第16話 伸ばした手の届く距離

※今回から健吾視点に戻ります。 




 行き交う人混みの中、紺色の襟がフワリと揺れるのが視界の隅に見えた。


 歩く速度をあげて追いかけたのは、その襟が間違いなく珊瑚の着ていたワンピースのものだからだ。たとえ一瞬視界に映っただけでも、他の誰でもなく珊瑚の服ならば見間違えるわけがない。

 だがそれが分かっていても追い付けないのは、人混みの流れに押し負けかねないからだ。


  もうそろそろ花火が始まる時間ゆえ客の数はピークを迎えており、飲食店の列、公園のステージへと向かう者、花火が見える場所へと移動する者、それらがごっちゃになりまさに押し合いへし合いと言った状態である。

 おまけに前を行く珊瑚もまた人混みの中を急くように歩いており、声を掛けても気付かれず、手を伸ばしても届かない。それどころかまるで割って入るかのように俺達の間を客が横断し、その一瞬で見失いかける。


 あと少しなのに追い付けない。

 そんなじれったさに思わず眉間に皺が寄るが、その間にも小柄な彼女はすぐに人混みの中に飲み込まれてしまう。


「あぁくそ、また見失った」


 見えていたはずの襟がまるで溶け込むように人混みの中に消え、小さくぼやくと共に立ち止まった。

 行先は分かっている。連絡は取れているのだから焦らなくて良い。それが分かっても焦燥感が胸に湧き、見失うたびに息苦しいほどのもどかしさが胸を締め付ける。


 振り返りもせず目の前から消えてしまう珊瑚の後ろ姿。

 彼女の向かう先が宗佐の居る場所のように思えてならない。


「なに考えてるんだ、俺は……」


 額に浮かぶ汗を手の甲で雑に拭い、胸の内でふつふつと湧き上がる焦燥感と嫉妬を無理に押し隠す。

 こんな所で感傷に耽っている場合ではない。早く珊瑚と浩司と合流し、花火が始まる前に宗佐達のところへ行かなくては……。


 そう考えて周囲を見回す。この人混みの中では彼女達もそう早くも動けないだろう。とりわけ浩司を連れているのなら尚更だ。

 大人より頭二つ三つ小さい小学生を連れて歩くのにはコツがいる。それも行きかう人にぶつからないようにと歩けば、自然と足取りは遅くなるものだ。

 だからそう遠くには行ってないはず……。

 落ち着けと自分に言い聞かせ、流れるような人混みの中を足早に縫って行きかう人に視線をやる。


 同じ場所に居て、同じように過ごして、そして同じ場所に向かっているのだから、見つけられないわけがない。


 そうだ、見失ったら何度でも探せば良いんだ。たとえ珊瑚が俺の目の前をすり抜けて行っても、彼女が宗佐だけを見て宗佐だけを追いかけていても。

 手を伸ばし続ければいつか届くはず。


 だから、と人混みの中に視線をめぐらせる。 

 足早に駆けていく女の子二人組は花火の時間を前に移動を焦っているのだろうか。小さな女の子を抱きかかえた夫婦はゆっくりとした足取りで進み、その隙間を小学生らしき子供達が走り抜けていく。

 彼等の歩みの差は俺の視線を惑わせ、周囲を見て歩けば前を通ろうとする人とぶつかりそうになる。

 それでもと周囲を見回しながら進めば、人が行きかう合間に紺色の襟が揺れるのが見えた。


 珊瑚だ。そう確信すると共に、今度こそ見失わないようにと足早に人混みを掻き分けてその背を追う。


 そうして、まるで邪魔をするかのように間を通ろうとする人達を制して、半ば強引に手を伸ばし……、



「ようやく追いついた」



 珊瑚の左手を掴んだ。

 そこでようやく気付いたのか珊瑚が振り返り、彼女の瞳が俺をとらえる。


「……健吾先輩」

「悪いな、なんか面倒なことに巻き込んじまって」

「えっ……いえ、その……」


 突然俺が現れたことに驚いたのか、珊瑚が目を丸くさせながらこちらを見上げてくる。

 どうやら彼女は走り出した浩司を追いかけていたようで、見れば少し先では浩司が早苗さんに怒られていた。


 そうして安堵と収束した事への疲労で一息吐いて、次いで我に返るや慌てて掴んでいた手を離した。

 肩や腕を叩くとか気付かせる手段は他にもあったというのに、咄嗟に手を掴んでしまった。それもだいぶ強引に。


「わ、悪い……。追いかけてたんだけど、何回か見失ってさ」

「そうだったんですか……」


 言い訳じみた事を話せば、珊瑚が自分の手を胸の前でぎゅっと握る。驚かせてしまっただろうか。もしかしたら力が入り過ぎたかと不安になって「痛かったか?」と尋ねれば、彼女はフルと首を横に振った。

 次いで珊瑚が視線をやったのは早苗さんに叱られる浩司。ふぅと軽く息を吐いて穏やかに微笑むのは、母親の元へと送り届けられて安心しているのだろう。

 そんな珊瑚につられて俺も視線を向ければ、早苗さんが浩司のシャツについたシミを見て、「やだ、あんたなに買ってもらったの!」と驚愕の声を上げて鞄から財布を取り出すと小走り目に寄ってきた。


 浩司はお金を持ってきていない、だが何かを食べた形跡がある。となれば食べ物を買う金はどこから出たのか……。

 考えるまでもない、珊瑚の財布からだ。


「珊瑚ちゃん、ごめんなさいね。これで足りるかしら」

「いえ、そんな。半分こにして私も食べてましたから。大丈夫です」

「あの汚れを見るに、クレープと大判焼きってところかしら。襟が汚れてないのは口を拭って貰ったのよね。ハンカチは大丈夫? シミになってない?」

「探偵がいらっしゃる!」


 驚愕する珊瑚をよそに「合わせてこれぐらいかしら」と早苗さんが財布から取り出したお札を数枚、彼女の手の中に押し込めた。

 辞退する隙すら与えぬ一方的なやりとり、その強引さに珊瑚が圧倒されかけている。

 それが俺にとってはとてつもなく恥ずかしく、花火の開始を知らせるアナウンスに乗じて珊瑚に移動を急かした。


 思春期真っ盛りの高校生男子にとって、好きな女の子が自分の身内――それも随分と騒々しい――と接している空間なんて耐えられるわけがない。家事育児の現場を友人に見られることには慣れた俺でも、さすがに今は辛いものがある。悲鳴をあげて逃げたしたいぐらいだ。

 居た堪れない。早苗さんが「一緒に花火でも」なんて突拍子もない提案をしだす前に逃げなくては。


「早苗さん。そろそろ花火が始まるから、俺達は宗佐達のとこに」

「そうだ。ねぇ珊瑚ちゃん、お礼にご馳走するから一緒に」

「それじゃ! 明日帰る時に誰かしらの携帯に連絡するから!!」


 恐れていたことをそっくりそのまま言いだそうとする早苗さんをすんでのところで制して、強引に珊瑚を連れ出した。


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