第3話 夏の風物詩

 


 翌日、いつも通り早めに登校して束の間の平穏を堪能していると、廊下からバタバタと忙しない足音が聞こえてきた。

 まさに全力疾走という煩さ。いったい誰だと教室の扉を眺めていると、勢いよく飛び込んできたのは……宗佐だ。


 一年生の頃は遅刻ギリギリの滑り込みが常で、二年生になり珊瑚に面倒を見てもらってようやく一息つける時間帯に来るようになった宗佐である。――だが二年生になって安泰というわけでもない。時折は珊瑚に見捨てられ、遅刻ギリギリの滑り込みを披露してくれる――

 そんな宗佐が、余裕どころかまだクラスメイトの半分も来ていない時間に登校してきたのだ。俺はもちろん居合わせた者達みんなが驚愕だと目を見開く。

 だが当の宗佐はそれどころでは無いようで、息を切らしながらも足早に俺の方へと近付いてきた。


「健吾、おめでとう! ありがとう!!」


 と、朝の挨拶どころではなくこの第一声。

 何の事かなど尋ねるまでもない。だが周りのクラスメイト達にとっては疑問どころではないだろう。「芝浦がおかしくなった」だの「おかしくなったから早く登校してきた」だのと囁き合っている。

 それをチラと横目に見つつ、俺は改めて宗佐へと向き直った。これでもかと瞳が輝いている。夏じゃなかったら抱き着いてきたかもしれない。


「宗佐、ありがとう。おめでとう」


 先程の宗佐に倣って俺も返す。思わず差し出される手を掴んでしまうのは、宗佐程じゃないが俺もそこそこ浮かれているからだ。

 この際なので「敷島まで壊れた」と囁きあっているクラスメイト達は気にするまい。


「いやぁ、しかし驚いたよ。病院で会うだけでも凄いのに、まさかお互いの家に子供なんてな。本当は話を聞いて健吾に電話でもしようかと思ったんだけど、うちもあっちこっち連絡してお祝いしてでさ」

