第六章 三年生夏
第1話 七月の日曜、午後
「病院?」
と尋ねながら首を傾げたのは、日中の暑さに夏の訪れを感じさせる七月の日曜。
やかましい双子が友達の家に遊びに行き珍しく静かな敷島家で本を読んでいた俺に、義姉の早苗さんが病院に着いてきてくれと声をかけてきたのだ。いったいどうしてと疑問と共にオウム返しで尋ねたところ、帰りにスーパーに寄って米を買いたいのだという。
なるほど、と納得して本を閉じる。
たかが米と言うなかれ、敷島家が一度で買う米の量は尋常ではなく、買いに行くには男手が必要だ。とりわけ俺と弟はよく食べるので荷物持ちの拒否権はない。
敷島家では『働かざる者食うべからず』が常である。
冗談や家訓ではなく、実際に夕飯のおかずが一品減らされたりするのだ。
「でも病院って、早苗さんどこか悪いの?」
「んー、悪いってわけじゃないんだけどねぇ」
「兄貴は?」
「急な仕事が入っちゃったの」
参ったと言いたげに早苗さんが肩を竦める。
曰く、元々は兄貴――早苗さんからしたら夫にあたる、敷島家の長兄――と一緒に病院に行く予定だったが、今朝も早くに緊急の呼び出しがあったと出社してしまったらしい。
残念ながら母さんも今日は町内会の仕事で出かけており、弟の健也もあと少ししたら出掛けると準備をしていた。
つまり、予定が無いのは俺一人。
「まぁ、別に構わないけど。でも大丈夫? 病院って……」
「大丈夫、心配しないで。それに……」
鞄を用意しながら尋ねる俺に、早苗さんがニンマリと笑った。
……その笑みは何だろうか。
これから病院に行く人が浮かべる表情とは思えない。
双子が悪戯を仕掛けている時のものと全く同じだ。たとえば人の鞄に音の鳴る玩具を仕込んだり、靴の中に小さなブロックを忍ばせたり……。靴箱の影や押し入れの中に隠れ、瞳を輝かせ口元を歪ませながら覗いている時の表情と瓜二つ。
日頃やんちゃさの被害を受けている身としては、相手が早苗さんであっても反射的に身構えてしまう。
だが俺が身構えたところで早苗さんの笑みの理由も診察内容も分かるわけがなく、更にはぐらかすように「受診時間に遅れちゃう」と急かしてくる。
こうなれば意地でも教えてはくれないだろう。ならば仕方ないかと、諦め交じりに鞄を肩に掛けて早苗さんの後を追った。
◆◆◆
そうして辿り着いたのは市内にある総合病院。俺も何度か世話になったことのある場所だ。――敷島家は誰もが健康優良児で、あまり病院の世話になる事は少ない。……のだが、大家族だけありたまに
複数の診療科が一つの建物に複合されており、日曜の午後だけあり受付には人が多く呼び出しの放送が絶えず鳴っている。エントランスには総合案内と広めの待合場所があり、会計や薬の受け渡しもここで行われる。そこから左右各階に広がり、小児科や内科といった部門に分かれていくのだ。
いったいどこへ行くのかと案内図を確認する早苗さんの背中を眺めていると、クルリと振り返るや押していたベビーカーを俺に託してきた。
「もしかしたら呼ぶかもしれないから、健吾君、ここで浩也のこと見てて貰える?」
「ここで? 診察室の前まで行った方がいいんじゃない?」
「産婦人科よ」
「ここで待ってます」
行ってらっしゃい、とベビーカーを自分に方へと引き寄せる。すぐさま長椅子に腰を下ろしてさらに軽く手を振るのは、断固として同行するまいという意思表示だ。
内科や外科ならまだしも産婦人科なんて行けるわけがない。健全な男子高校生であれば縁のない場所、むしろ話題にすることすら恥ずかしさが勝ってしまう場所である。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、早苗さんは「よろしくね」とヒラヒラと手を拭って廊下を曲がっていった。その先に産婦人科があるのだろうか……。俺が知るわけがないし、今だけは視線を向けるのも躊躇われてしまう。
「というか、普通そんなところに行くのに俺を付き添いにするか?」
ベビーカーから甥の浩也を抱き寄せ、膝に座らせて同意を求める。
もちろん俺の言う事など理解できるわけがなく、それでもむぐむぐと口を動かし、言葉なのか分からない返事をしてきた。幼いながらに『自分に話しかけている』という事は理解し、返事をしてくれているのだ。それに対して俺も「だよなぁ」と返せば嬉しそうに笑う。
まったく会話にはなっていないが、こうやって話しかけるのも育児の一環であり、早く言葉を覚えるのだと以前に聞いたことがある。
そのかいあってか敷島家の子供達は喋り出すのが他より早い。……積極的に喋りかけているというより、ただ周りが煩いだけなのかもしれないが。
