第23話 夏の夜の二人




「隣り合ってるだけで、なんだか自分の家って思えなくて。だからあんまり新しい家には行かなかったんです。そうしたらある日、宗にぃが垣根にこの穴あけちゃって……」



 外から聞こえてくる話し声に気付いて自室の窓から外を覗けば、庭で祖母と新しい母親、そして兄になったばかりの少年が話し合っている。いったい何だと不思議に思い外に出たところ、既に生垣にこの穴があいていたという。

 当時を思い出して珊瑚が笑う。


「一目で宗にぃがやったんだって分かりました」

 

 当時の宗佐は生垣に穴をあけるためにハサミや補強用の道具を手にし、手や服どころか顔まで泥と葉っぱまみれだったという。

 強引に頭から突っ込んだのか頬や額に擦り傷をつけて、母親に怒られてもそれでも彼は反省する様子なく、それどころか庭に出てきた珊瑚を見ると嬉しそうに笑って名を呼んできた。


「珊瑚、ここ通ってこっちに来なよ!」


 泥まみれの顔で、眩しいほどの笑顔で、そう声をかけてくれた。




 当時を語る珊瑚の表情はとうてい『兄妹の思い出を語る妹』の顔ではなく、俺は垣根の陰に隠れた拳を固く握りしめた。息苦しいほどのもどかしさ胸に湧く。

 この顔を知っている。

 月見が宗佐を語る時、桐生先輩がふとした瞬間に宗佐を見つめる時、彼女達はこうやって愛おしむよう目を細めるのだ。

 胸に抱いた感情のままに表情を和らげる、『恋する少女』の顔。


 あぁ、そんな小さな頃から、宗佐は珊瑚にとっての王子様だったのか……。


 それを思えば胸が痛む。珊瑚の中で宗佐は絶対的な存在であり、それは俺が――そしてきっと俺だけではなく、今後彼女が出会うどの男でも――何をしたって太刀打ちできないのだろう。

 なにせ宗佐は『高い垣根を越えて手を差し伸べてくれた王子様』なのだ。悔しいがまるでおとぎ話みたいではないか。

 宗佐のくせに……と、俺は未だ風呂でご満悦に歌っているであろう宗佐に心の中で悪態をついた。


 だがここで心折れてなるものか。そう俺は自分を鼓舞し、改めて珊瑚に向き直った。

 ザァと吹き抜けた強い風が生垣を揺らす。珊瑚がふと俺の視線に気付き、目が合うと気まずそうにすぐさま視線を落とした。足元にいる大福を見ているようでいて、その視線は僅かに泳いでいる。