「俺の家も似たようなもんだ。まぁどうせ学校で会うしな」


 俺の後ろの席に腰掛け、宗佐が昨夜の事を話す。

 よほど嬉しいのだろうその興奮ぶりと言ったら無いが、元より宗佐は家族愛が強く、芝浦家は複雑なのだ。そこに新たな家族がとなれば興奮して話すのも無理はない。

 これが別件ならば「暑苦しい」とでも言ってやったが、さすがに今回だけはと俺も昨夜の芝浦家の浮かれ具合を聞くことにした。


 ちなみにクラスメイト達はと言えば、宗佐の浮かれ具合が女子生徒絡みではないと分かるやあっさりと興味を失ってしまった。

 薄情ではあるが、高校生などそんなものだ。



 そうしてしばらくは雑談をしながら過ごしていると、ガラと教室の扉が開かれた。


「おはよぉ」


 と些か間延びした声が聞こえる。

 その声を切っ掛けに、浮かれながら話をしていた宗佐含め、教室内にいたクラスメイト達がそちらへと視線を向けた。

 月見だ。

 彼女は教室に入ると涼を求めるように一度己を扇ぎ、ゆっくりとした足取りで自分の机へと向かっていった。


 男女問わず彼女は慕われており、教室内にいる誰もが声を掛ける。

 それに一つ一つ律儀に返しながら自分の机に到着すると、椅子に腰掛け、鞄を机横に引っかけ、深く息を吐き……、


「……暑いよぅ」


 と情けない声を漏らし、机に突っ伏した。

 その流れるような仕草はまさに『溶ける』と言った表現が適している。

 それを見て、月見の近くに座っていた女子生徒がガタと立ち上がった。「みんな!」という声に、誰もが彼女に視線を向ける。


「弥生が朝から溶けたわ、もう夏よ!」

「夏の訪れを感じないでぇ……」

「誰か、弥生が溶けたって他のクラスに伝えてきて! 蒼坂高校についに夏が訪れたわ!」

「せめてクラス内だけにしてよぉ……」


 海開きの如き友人の宣言に、机に溶けたままの月見が反論をする。

 といっても溶けたままな上に声も口調も間延びしており、反論の効果は無いのだが。


「もう半溶け月見そばの季節か」

「今年も美味しそうに言わないでよぉ……」

「教室の扉にでも『半溶け月見そば始めました』って貼っておくか」

「それは冷やし中華だよぅ……」


 俺の冗談に月見が律儀に返す。溶けたまま。


 月見は夏に弱く、暑くなるとこうやって机に突っ伏して溶ける。

 もはやうちのクラスの――先程の女子生徒の話を聞くに、うちのクラスだけではないようだが――風物詩とさえ言える。月見が朝から溶けたら夏の始まりだ。

 だがこの光景を見るのも今年で最後。そう考えると感慨深いものが……あまり無いな。

 月見がどこの大学に行くのかは知らないが、彼女の進む先が冷房設備が整っていますようにと願うばかりだ。


「最近、急に暑くなったもんね」


 とは、自分を扇いでいた団扇で月見を扇いでやる宗佐。

 その風を受けて少しは楽になったか、もしくは惚れている相手の前と考え気力を振り絞ったか、突っ伏していた月見がゆっくりと顔を上げた。

 だらしない姿を見せたと照れ臭そうに笑い、白いハンカチで首筋を拭う。


「この間までまだ涼しいと思ってたのに、もう朝から暑くなってきちゃったね」

「夏が待ち遠しいと思ってたけど、こうも早く暑くなられるのも困るなぁ。あ、でも夏祭りは多少暑い方が雰囲気出るか」

「夏祭り?」


 宗佐の口から出た夏らしい単語に、月見が尋ねる。

 それに対して宗佐が「うちの近くでお祭りがあるんだ」と話し、次いで俺へと視線を向けてくる。せっかく月見と宗佐が話しているので俺は邪魔するまいと聞くに徹していたが、同意を求められれば頷かざるを得ない。

 その話を聞き、月見は何やら思い出すように一瞬視線を逸らしたのち、パッと表情を明るくさせた。


「そのお祭り、私も小さい頃に行ったことがあるよ」

「え、本当?」

「うん。今はもう引っ越しちゃったけど、昔はおばさんが神社の近くに住んでたの。それで夏休みになるとお祭りに合わせて泊まりに行ってたんだ」


 懐かしい、と月見が思い出を話せば、宗佐も嬉しそうに聞く。共通の話題になり随分と楽しそうだ。

 そんな二人の会話に、俺は一抹の不安を感じ始めていた。

 この流れはもしかして……、と、この後に起こり得る展開を頭の中で想像する。

 周囲をチラと窺い小さく安堵するのは、クラスメイト達がまだ二人の会話に気付いていないからだ。……まだ、だけど。


「おい、宗佐。話は別の場所で」

「そ、そうだ。月見さん、もし予定が合えば一緒にっ……」

「そこまでだ!!」


 宗佐の言葉をすんでのところで遮る。

 月見がきょとんと眼を丸くさせ、宗佐までもが唖然として口を半開きにしている。

 今まで聞くに徹していた俺が突然声をあげたのだから二人が驚くのも無理はない。揃えて鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


 だが今は説明している場合ではない。というか、ここで俺が二人に説明したら止めた意味が無くなる。

 だからこそ月見には「ちょっと失礼」と一言残し、宗佐を連れて慌てて廊下へと出ていった。――ちなみに残された月見はと言えば、「驚いたぁ」と間延びした声を漏らし……机に溶けた――


「おい、なんだよ健吾。せっかく月見さんと話してたのに。……そ、それに、あと少しで」


 誘えたのに、と宗佐が最後だけ声色を落として訴える。気まずそうに顔を逸らし、それでも横目で睨んでくるその表情は随分と恨めしそうだ。

 俺が制止しなければ、宗佐はあのまま月見を夏祭りに誘っていただろう。「せっかくだから、一緒に行かない?」と。その光景も、月見の返事も、想像するまでもない。

 きっと二人は顔を赤くさせしどろもどろになりつつ、それでも約束を交わすはずだ。


 別にそれ自体は俺も文句があるわけではない。

 月見が一緒に夏祭りに行くことは構わないし、なんだったら、気を利かせて宗佐と月見を二人きりにしてやったって良い。


 だがあの場で約束を交わすのだけは駄目だ。

 クラスメイト達はまだ気付いていなかったが、それも時間の問題だったろう。宗佐も月見も己がモテている事にいまだ――三年生になってもまだ!!――気付いておらず、平然と、周囲に聞かれる声量で、むしろ緊張するあまり少し声を大きくさせて、約束を交わすはずだ。


 二人の会話をクラスメイト達は聞きつけ、嫉妬し、宗佐が攫われる。

 そうして迎えた当日、夏祭りの会場には見覚えのある男達の顔が……。


「……高校最後の夏だぞ、毎度お馴染みで邪魔されて堪るか」

「どうした、健吾?」

「いや、なんでもない」


 気にするな、と思わず漏れた本音を誤魔化す。

 そうして改めて宗佐へと向き直り、「良いか」と勿体ぶるように告げた。


「月見を誘うのは構わない。だけど誘うなら二人きりの時にしろよ」

「ふ、二人きりの時!?」

「あぁ、今まで月見も一緒に遊びに行った事はあったが、いつも話の流れで決まってただろ。高校最後の夏休みなんだし、ちゃんと誘った方が良いだろ」


 俺がはっきりと告げれば、宗佐が一瞬言葉を詰まらせ……次いで「そうだな」と真剣みを帯びた表情で頷いた。




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