第17話 桜舞う『その時』
木が風に揺れる音だけが続く沈黙の中、並んで縁台に座る。
こうしてどれほど経っただろうか……。
柱時計を見れば実質の時間は五分程度だが、俺の感覚では一時間は優に経っているように思えた。
それほどまでに重苦しい沈黙が漂い、時折漏らされる溜め息が更に圧を掛けてくる。
なんで泣いてるのか。
何があったのか、どうして一人で泣いているのか……。
そんな疑問が矢継ぎ早に頭の中に浮かんでは消えてまた浮かび、それをひたすら繰り返している。だというのにいまだ一言も発してない俺は、もはや情けないというレベルではないだろう。
座る前に一言断りを入れるとか、ハンカチを差し出しすとか、暖かい飲み物を買ってくるとか……。
そんな『こうすべきだった』という考えが座った後になって湧いてくるのだ。もっとも、事前に思いついたとしても差し出せるようなハンカチはないのだが。
泣かないでくれと思うのに言葉が出ず、深い呼吸と共にまた一つ彼女の手の甲に涙が落ちるのをただ横目で見るしかない。
隣に座るしか出来ない。それだって、俺が隣に居て何になるというのか。
そんな躊躇いと困惑を抱いていると、珊瑚がゆっくりと息を吐いた。
「……楠木の」
ポツリと呟かれた声に、風の音が被さる。
多少なり落ち着いてきたのか、それとも何も言い出さない俺に痺れを切らしたのか、視線を足下に向けたまま珊瑚が口を開いた。
「楠木の家にこないかって、おばあちゃんに言われてるんです……」
掠れた声で囁くように話す珊瑚の言葉に、俺の思考は聞いてもなお理解できず、どういう意味かと彼女に視線を向けた。
相変わらず足下をボンヤリと見つめている。その瞳には涙がたまり、瞬きをするたびに小さな涙の粒が頬を伝っていく。
今の珊瑚に普段の活発で生意気な雰囲気は無く、しおらしく儚いとさえ思える。やはり俺にはこの表情は辛すぎて、見ていられないと視線を逸らした。
「家にこないかって、それって……」
「跡取りとか、そういうのじゃないんです。すぐにって話でもないし、芝浦の苗字のままでも良いって。でも、楠木の家には娘がお母さんしかいなかったから、だから……」
楠木の家には、珊瑚の産みの母親である楠木夏瑚しか娘がいなかったという。
あとは息子が二人、珊瑚からしてみれば伯父にあたる。二人の伯父はどちらも結婚しており子供も生まれ、旅館の経営も順風満帆。そもそも旅館の跡取りも血族に拘っているわけではないらしい。
珊瑚を楠木の家に迎えて旅館の跡取りを、という目論見は欠片もない。もちろん、芝浦の家から珊瑚を奪い返そうという悪意も無いだろう。
ならば何故こんな話が出ているのかと言えば、ひとえに亡き娘とそして亡き娘が残した孫への愛しさから。
「大学に通うようになったら、今の家を出てもう少し近くに住まないかって……」
「そうか……」
「おばぁちゃんの気持ちが、わからないわけでも……ないんです。私、お母さんに凄く似てるって、伯父さん達も言ってるし。だから……おばぁちゃんも……」
彼等の話を思い出したのだろう、再び珊瑚の目元に涙がたまる。
それが頬を伝いぽたりと一滴落ちれば、朱色がより濃さを増す。どれだけ泣いていたのか、半纏にも浴衣にも濡れたあとが見える。
ここで一人、ずっと泣いていたのか……。
それを思うと居た堪れず、暢気に風呂に入っていたことが悔やまれる。
どうしてもっと早く出てこなかったのか。そもそも風呂になんか入らずに……とつい先程までの己の行動を悔やんでいると、珊瑚が肩を震わせて半纏の袖で目元を拭った。
木々の葉擦れの音が響く中、くぐもった小さな声にならない声が俺の耳に届く。
堪えていたものが溢れだしたと言わんばかりのその声に、俺はどうして良いのか分からずそれでもと手を伸ばしてそっと背を撫でた。
「一緒に暮らさなくても、もっと、今より頻繁にあえる距離にって……大学に入ったら、でも、私……」
言葉を詰まらせながら説明しようとする珊瑚に、無理するなと声をかけて背中をさする。
珊瑚の祖母の気持ちは、俺にだって分からないわけじゃない。
楠木の家からしてみれば、珊瑚は早くに亡くした一人娘の忘れ形見。そばに居てほしいと思うのは当然のことだ。
とりわけ珊瑚の父親は多忙で一年の殆ど家に帰らず、今の珊瑚は生活のメインを旧芝浦邸に置き、芝浦側の祖母と暮らしている。新旧の家を行き来し家族仲も良好とはいえ、楠木側が『それならこちらで暮らしても』と思っても仕方ない。
「でも、私……お、お母さんのこと好きだし。今の、今の家を離れて、
「それなら、そう言えば良いんじゃないか?」
