も分かっているのだろう、もどかしいと言いたげに溜息を吐いた。
ちなみに俺の、
「慌てても焦っても気疲れするだけだ」
という言葉には、
「今の私の気疲れする要因は虫と健吾先輩です」
と手厳しい答えが返ってきた。
虫と同列は失礼ではなかろうか。
……いや、それほどの事をしたのは理解しているけれど。
そうは言いつつも珊瑚は俺の隣に座り続けており、俺が数度謝るとそっぽを向きながらも許してくれた。その頬はいまだ赤く、……そして嫌悪の色は無い。
思わず緩みそうになる表情をなんとか堪え、俺は彼女の油断に乗じて気付かれないようにそっと紐を取っ払って話を続けた。
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