第2話 新しい家族
浩也の発言で張り詰めていた空気は緩み、珊瑚が楽しそうに笑いながら浩也に対して「あれは猫ちゃんだよ」と話しかける。緊張が解けたのか穏やかで優しい声色だ。
「猫ちゃんより『にゃんにゃん』の方が分かるかな。あれはにゃんにゃん、ノルウェージャンフォレストキャット……ノルウェージャンフォレストにゃんにゃんだよ」
「キャットの部分を変えれば伝わるわけじゃないからな」
そもそもノルウェーなんたらが通じてないし、長ったらしい猫の種類は俺でさえ聞き慣れぬ単語だ。現に浩也は目を丸くさせ、「にゃんにゃん……?」と不思議そうに呟いている。
俺の指摘と浩也の反応に、珊瑚がしまったと言いたげにぱふと口元を押さえた。
「小さい子を相手に話すのは難しいですね」
「まだ単語を組み合わせて口に出してる程度だからな。もう少ししたら多少は話せるようになるはずだ。……そうなったらなったで大変だけど」
「双子の甥っ子君達ですか?」
「会話が出来るからといって、話が通じるわけじゃないんだよなぁ……」
静かにしろと言えば声を潜めて動き回り、大人しくしてろと言えば動きはしないが大声で話し出す。その場で待ってろと言えばなぜかその場で飛び跳ねだす……。
甥っ子の活発さを思い出してうんざりとすれば、珊瑚の笑みがより強まった。「お兄ちゃんは大変ですね」という言葉に全くだと頷いて返す。
そんな会話のおかげで緊張は解け他愛もない雑談を続けていると、待合場所に現れた看護師が芝浦と敷島の名前を同時に呼んだ。
揃えたようなこのタイミングに思わず俺と珊瑚が顔を見合わせれば、ベビーカーの中で浩也がふにゃと声をあげた。
そうして同じように産婦人科へと案内されるが、当然だが通される診察室は別だ。
どちらともなく促され、俺は珊瑚が一室に入っていくのを見届けると目の前の扉をノックした。
「どうぞ」という声を聞いてゆっくりとスライド式の扉を開ける。中では恰幅の良い女性と早苗さんが向き合って座っていた。片や資料や本が並べられた机を前に、片や背もたれの着いたシンプルな椅子に……と、いかにも『医者と患者』である。
その光景を前に、俺の中で不安が過ぎる。
もしかして早苗さんは何か患っているのかもしれない。
一人で来るのが怖くて、頼りの兄貴も不在で、それで俺に同行させたのでは……。
産婦人科という未知の場所だけあって想像は限度を知らない。
それと同時に大病とは真逆の予想が浮かぶのだが、いやそれはまさかと否定しておく。
だってそうだろ、敷島家は只でさえ飽和状態なのだ。
静けさとは無縁、買っておいたプリンは一日どころか一時間で姿を消す。蓋に名前を書いておいたヨーグルトに至っては、その上から兄貴の名前が上書きされた状態でゴミ箱から発見された。――これに関しては酔っ払いの質の悪い冗談で、後日きちんと倍返しさせたが――
まさに過酷な環境、鍋の大きさひとつとっても一般家庭とはふた回りほどサイズが違う。あれは鍋じゃなく寸胴だ。
そんな敷島家なのだ。
そのうえ更に、なんてことになったら……と、俺が後ろ手で扉を閉めながら早苗さんに視線を向ければ、回転式の椅子をクルリとこちらに向けた彼女は、
「健吾くーん、二か月だってー」
と、それは二か月の二なのかそれともブイサインなのか定かではないダブルピースで俺に告げてきた。
「……マジで?」
「良かったわね健吾君! 育児スキルの活躍の場よ!」
「もう十分活躍したよ……というか二か月!?」
改めて驚く俺に早苗さんが楽しげに笑って頷く。どうやら医者も敷島家の状態を知っているらしく、ベビーカーを押す俺を見て「頼りになる弟さんねぇ」と笑った。
早苗さんが得意げに「そうなんですよ」と返す。続けざまに「あともう一人居るんです」と話すが、それは健弥のことだろうか。
「いつも言うけど、その言葉、男子高校生には褒め言葉じゃないから」
「あら、健吾君ってば胸を張ってよ。そこいらの男子高校生には無いスキルよ!」
上機嫌で早苗さんが煽てれば、つられて医者と、それどころか背後に立っていた看護師まで笑いだす。
そんな和気あいあいとしながら俺一人だけ切ない環境の中、それでも付添人として説明を聞き――俺が聞いてどうするんだろうか、兄貴が帰ってきたら伝えておこうか――再び待機を命じられて診察室を後にした。
その瞬間、早苗さんが小さく息を吐き自らの腹部を撫でるのが横目に見えた。もちろんだが彼女の腹部はまだ大きくなっておらず、良く三人も産めたものだと感心してしまう程の細さだ。……いや、三人ではなく四人になるのだけど。
