第22話 猫体の神秘
宗佐が風呂に入って――冷水を浴びせたことに関してはさすがに謝った――しばらく、俺はアイスを食べながら新芝浦邸のリビングでくつろいでいた。
台所からはおばさんが食器を洗う音が聞こえ、廊下からは湯船に浸かって上機嫌な宗佐の歌声が聞こえてくる。さらに窓から入り込む夜風が虫の鳴き声を運び、なんとも言えない長閑さを演出していた。
敷島家では考えられない穏やかさ。まさに夏らしい空間である。
そんな中で俺がふと顔を上げたのは、外から声が聞こえてきたからだ。
「大福、おばぁちゃん寝るって」
まるで誰かと喋っているかのようなその声は珊瑚のものだ。
だが既に彼女は旧芝浦邸へ戻っており、窓の外を見ても姿はない。
その代わりのように、庭に白い固まりが一つ鎮座している。旧芝浦邸との狭間である垣根の前を陣取るそれは……猫だ。
旧芝浦邸で祖母が飼っている二匹の猫のうちの一匹なのだろう。それが丸くなっている。寝ているのか、しきりに珊瑚が「大福」と名を呼んでいるが起き上がる様子はない。
それを眺め、俺は食べかけのアイスをテーブルに置いて窓辺へと向かった。
窓の外に揃えて置かれているサンダルは外履き用だろう。借りて外へと出れば、夏らしい蒸した空気と心地良い風が肌を撫でた。虫の鳴き声もより大きく聞こえ、まさに夏の夜だ。
そんな趣を感じながら垣根へと近付けば、丸まっていた猫がクイと顔だけこちらに向けてきた。
ふっくらとした身体つき、柄も色もない白一色。その姿はなるほどたしかに大福と呼ぶにふさわしい。猫のくせに貫禄すら感じさせる堂々とした態度だ。
「お前が大福か?」
試しに尋ねてみれば、大福であろう猫が『ンー』と口を閉じたまま鳴いた。動物を飼ったことのない俺にとって猫の鳴き声と言えば『ニャー』なのだが、はたして『ンー』というこの声は鳴き声と取っていいのだろうか。
だがそれを聞いたところで猫が返事をしてくれるわけがない。だからこそヒョイとしゃがみこんで大福の向こう側……垣根に一カ所あいた穴を覗きこんだ。
そこに居るのは、もちろん珊瑚だ。
「よぉ、どうした?」
「健吾先輩」
同じようにしゃがんでいた珊瑚と垣根の穴越しに目が合う。
二人の身長差から普段は俺が見下ろし彼女が見上げてようやく視線が合うのだが、同じ高さの穴を覗いているだけに今は正面から視線が合う。不思議な感じだ、と、そんなことを考えていれば珊瑚がヒョイと手を伸ばしてきた。
そうして彼女の手が俺達の間に陣取る大福の身体を突っついた。だが白い毛玉はそれを受けても僅かに揺れるだけで、再び『ンー』という鳴き声が聞こえてくる。
「普段ならお婆ちゃんが寝ると大福も家に戻ってくるのに、今日はここから動かないんです」
珊瑚の手がツンツンと大福の体を突っついた後、しばらくすると柔らかな毛を撫で始めた。
虫の鳴き声と風の音に、ゴロゴロと大福が喉を鳴らす音が加わる。
「大福、勝手口閉めちゃうよ」
珊瑚が撫でながら大福に話しかける。
はたして人間の言葉を分かっているのだろうか、大福は話しかけられるたびに瞳を開けて珊瑚を見るが、それでもしばらくするとゴロゴロと喉を鳴らしながら再び瞳を閉じてしまう。
もちろんその間も一ミリたりとも動かない。せいぜい『ンー』と返事をする程度だ。
「大福ってば、そこに陣取れば私が手も足も出ないのを知ってるんです」
「なるほど、持ち上げようにも手が届かないし、穴を塞いでるからこっちにもこれない……。なかなか策士な猫だ」
俺が誉めれば、誉められていることを察したのか大福が得意げに瞳を細めてフンと鼻を鳴らした。
そんな大福に対し、俺は「残念だったな」と告げてそっと柔らかな体の下に手を入れた。確かに大福がこの場所に陣取れば垣根の向こうにいる珊瑚は手も足も出ない。――もっとも、いくら手も足も出ないとは言え、やろうと思えば無理矢理どかすことも出来るし、垣根の穴に拘らなければ玄関を通って
だが今夜は違う、今夜は
こちら側で大福を持ち上げ、垣根の向こうに渡してやればいい。