「でもっ……。でも、もしも私が楠木の家に行ったら……し、芝浦珊瑚じゃなくて楠木珊瑚になったら……。宗にぃは、私を一人の女の子として見てくれるのかなぁ……って……」
そう訴えるように告げる珊瑚に、俺は相槌すら返せずゆっくりと目を閉じた。
いつだって珊瑚を苦しめる『兄妹』という柵が、今も形を変えて彼女にまとわりついてその歩みを止めている。
宗佐と珊瑚を繋ぐ関係。そして珊瑚が宗佐への想いを告げられずにいる原因。『血の繋がっていない兄妹』というこの柵は、確かに珊瑚が楠木の家に養女に入れば解消される。
珊瑚にとって宗佐は『兄』ではなく『母の死別により戸籍を離れた父親が再婚した女性の息子』になるのだ。そして宗佐にとっても同様。
辿れば繋がりは見つかるが、今のような距離ではない。
……そうなったら宗佐はどうするだろうか。
それを考えた瞬間、俺の脳裏に、先程聞いた月見の言葉が思い出された。
『芝浦君には、一番好きで特別だって思える、そんな子の手を取って欲しいんです』
月見はそう桐生先輩に話していた。そして自分こそがと信じているとも。
今の状況を、そして宗佐の気持ちを考えれば、宗佐が手を取るのは間違いなく月見だ。
だけどもし、珊瑚が宗佐のそばから離れていったら?
月見への恋心すらも手放して、珊瑚の手を取るのでは……。
もはやそれは執着とさえ言えるが、その可能性を考えてしまうほど、宗佐は珊瑚を特別な存在として考えているのだ。……妹として、だが。
それほどまでの『妹』への感情が、距離が離れることにより形を変え『恋愛』に変わる可能性はゼロとは言い切れない。
誰より近い存在だからこそ、失って初めて……。
なんて言葉はドラマや映画で時折耳にする。
珊瑚もそれを考えているのだろう。だからこそ楠木からの誘いを断れずにいるのだ。
芝浦の姓を捨てれば、距離を取れば、もしかしたら……。そんな可能性に縋ってしまうほどに珊瑚は宗佐を想って、そして日頃宗佐からの『兄妹としての』愛を感じているのだろう。
「もし……もしも、私が楠木になって、宗にぃから離れたら、妹じゃなくて一人の女の子として見てくれるかもしれない。それなら私……でも……そんな考えで決めちゃだめだって、分かってるんです……」
言葉を詰まらせながら話す珊瑚の声は、今まで胸に溜め込んでいたものを吐き出すかのように辿々しい。
いや、実際に胸に押し込め続けていたのだろう。最後に漏らされた「こんなこと誰にも言えない」という悲痛な言葉が、その重さとながく一人で抱え込んでいたことを訴えていた。
まるで悲鳴のようだ、そう思うと同時に、ここに座っていて良かったと思える。
「誰にも言えない」と嘆く彼女の、唯一の例外が俺だ。
宗佐ではなく、他の誰でもない。俺だけだ。
「どうしたら良いんでしょう……。私、分からなくて……芝浦も楠木も……どっちも重くて……」
涙を流しながら訴える珊瑚に、俺は意を決して「それなら」と声をかけた。
「お前にとって、芝浦も楠木も重いなら……」
「……健吾先輩?」
「それなら……」
心臓が締め付けられ、それでも暴れようともがいているように跳ねる。
涙で潤んだ珊瑚が問うように俺を見上げ、小さくしゃっくりを上げる喉が震えながらもう一度俺の名を呼んできた。
迷いしかない瞳。普段の悪戯気な色も、宗佐を慕う一人の少女の熱っぽさもない。弱くて怯えすら感じさせる。
それほどまでに一人で抱えこみ、そして思い悩んでいたのだろう。
それなら、いっそ。
芝浦も楠木もどちらも重いというのなら……。
「それなら、敷島珊瑚になってくれ」
その瞬間、音をたてて風が吹き抜け、桜の花びらが一際強く舞い上がった。
橙色を貴重にライトアップされた中を花びらが舞い上がっていく様は、さぞや風流だったろう。だが今の俺はそれに意識を向ける余裕もなく、じっと珊瑚を見つめていた。
涙で潤んだ瞳が俺の言葉を受けてゆっくりと開かれていく。小さく開いた唇から、掠れるような「えっ……」という細い声だけが聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間に更に跳ね上がる心臓は早鐘状態どころではない。まるで喉までせり上がってくるような強すぎる鼓動に、それでも俺は耐え抜いて続く言葉を待った。
彼女の唇がゆっくりと動き、何かを発しようと形をつくる。
そうして最初の音を発しようとした瞬間……、
背後からカタンと音が響いた。
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