第16話 ただ一途に



 パシャン、と水飛沫をあげて慌てて振り返る。

 だがもちろん壁の向こう側が見えるわけがなく、それでも聞こえてきたのは間違いなく桐生先輩の声だったと心臓が跳ねる。


 はっきりと宗佐が好きだと言っていた。

 そのうえで月見に諦めてくれないかと告げていた。


 それは何とも桐生先輩らしい大胆さで、それでいて何より彼女らしくない言葉だ。


 たしかに桐生先輩は色仕掛けや他人を使うことを厭わない強引な性格をしている。

 日頃の宗佐争奪戦でも腕を組んだり抱きついたりと積極性は群を抜いており、己を慕う親衛隊を巧みに操り、宗佐どころか俺の連絡先まで手中に収めてしまう程なのだ。

 だがその反面、彼女は陰湿な手段を好まない。

 影で嫌がらせをしたり足を引っ張るような恋敵は恋敵にあらずと歯牙にもかけず、臆さず土俵に上がってきた者と楽しそうに宗佐を奪い合うのだ。厄介な性格ではあるが、しっかりとした考えと信念のある人だ。


 そんな桐生先輩が、宗佐のいない場所で「諦めてくれ」などと言うわけがない。


 だからこそ俺は疑問に思い、そして同時にこれ以上聞いていてはいけないと自分に言いきかせた。

 これは月見と桐生先輩の会話だ。宗佐を想う二人の少女が交わす、二人きりの会話。外野の俺が聞いて良いものではない……。


 そう分かりつつも足が動かず、妙な緊張感で見えないとわかっていても木の壁を見つめてしまう。

 露天だけあって草木が揺れて他の客達も会話をしているはずなのに、どうしてか俺の耳にはそういった音は何一つ届いてこない。妙な沈黙と、心臓の音だけが耳の中で響く。


 そんな中、聞こえてきたのは、


「私も芝浦君のことが好きです!」


 という、月見の返事だった。


「私も芝浦君が好きだから……。だから、何を言われても誰が芝浦君を好きでも諦めません! でも、桐生先輩も諦めないでください」

「それって私と勝負ってこと?」

「そ、そういうわけじゃなくて……。芝浦君のことが好きな子はいっぱい居るけど、その、だからこそ、芝浦君には一番好きな子を………」


 一瞬見せた威勢もどこへやら、月見の声がしどろもどろになる。

 きっとこの会話や自分の宣言に我に返って顔を赤くしているのだろう。対して桐生先輩はさぞや楽しげに笑っているはずだ。二人の表情は容易に想像できる。

 そんな俺の存在に当然だが二人は気付いていない。これは盗み聞きだ。だがここから退かなくてはと分かっていても、俺は動けずに月見の次の言葉を待った。


「芝浦君には、一番好きで特別だって思える、そんな子の手を取って欲しいんです。そして、私は……」


 一瞬、月見が言葉を止める。

 まるでそれに呼応するように一際強い風が吹き抜け、桜の花びらが舞いあがった。



「私は、それが私だと信じています」


 

 はっきりとした月見の声が聞こえてくる。

 荒らげるでもなく、敵意も感じさせず、それでいてけして引かない芯の強さを感じさせる声。

 俺はそれを聞いてもなお動けず、圧倒されるように木の壁を見つめていた。

  

 桐生先輩相手にも臆さない月見の宣言。

 その内容は宗佐への想いが込められていて、そして強い意思と主張を感じさせた。


 奥手で控えめで、宗佐争奪戦が勃発するといつも一歩引いてしまう月見。だけど彼女は何度も宗佐に声を掛け、失敗に終わっているが告白をしようと挑むこともあった。

 温和で柔らかな彼女は、それでも胸のうちには決して折れず揺るがぬ宗佐への恋心を抱いているのだ。そしてそれを自覚し、今まさに恋敵を前に宣言した。


「……そう。はっきりと答えてくれてありがとう」

「あ、あのっ、すみません桐生先輩、私……」

「月見さんが謝る必要はないわ。ただちょっと貴女の気持ちを確認しておきたかったの。卒業したから芝浦君と会える頻度も減ったでしょ、今まで以上に周囲を警戒しなきゃと思ってね」