珊瑚が俺の提案に頷き、大福が不満そうに俺を睨んできた。再び聞こえてくる『ンー』という声は先程より抗議の色が強い気がする。
しかしいかに鋭い瞳と言えども所詮は猫。それももっちりとしたふくよかなまさに『大福』という風貌の猫には野性味や迫力など微塵もなく、睨まれても臆するわけがない。
だからこそ俺は「観念しろ」と一声かけ、両手で支えるように大福を持ち上げ……。
次の瞬間、なんとも言えない伸び具合に固まった。
そう、伸びたのだ。
俺は大福の両前足の付け根部分に手を掛けてグイと持ち上げたのだが、それを受けて大福の胴体が伸びた。おおよそ、丸まっている時からは考えられない伸び具合である。倍以上だ。
思わず硬直する俺に、上半身を取られた大福が不満そうにフンと鼻を鳴らす。下半身はもちろん地面に着いたまま。
「え、猫ってこんなに伸びるのか……。いや、伸びすぎだろ」
「健吾先輩甘いですよ、大福は更に伸びます」
「これ以上に!?」
嘘だろ!と思わず声をあげてしまう。なにせそれ程までに大福が伸びたのだ。ヌルンとかズルンとか、そういう擬音が似合いそうなくらいだ。
これには驚くなというほうが無理な話。だが思い返せば常々宗佐が『猫は
そのうえ珊瑚曰く、夏場の廊下では今以上に伸び、時には溶けるらしい。理解が追い付かず、俺の頭上に疑問符が浮かぶ。
「人体の神秘ならぬ、猫体の神秘か……」
思わず呟けば、それが面白かったのか垣根の向こうで珊瑚がクスクスと笑いだした。
大福も持ち上げられて観念したようで、ゆっくりと起きあがるとノソノソと垣根の穴を通っていく。『仕方ないなぁ』とでも言いたげなその瞳がなんとも言えず生意気である。求肥のくせに。
「大福、もう寝よう」
垣根を通ってくる大福の頭を珊瑚が撫で、ゆっくりと立ち上がる。
そうして就寝の挨拶を告げようとしてくる彼女に、俺も倣うように立ち上がりふと疑問を抱いて話しかけた。
「なぁ、この穴って何なんだ?」
新旧芝浦邸の間にある垣根、そこにあいた穴。
猫が通るために設けられたにしては大きく、現に先程珊瑚はこの穴を通って新芝浦邸に入ってきた。かといって、人が庭を行き来するためのものにしては造りはお座成りである。
生垣を改造してちゃんとした扉をつければ這って進む必要も無く、おばさん達も使えるだろうに。
そんな猫用とも人間用とも思えない中途半端な穴を疑問に問えば、珊瑚が小さく笑ってそっと垣根を撫でた。
「これ、小さい頃に宗にぃが作ってくれたんです」
「宗佐が?」
「お父さん達が再婚して、お母さんと宗にぃがここに引っ越して来てすぐの頃……」
当時、幼い珊瑚は親の再婚こそ受け入れたものの心のどこかで引っかかりを感じていたという。そりゃあ誰だって『今日からお母さんだよ』と言われて受け入れられるわけがない。とりわけ母親と死別した幼い子供ならなおのこと。
そのうえ今まで暮らしていた祖母の家の隣に新しい家が建ったのだ。ならば今日からはこちらの家で……なんて切り替えられるわけがなく、珊瑚は常に旧芝浦邸で暮らしていたという。
それはきっと今のような『こっちに部屋があるから』だの『机とベッドを運ぶのが面倒だから』だのといった、どちらも選べるうえでの選択ではなかったのだろう。
大家族に生まれひしめき合って育った俺には想像しがたい環境だが、それでも幼心に珊瑚が新芝浦邸に対して溝を感じていたのは想像できる。
「隣り合った新築の家が、なんだが他人の家のようで。玄関を通って家を出て、また玄関を通って家に入る……、それがどうしても馴染めなかったんです」
ゆっくりと落ち着いた声色で語る珊瑚に、俺は時折相槌を打って返した。
垣根を撫でる彼女の目がゆっくりと細められる。当時のことを思い出しているのだろう懐かしむ表情は可愛らしく、それでいてその記憶の中に俺が居ないことが惜しまれる。
珊瑚と宗佐が共有する記憶。
俺ではどうすることも出来ない、手が出せない時間……。
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