第21話 芝浦家の恐ろしい罠
他愛もない会話を交わしながら、リビングのソファーに腰を下ろしてテレビを眺める。
時折はおばさんが夏祭りのことを聞いてくるのでそれに答え、明日は何時に起きるだの何をしようだのと会話を交わしていると、ふと廊下から足音が聞こえてきた。
確認するまでもない、珊瑚が風呂からあがってきたのだ。それを察して俺が「お先に」と宗佐に皮肉をこめて言ってやれば、返ってくる「ごゆっくり」という言葉の嫌味ったらしいことと言ったらない。
涼しいリビングに居ることで汗は引いて涼しさを感じるようになったが、それでもベタつきは残っているし早くさっぱりしたい。
「次の人、どうぞー」
すっきりしたと言いたげな晴れやかな声色で珊瑚が声を掛けてくる。
パジャマなのだろう水色のワンピースは涼しげで、湯に浸かったのかホンノリと赤くなった頬と塗れた髪が妙に視線を奪う。
もっとも、当人にはまったくその気はないのだろう、おばさんからアイスが冷凍庫にあると聞くと嬉しそうに台所へと向かってしまった。
この飄々とした態度はさすがスタートダッシュを決めて風呂の優先権を奪い取っただけある。風呂上がりの姿に落ち着きを無くしかけた俺も、台所から聞こえてきた「アイス選択の優先権はお風呂の順番に準じます!」という声にすっかりと冷静さを取り戻してしまった。
――そんな珊瑚に対して宗佐が「チョコは俺のだから!」と声を荒らげて返す。なんとも兄妹らしいやりとりじゃないか。おばさんが苦笑を浮かべて「騒々しくてごめんね」と謝ってきたのだが、それに対して俺は「騒々しい? これが?」と真顔で返してしまったのは言うまでもない――
「それじゃ、風呂借ります」
「返せ!」
「
そんな会話を交わして風呂場へと向かう。
それとほぼ同時に、台所から戻ってきた珊瑚が「ごゆっくり」と俺に声をかけてきた。風呂に入ったことで落ち着いたのか、それとも宗佐達がいるから落ち着いているのか、少しばかり声が上擦っているがいつも通りの態度だ。手にしているのは抹茶アイス、その渋い選択がなんとも彼女らしく思わず苦笑が漏れる。
そうして珊瑚の隣を通りすぎようとし……、
ふわりと香ってきたシャンプーの香りに、先ほど落ち着きを取り戻したはずの俺の心臓が改めて跳ね上がった。
薔薇だのラベンダーだの生憎と香りには疎く、家で使うシャンプー類だって母さんや早苗さんが買っておいてくれているものを使うだけだ。洒落っ気がないわけでもないしそれなりに身形には気を使っているが、さすがにそこまで気を配ってはいない。
そういうわけで、珊瑚からふわりと漂ってくる香りの詳細は分からないが、それでも鼻を擽る甘い香りが心地よく同時に心臓の鼓動を早める。
変態と言ってくれるな。誰だって好きな女の子が湯上がりに良い香りを漂わせていたら胸を高鳴らせるというもの。
だがそれを悟られるわけにはいかず、俺は動揺を気付かれないうちにと足早に脱衣所へと向かった。
なにせ珊瑚の香りとほのかに纏っている熱に見惚れそうで、今更ながらにパジャマ姿までもが可愛らしく見えてしまったのだ。宗佐を相手に見せつけるようにアイスを食べる姿も可愛らしい。
「……落ち着いて行動しろ。この家は
誰も居ない脱衣所でぶつぶつと呟きながら衣服を脱ぐ。普段より強引にシャツを脱ぐのは自分の気を晴らすためだ。
そうして用意されていたタオルを一枚取り、フゥと深く息を吐いて風呂場への扉に手を掛けた。
熱いお湯を頭から浴びよう。そうして汗を洗い流して落ち着きを取り戻すんだ。
そもそも今日は宗佐と遊ぶために来ているわけだし、珊瑚だって俺が風呂から上がった時には旧芝浦邸へ戻っているかもしれない。いくら惚れているからといって、彼女も住んでいるこの家でいちいち反応していたら身が持たないだろ。
だからここはサッパリと、そして熱いお湯で一気に汗を掻いて邪念を流すんだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は風呂場への扉を開け……。
一瞬にして立ちこめる湯気と風呂場中に満ちる香りに、「これは無理だろ!」と心の中で悲鳴をあげた。
◆◆◆
「あれ、早いな」
とは風呂からあがった俺を出迎えた宗佐。
意外だったらしく間抜けな表情をしており、おばさんも同じように――間抜けな表情ではないけれど――驚いたと言いたげに台所から顔を出した。
だが確かに入浴時間は短かった。まさに烏の行水。長湯だと宣言した矢先にこれなのだから、宗佐が驚くのも無理はない。
「あら健吾君、もう出たの?」
「はい、その……。俺、風呂早いんですよ」
大家族だから、と明後日な言い訳で誤魔化せば、おばさんも疑いはせずに笑って返してきた。そうしてアイスを薦めてくれるのだから俺も安堵し、ようやく自分の番が回ってきたと風呂へと向かう宗佐を見送る。
どうやら珊瑚は居ないらしい。既に旧芝浦邸に戻ったのだろうか。安堵と残念さが半分という複雑なところだ。
いや、正直に言うと今だけは居なくて良かったかもしれない。
風呂場での俺の落ち着きのなさといったらなく、下手すればボディーソープで頭を洗ってコンディショナーで体を洗っていたかもしれない。洗った、という記憶こそあれども詳細は朧気、それほどまでに動揺していたのだ。
なにせ風呂の中は先ほど珊瑚から漂っていた香りで溢れており、それどころか手元に出したシャンプーからも同じ香りがして……。
つまり――当然と言えば当然なのだが――この風呂場には俺が入る直前まで珊瑚がいて、言わずもがな彼女は裸で……となれば、のんびり入浴など出来るわけがない。
湯船に浸かるどころか、浴槽を見ることすら躊躇われた。
熱いお湯を浴びても邪念は一切消えず、ならばと頭から冷水を……。
そこまで考え、はたと顔を上げた。
冷水、そうだ俺は最後に落ち着きを取り戻すために冷水を浴びて、そのまま……。
「宗佐、シャワーが!」
水のままだ! と、慌てて風呂場へと向かおうとした俺の耳に、甲高い宗佐の悲鳴が届いた。
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