第19話 昨夜の『その時』から今の『その時』
俺の言葉は、きちんと珊瑚に伝わっていた。……と思う。
あの後なし崩し的にルール無用のデス卓球にもつれ込んで有耶無耶になってしまったが、宗佐がタップをしている間も珊瑚はどこか心ここにあらずと言った様子だった。
時折俺に視線を向けてくるも、目が合うと慌ててそらしてしまうあたり、伝わっているのは間違いないだろう。困惑を隠しきれない彼女の表情は不安を煽るが、泣かれるよりはマシだ。
そうして白熱した卓球も終わり、男女それぞれの部屋へと戻って就寝となった。
つまり、あの発言以降、珊瑚とはまともに話せていない。
もっとも『話せていない』と言った方が良いのか『話さずにすんだ』と言った方が良いのか、今の俺の心境的には定かではないが。
◆◆◆
そんな夜が明けて翌朝、俺は露天風呂に浸かりながら昨夜のことを思い出していた。
朝の風は冷たいぐらいに涼やかで、対して朝一の風呂は熱い。その温度差が体の中で混ざって額に汗が浮かばせるが、今の俺の思考にはむしろ丁度良いぐらいだ。
いっそ頭まで熱湯に浸かって脳みそを沸騰させた方が開き直れるかもしれない。
そんなことを湯船に浸かりながら考える。
朝一の男湯は昨夜ほど人は多くないが、それでも入浴客の姿はあちこちに見える。それどころかまだ七時になったばかりだというのに、既に風呂上りといった様子のおっさんが脱衣所にあるマッサージ器に座っている。
旅館の朝は早いと聞くが、いったいみんな何時から風呂に入っているのだろうか……。
この旅館の一番風呂を狙うには、日が昇るのと同時に脱衣所前で待ち構える必要があるのかもしれない。
ちなみに、そんなことを考える俺がどうしてこんな早い時間に湯に浸かっているのかと言えば、他のおっさんたち同様に俺も朝早く起きたからだ。
宗佐も木戸も熟睡しているというのに、俺はどこからともなく聞こえてくる赤ん坊の泣き声に目を覚ましてしまった……。
「やっぱり古い旅館ってのは幽霊が出るんだな。居もしない赤ん坊の泣き声なんて……」
はは、と笑い飛ばそうとするも妙な沈黙が漂う。
ピチャン……と響く水音が俺の白々しさに拍車をかけているようで、先程まで「風呂は朝が良い」だの「朝の露天風呂こそ」だのと薀蓄を言い合っていたおっさん達もこういう時に限ってどこかへ行ってしまう。
……認めよう。赤ん坊の泣き声は俺の育児ノイローゼが生み出した幻聴だ。
だがそれをこんな気持ちの良い露天風呂で認めるというのも物悲しさがあり、俺は赤ん坊に続いて双子猿の鳴き声が聞こえてこないうちにと風呂からあがることにした。
浴場を出て部屋へと向かう。朝が早いのは風呂に限らず、ロビーを通れば人の姿がちらほらとあり、荷物を抱えてチェックアウトをしている者も居る。
そんな客を横目に、俺は部屋へと戻るべく旅館内を歩き……ふと足を止めた。旅館の廊下、そこに佇む女将さんの姿を見つけたからだ。
なにか掛かっているのだろうか廊下の壁を見つめている。その表情に今まで見せていた『快活で気風の良い女将』といった様子は無く、憂いを感じさせる。
切なげで物思いにふけるその横顔はどことなく珊瑚に似ており、そばを通り過ぎることすら躊躇われてしまう。
それでも部屋に戻るには彼女の後ろを通らなければならず、俺は息を殺すように足音をおさえて足早に通り過ぎようとし……。
壁に掛けられた写真に再び足を止めた。
モノクロ写真から始まり、楠木荘の写真が壁に並んでいる。
そのどれもが旅館の玄関先で家族が並んでおり、統一された構図と人が増えて減って繰り返す様は、眺めながら歩くだけで旅館の歴史を感じさせた。
その一番右端、最新であろう写真。女将さんはその前に佇んでおり、彼女の背中越しに俺も写真を覗き込んだ。
今とほぼ変わらない旅館の風景。玄関口には今より若い女将さんを中心に数人の男女が並んでおり、その中の一人、柔らかな笑みで写真に写る女性は腕に赤ん坊を抱えていた。
ピンクのベビー服に身を包み、まだ短い髪の毛にリボンを結んでいる。ベビー服が和柄なのは幼いながらに一張羅なのだろうか。その愛らしさに思わず目を細めてしまう。
これはきっと珊瑚だ。
母の腕に抱かれる、まだ幼い頃の彼女。
「……似ているでしょう」