 いくら兄妹の昔話とはいえ、自分を好きだと言っている男の前で想い人の話をしていたのだ。

 そのことに改めて気付いたのだろう居心地悪そうに表情を強張らせる彼女に対し、俺はあえて大袈裟に肩を竦めてみせた。


「別に気にするなよ、お前が宗佐のこと話すのなんて今更だろ」

「……でも」

「宗佐のことを好きだって、ちゃんと分かってるから」


 珊瑚が恋愛感情として宗佐を想っていることを、『いきすぎた兄思いの妹』ではないことを、俺は知っている。俺だけは知っている。

 兄妹という柵に捕らわれて本音を漏らせない珊瑚にとって、俺は『唯一の理解者』だ。

 己の恋心に気付いてもなお、俺はそのスタンスを変える気はない。彼女の恋心を否定もせず、言い触らすこともせず、ましてや「兄妹なんだから」と諭すようなこともしない。


 ちゃんと受け入れよう。

 受け入れたうえで、諦めずに想い続けるんだ。


「わかってるから。宗佐を諦めろとか、俺にしろなんて言わない」

「……健吾先輩」

「言っただろ、俺は待ってる。お前が宗佐への気持ちに片をつけるまでちゃんと待ってる」


 珊瑚の宗佐への気持ちは本物だ。そしてきっと誰より深い。横から現れて掻っ攫えるようなものではない。

 他の誰でもなく俺はそれを以前から知っていた。それこそ、彼女に対する己の恋愛感情を自覚するより前から。

 だからこそ待つことにしたのだ。

 宗佐を諦めるためだとか、それどころか宗佐から目を逸らすためなんて理由で選んでほしくない。

 ちゃんと宗佐への気持ちにけりをつけて、そのうえで俺を選んでほしい。


 そう告げれば珊瑚が言葉を詰まらせ、泳がせていた視線を足元からチラと俺へと向けた。

 上目遣いの瞳が窺うように俺を見つめてくる。それに対して俺もまたじっと見つめることで返した。


「……そんなこと言って、どこが待ってるんですか」


 唇を尖らせながら珊瑚が訴える。不満そうな表情を見るに、きっと今日のことを言っているのだろう。

 夏らしい装いを可愛いと褒めた。二十歳になったら酒を飲もうと未来を語った。そして花火の最中に手を握った……。待つと宣言した男の言動とは思えない、そう訴えているのだ。

 確かに、今日の俺は待つどころか積極的とさえ言える。


 それを指摘する珊瑚に、それでも俺は平然と返してやった。


「だから前に言っただろ。待ってるけど、待つだけじゃない。そうしたらさ……」


 ふと言葉を止めれば、珊瑚が不思議そうに俺を見つめてきた。

 話の先が気になるのだろう、促すように僅かに垣根に実を寄せてくる。彼女の手が垣根の縁に触れた。

 小さく柔らかな手。打ち上げ花火を見ていた時に触れた感覚が再び俺の手に蘇る。それを求めるように手を伸ばし……、


 彼女の手をそっと握った。


「そうしたら、宗佐への気持ちを落ち着けた時、きっと俺のことを好きになってるから」


 俺の言葉に吹き抜けた風が被さる。

 珊瑚が小さく息を呑むのが聞こえ、俺の手の中で彼女の手が微かに震えるのが分かった。

 なぁ、と同意を求めても珊瑚からの返事はなく、彼女は頬を赤くさせてムグと口ごもってしまった。物言いたげに俺を見上げてくるのは、『待つ』という発言とは真逆の積極性に文句を言いたいのだろうか。

 これ以上は踏み込むまい。そう考え、俺はゆっくりと手を離すと「今日はここまでにしとく」と冗談めかして両手を軽く上げた。


 次の瞬間、俺達のやりとりに割って入るように「あれ」という声が聞こえた。


「健吾、なにか外にあったか? なんだ珊瑚も居たのか」


 振り返れば、窓から宗佐が身を乗り出してこちらを見ている。

 ゲームやろうぜ、と暢気な声。手を振ってくる宗佐は相変わらずで、まさか自宅の庭で妹と友人がこんな会話を交わしているなんて夢にも思っていないだろう。それどころか珊瑚もゲームをするかと聞いてくる。

 これには困惑で固まっていた珊瑚もはっと息を呑み、我に返ると同時に顔を真っ赤にさせながら「夜更かしは駄目!」と宗佐に対して喚いた。

 予期せぬ叱咤に宗佐が驚いたような表情を浮かべ、「そんなに遅くまでやらないから」と情けないフォローを入れると逃げるように屋内へと戻ってしまった。まぎれもなくとばっちりである。


 宗佐を見届け、俺も新芝浦邸へと戻るため「また明日な」と珊瑚に告げて歩き出し……、


「健吾先輩」


 と、小さく名前を呼ばれて振り返った。

 珊瑚の表情は今にも泣き出しそうなほど切なげで、それでも俺を見つめている。


「……妹?」

「私、宗にぃが好きなんです。どうしようもなく、どうしようもないのに……。どうにもならないって誰より分かってるのに……」

「そうだな」

「でも、待っててくれますか? それでも私を待っていてくれますか?」


 弱々しく問う声は風の音にすら負けてしまいそうなほど小さく、それでもちゃんと俺の耳に届いた。

 乞うような、願うような声……。

 その問いに、俺は彼女の瞳をじっと見つめて返し、


「待ってるよ」


 はっきりと告げた。


 それを聞き、珊瑚が僅かに目を細めた。

 次いで彼女は眉尻を下げたまま小さく息を吐き、柔らかく微笑むと「おやすみなさい」と告げ、足元の猫を連れて旧芝浦邸へと向かった。



 俺はその背が見えなくなるまで見届けて、新芝浦邸へと戻って行った。

 




第六章:了


 

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