そうして小さく呟かれた「四人目かぁ」という言葉は喜んでいるようでどこか不安げな色もあった。
昔ならばまだしも、今の時代、子供は一人や二人が普通だ。四人兄弟の俺も今まで数え切れないほど驚かれてきた。
そのうえ早苗さんと甥達が加わって、敷島家はまさに大家族。そこに新たに一人ときた。
不安になるのと当然……なのだろうか。生憎と子供なんて未来の話過ぎて俺には分からないし、早苗さんと俺では立場も違う。
そう考え、俺は扉を出る際に早苗さんを呼んだ。
医者と話していた早苗さんがこちらを振り返る。普段通りのその表情に先程の不安そうな様子はなく、それでも俺は扉から顔を覗かせると、
「早苗さん、ケーキ買って帰ろう」
と告げた。
それを聞いた早苗さんは僅かに目を丸くさせ、次いで相変わらずの肝っ玉母さんらしく、
「サプライズの演出、考えておいてね」
と悪戯気に笑って返してくれた。
◆◆◆
診察室の扉を閉め、一息吐く。
衝撃的事実ではあるがそれでもめでたい事に違いなく、先程までの不安が一気に解消されたと安堵が胸に湧く。
まだ頭の中は混乱しているが付添人としての役割も果たせただろう。残る不安は帰りに米を何袋持たされるかだけだ。
そんなことを考えつつ、診察室前で待っている女性達の視線から逃れるように元居た待合場所へと足早に戻って行った。
そうして再び待合場所へと戻ってしばらく、俺と同じように呼び出されていた珊瑚が戻ってきた。
同じ場所に座ろうと思ったのか待合場所を眺めるが、生憎と俺が戻ってきた時すでに先程の場所には人が座っていた。今も同じように子連れの女性が席についている。
今俺が座っているのはそこから少し離れた長椅子の一角。一応隣は空いている……のだが、呼び寄せるのも違う気がするし、かといって露骨に避けて別の場所に座られてもそれはそれで複雑である。
もちろん直視など出来るわけがなく横目で珊瑚の動向を窺っていると、どこか心ここにあらずといった様子の彼女は待合場所を一度見回し、並ぶ長椅子を縫うように歩き……、
ポスン、と俺の隣に腰を下ろした。
これはかなり嬉しい。当然のように俺の隣に座ってくれたことで思わず頬が緩みかける。
だがさすがに場所が場所なだけに緩む頬はなんとか堪えていると、隣に座る珊瑚がポツリと、
「赤ちゃん」
と呟いた。
「……赤ちゃん、お母さんのお腹に」
「へぇ、そっちもか」
「生まれるのは三月って……そっちも!? 健吾先輩の家も!? 更に!」
呆然としていた珊瑚がはたと我に返って驚愕の色を見せる。
敷島家の大家族ぶりを彼女は知っており、それどころか俺の家に遊びに来た宗佐から『突然襲われる忍者屋敷』だの『強制触れ合い動物園』だのと聞かされている。
それが更に……となれば驚くなという方が無理な話。
それでも改めて「おめでとうございます」と頭を下げてくるので、俺も倣うように「そちらこそおめでとうございます」と深く頭を下げて返した。やたらと仰々しく茶番めいたやりとりではあるが、このわざとらしい応酬が心地良い。
そんなやりとりを終えて二人揃って顔を上げれば、珊瑚が深く息を吐いた。
単純明快な敷島家と違い、芝浦家は複雑だ。そもそも珊瑚の言う『お母さん』は彼女とは血の繋がりは無く、珊瑚と宗佐にも血の繋がりは無い。
だからこそ母親の妊娠は芝浦家にとっても彼女にとっても重大なのだろう。俺では想像できない領域だ。
それでも今の珊瑚の表情に嫌悪や困惑の色は無く、たとえるならばサプライズで誕生日を祝われたような、喜びで処理が追いつかないと言いたげな表情をしている。
そうして再び呟かれた「三月かぁ」という言葉は深く、何かを噛みしめるような色合いを感じさせた。
三月と言えば俺や宗佐の卒業時期である。その前には受験があり、卒業後は進学と、今年の春は色々と慌ただしくなるだろう。
早くも来年の春の事を考えるも、次の瞬間そんな考えすべて消え去り小さく息を呑んだのは、どこか他所を眺める珊瑚が誰にともなく呟いた、
「その時には、ちゃんとお姉ちゃんにならなくちゃ」
という言葉が俺の耳に届いたからだった。
それはきっと、芝浦家に新しく生まれる子供に対しての姉であり、
そして、
宗佐にとっての『妹』になるという事でもあるのだろう。
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