しかし産婦人科である。
早苗さんが戻ってきたところでどういった用件なのか聞けるわけがなく、それでも俺の心の中に「もしや」という考えが浮かぶ。
……もしかして、いや、でも、まさかなぁ。
「駄目だ、落ち着かない」
病院独特の緊張感を漂わせた空気、そのうえ早苗さんが向かった先は産婦人科。外に行こうにも先程「呼ぶかもしれない」と言われていたので席を立つわけにもいかず、かといって場所が場所なだけに携帯電話で暇を潰すことも出来ない。
まさに手持ち無沙汰だ。どうにもこうにも居心地が悪い。
待ち時間を緩和させるためテレビが設置されているものの、こういう時に限って興味のないドラマを流しているし、雑誌を読もうにも病院に置かれている雑誌は……。
ふと雑誌置き場に視線を向け、そこに見覚えのある人物を見つけた。
珊瑚だ。
待合室に並ぶ長椅子の端にちょこんと腰かけ、膝に広げた雑誌を眺めている。
病院という場所だけあってどこか具合が悪いのかと心配になるが、遠目に様子を窺う限り彼女の表情は普段通りだ。以前に見せた苦し気な表情でもなく、平然と雑誌を眺めてページを捲っている。
もしかしたら俺と同じように付き添いなのかもしれない。
母親か、もしくは祖母の通院の付き添いか。宗佐は昨夜遅くまで一緒にゲームをしていたので可能性は低い。
……どうする、俺。
この居心地の悪さから抜け出すため珊瑚に話しかけるか?
だが場所は病院だ。学校やショッピングモールと違い、偶然居合わせたからといって気軽に声を掛けられる場所ではない。気を遣わせてしまう可能性もある。
だけど気になって仕方ない。他の誰でもない珊瑚の事なのだ。もしも具合が悪いなら、家族に心配事があるのなら、俺が支えになれるなら……。
「……本当、こうなると俺は駄目だな。考えが纏まらない」
困惑が矢継ぎ早に浮かぶ。浩也をベビーカーに戻し立ち上がったは良いものの、そこからの一歩が踏み出せない。
赤ん坊を抱えて病院の待合場所で立ち尽くす俺の姿は、傍から見れば異質なのものに映るだろう。もしかしたら『若くして父親になった男が妻子の大病を知り立ち尽くしている』と見られるかもしれない。現に数人が気遣うような視線を送ってきている。
そんな視線に晒されながら、俺は意を決して一歩進むと、いまだ気付かず雑誌を眺めている珊瑚の隣に腰を下ろした。
「……健吾先輩」
「よぉ、奇遇だな」
珊瑚が目を丸くさせて俺の名前を呼ぶ。
それに対する俺の返しはさり気無さを装えているだろうか。自分で聞く限り、若干の緊張とぎこちなさが感じられるが。
「こんな所でどうしたんですか?」
「早苗さんの……えっと、
「私はお母さんの付き添いです。産婦人科なんですけど、そっち混んでるみたいで」
だからここで待っているのだと話す珊瑚に、早苗さんも同じ場所に向かったと告げる。……が、その後から会話が続かずお互い黙りこくってしまうのだが、これが何とも気まずい。
珊瑚は雑誌を眺めているが時折チラと横目で俺を見てくるし、俺も浩也に視線をやりつつ窺うように彼女を見る。手持無沙汰をなんとか手元で誤魔化し互いの出方を窺う……そんな感じだ。
痺れを切らして宗佐はどうしているのか聞いたり――あぁ、また宗佐の話題を振ってしまった……と心の中で後悔する――、時折ふにゃと変な声をあげる浩也に二人で視線を向けたり、珊瑚が浩也に話しかけてあやしたりもするのだが、なんとも言えないぎこちなさが常に付き纏う。
理由なんて言うまでもない、俺が珊瑚に告白したからだ。
かといって俺には返事を急かす気はないし、本人にも告げている。
それが分かって珊瑚も宗佐や友人達と居る時は以前と変わらず俺と接してくれる。冗談を言ったり、二人で宗佐絡みの騒動に呆れたり、たまに呆れるだけじゃ足らず宗佐の足を踏む珊瑚を俺が見て見ぬふりしたり……。
その『以前と変わらず』は心地よくもあり俺にとって有難くもあるのだが、こう二人きりになってしまうとどうしても緊張に似た気まずさを感じてしまうのだ。
告白し、好きになって貰うよう頑張るとまで宣言したのにこの様だ。
情けない、と不甲斐なさを抱いていると、浩也が待合室の壁に掛かっているテレビを指さし「わんわん!!」と元気の良い声をあげた。
叔父の胸中を察して励ましてくれたのか、もしくは空気を読んで話題を作ろうとしているのか。なんて可愛い甥ではないか。
……テレビに映っているのは猫だけど。
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