 説明する桐生先輩の声は相変わらず悪戯っぽく、きっと楽しそうに笑っているのだろう。

 対して月見は安堵したのか「そうなんですか」と穏やかな声が聞こえてきた。次いで「諦めないんですね」と続ける彼女の声もどこか晴れ晴れとしている


「もちろんよ。会えないぐらいのハンディ、私にとってなんでもないわ」

「ふふ、そうですね。桐生先輩ですもんね」

「あら、どういう意味かしら」


 楽しそうな二人のやりとりの後に水飛沫の音が続く。

 湯船から上がったのか次第に声は聞こえなくなり、俺は詰まっていた息を吐くと壁にもたれるように頭を預けた。


 先ほどのやりとりが頭の中で繰り返される。

 二人の気持ちはとっくに知っていたというのに、俺にとってこれ以上ないほどの衝撃だった。後頭部を殴られるような、とはこの事。

 それどころか、今の俺にとってはっきりと自分の気持ちを言葉に出来る二人が格好良くさえ思えていた。いや、二人だけじゃない。



 親衛隊すら出し抜いて桐生先輩を追いかける木戸も。

 自分の魅力を最大限に使って宗佐にアプローチする桐生先輩も。

 奥手で控えめだがけして引くことはしない月見も。

 父親似というコンプレックスを抱えつつ月見への好意を抱く宗佐も。


 そして叶わないと知って、それでも宗佐を想い続ける珊瑚も……。


 ようやく恋心のスタートラインに立った俺には、彼等の真っ直ぐで揺るがない気持ちが眩しくさえ思える。

 少し前までは全員ひっくるめて『面倒くさい』の一言で片付けていたのに、なんと言う変化だろうか。過去の俺が聞けばこれもまた面倒くさそうな表情を浮かべて返してきたはずだ。


 でも、きっと……、


 珊瑚を好きになって、俺の世界が変わったんだ。



「だから俺も、その時・・・が来たらはっきりさせないとな……」


 そう自分に言いきかせる。

 しかし、仮に『その時』が来たとして、きちんと出来るのだろうか?

 というか、俺に『その時』は来るのだろうか?


 そんなことを風呂で悩めばのぼせかけるのも無理はなく、吹き抜ける風で我に返ると慌てて風呂から上がった。



◆◆◆



「そろそろ部屋に戻っても大丈夫だよな」


 手早く浴衣に着替えて脱衣所を出る。

 脱衣所を見回しても宗佐はもちろん木戸も風呂には来ておらず、ひとまず木戸にだけは「あがったから部屋に戻る」と連絡を入れておいた。

 一言伝えておけば向こうも部屋に戻るか風呂に入るかするだろう。……あいつが無事だったらの話だが。

 そんな適当な――男同士なんてそんなもんだ――対応をして旅館の中を歩いて部屋へ向かい、ふと通りがかった窓の外に見慣れた後ろ姿を見つけて足を止めた。


 旅館の中庭。

 和風の庭園を模した作り、そこに置かれた縁台に座っているのは……珊瑚だ。


 彼女の周囲に人は居らず、こちらに背を向けたまま少し項垂れるようにじっとしている。


 ……何かあったのだろうか。


 そう疑問を抱くと同時に、中庭への出入口を見つけて外へと向かう。

 ひんやりとした風と敷石の感触は湯上りの体に心地よいが、それに浸っている場合ではない。

 縁台に座る珊瑚に近付くも、気付いていないのか彼女は後ろを向いたままで動こうとしない。どうやらこちらに気付いていないようだ。

 

「妹、こんなところでどうした?」


 ゆっくりと、驚かせないよう声をかける。

 その瞬間、夜桜が吹き抜けた風に舞い上がり、小さく肩を震わせた珊瑚が振り返った。



 その瞳に、頬に、大粒の涙を零しながら……。



 俺の『その時』は、こんなに間近に迫っていたのだ。



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