背後に立つ俺に気付いたのか、写真を見つめたまま掛けられた言葉に俺も小さく答えて返す。
写真の中の楠木夏瑚は確かに珊瑚に似ている。まるで彼女の未来を見ているようだ。
「会う度にあの子に似て……。そうよね、もう高校生なんだもの」
切なげな声に俺はどうして良いの分からず、それでも相槌だけはと返した。
「高校の話も聞きたいし、どんな風にお友達と過ごしているのかも聞きたい……。話さなくても良い、そばに居てくれるだけでも良い。……なのに駄目ね、珊瑚ちゃんを前にするといつも話を急いでしまって」
そっと女将さんが着物の袖で目元を拭う。
それを俺は気付かぬふりをして、壁に飾られた写真を見つめ続けた。慰めるほど親しくないし、そもそも彼女の話はきっと俺に伝えようとしているのではなく、まだ部屋にいる珊瑚と、そして何より自分自身へと向けられているのだろう。
俺がすべきは話に入ることでも気の利いた言葉を挟むことでもなく、ただ時折言葉に詰まらせる彼女に対し、促すように小さな相槌を返すだけだ。
そうしてしばらく女将さんの溜息交じりの思い出話を聞いていると、廊下の先から従業員が一人顔を出して控え目ながらに声を掛けてきた。
のんびりと朝風呂に浸かっていられる俺と違い、女将という役職は朝から忙しいようだ。
彼女は我に返ったように顔を上げると一度袖で目元を拭い、「すぐに行くわ」と従業員に返した。
「ごめんなさいね、こんな話をしちゃって。せっかくお風呂に入ってサッパリしたのに」
「あ、いえ、そんな……」
「貴方が敷島君だったかしら。下のお名前は確か……健吾君?」
「はい、そうです」
「夏瑚のお墓参りに一緒に行ってくれたのよね。ありがとう」
穏やかに女将さんが微笑む。
それに対して俺は何と言っていいのか分からず、咄嗟に「いえ、そんな」と的を射ない返事をしてしまった。
『夏瑚のお墓参り』とは、去年の夏休みの事だ。
珊瑚は一人亡き母の命日に墓参りに行こうとし、俺がそれに同行した。
当時の俺はまだ彼女への気持ちを自覚しておらず、そして珊瑚の母の名前すら知らなかった。それでも着いていったのは、母を偲び、偲ぶことに罪悪感を抱き、そして射すような夏の暑さに参っていた珊瑚の隣に居たかったからだ。
もちろん女将さんはそんな俺の気持ちなど知るわけがない。
彼女は穏やかな声色で改めるように「ありがとうね」と告げると、まるで気持ちを切り替えるように「さて」と声色を高くさせた。
過去を懐かしんでいた表情が、パッと一瞬にして明るいものに変わる。
「まだ宗佐君やお友達は寝てるのかしら。朝ご飯は遅めが良いのよね?」
「はい、あいつらまだしばらく寝てると思うんで……」
「朝ご飯も楽しみにしててね。うちは夜もだけど朝も豪華なのよ」
いかにも気風の良い女将といった様子でコロコロと笑い、「ゆっくりしていってね」と一言残すと小走りめにロビーへと戻っていく。
その背には先程の影は見られないが、かといって気が晴れたわけでもないのは俺にだって分かる。俺はただ呟かれるような話を聞いていただけで、解決策どころか碌な返事すら出来ずにいたのだ。
居ても居なくても同じようなもの。そう考えれば不甲斐なさが募る。
今回だけじゃない、いつだってそうだ。
俺に出来ることはただ相槌を返すだけで、深く踏み込むことも出来なければ手を差し伸べることも出来ない。
それは俺が芝浦でも楠木でもないから当然なのかもしれない。だけどそれを『当然』として受けとめてしまえば、俺はいつまでも部外者としてこの距離を前に立ち尽くすのだろう。
覚悟を決めろ、敷島健吾。
今が『その時』だ。
今もまだ『その時』なのだ。
「あ、あの!」
追いかけ声を掛ければ、女将さんが足を止めて振り返る。
「ここらへんで、その……今の時間でも開いてる土産屋とかってありますか?」
「お土産屋さん? そうねぇ、殆どのお店はまだ閉まってるけど、通りの一番奥にあるお店ならもう開いてると思うわ」
「通りの奥って、あの大きな店ですか?」
「そうそう。あそこは早朝出発するお客様の為に早くから開けてるのよ」
確か七時から……と時計を見上げながら話す女将さんに、俺は礼を告げると共に部屋へと戻るべく走りだした。
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