第13話 蒼坂高校の歩く育児百科



 夕飯の時間は八時と遅めにしておいた。というのも、桐生先輩が「食前と食後にお風呂に入るのよ!」と瞳を輝かせて語っていたからだ。

 どうやら彼女なりの拘りがあるらしく、俺達がそれに異論を唱えられるわけがない。

 そういうわけでいざ風呂へと向かったわけなのだが……。


「なにが悲しくて男三人で露天風呂……」


 という宗佐の言葉と、


「壁の向こうは楽園なんだろうなぁ……」


 と女風呂のある方向を眺める木戸に、俺は呆れてものも言えないと溜息で返した。



 楠木旅館の風呂はここいらでも群を抜いて有名なものらしく、それを目当てに泊まりに来る客も多いらしい。

 一番の目玉である露天風呂は観光雑誌に必ず取り上げられるほどの絶景で、とりわけ今の季節は風呂に浸かりながら桜を眺められるという。他にも屋内には効能の違う風呂が数種類。更には岩盤浴やサウナ、時期に応じて香りの変わるミストサウナまである。

 おまけにシャンプーやコンディショナーも有名ブランドのものを数種類用意しており、どれを使おうかと月見と桐生先輩がはしゃいでいた。男の俺からしてみればよく分からない世界だが、二人の反応を見るに女性客を掴むポイントなのだろう。

 老舗旅館ではありつつも若い客を呼び込む努力も怠らない。そんな努力あっての長い歴史と言えるのか。


 そんな話をしながら男女の暖簾をそれぞれ潜って脱衣所へと向かい、今に至る。

 男二人が馬鹿みたいなことをぼやきつつ服を脱ぐ、悲惨の一言に尽きる今である。


「お前ら、あんまり馬鹿なこと言うなよ。恥ずかしいだろ」

「健吾、お前そういうこと考えないのか? 正気か?」

「俺はガキ同伴じゃない露天風呂というだけで嬉しい」

「……あ、ごめん」


 ふいに宗佐が視線を逸らす。触れてはいけない話題に触れてしまった、と言いたげな表情だ。木戸は木戸で露骨に顔を背けている。

 俺を気遣っているのかもしれないが、二人の反応こそが何より憐れんでいる証ではないか。


 だが事実、俺からしてみれば今の状況は嬉しいことこのうえない。

 

 なにせ通常時でさえ煩い敷島家なのだ。露天風呂に行って静かに過ごすわけがない。

 双子の片方が泳ごうとすればもう片方は一心不乱にお湯を外に流し出そうとする。それを慌てて止めれば何故か行動が入れ替わってもう一度……と、湯に浸かって風情を楽しむどころではない。兄貴達が居ると余計に質が悪く、社会人男性は騒ぎこそしないが嫌な悪ノリで絡んでくる。

 いつだったか、髪を洗っている俺に水をぶちまけてくれた奴がいたのだが、あの犯人が誰だったのか未だに判明していない。

 対して母さんと早苗さんはそんな男湯の騒動などつゆ知らず、女風呂でゆっくりと過ごし、あげくに「気持ちよかった」と語るのだ。俺と健弥が恨めしげにそれを睨みつけるまでが定番の流れである。


 敷島家の露天風呂事情を語れば、宗佐と木戸が更に同情の色を強めて俺を見てきた。

 分かってる、分かってるから何も言わないでくれ……。と、そんな気持ちをこめて俺も思わず視線を背けて服を脱いだ。なんとも切ない空気である。


 そんな切なさと同情が入り混じった空気の中、木戸が俺を呼んだ。


「敷島ってなんか運動やってたっけ?」


 不思議そうに俺を見てくる。

 じっと上半身を見てくるのでとても気持ちが悪い。


「運動? いや、別に何も」

「だよな、部活も入ってないもんな。家で何かやってるのか?」


 質問しながらも妙に見てくるあたり、俺の体つきについて言っているのだろう。


 確かに俺は身長も高く、体つきもしっかりとしている方だ。一年生の頃はあちこちの運動部から勧誘を受けたし、初対面の相手には必ずと言っていいほどスポーツの経験を問われる。

 だがこれといってやり込んだスポーツはなく、日頃から意識して鍛えているわけでもない。

 この成長は言ってしまえば遺伝のなせる技である。敷島家は遡っても全員もれなく育ちが良いのだ。――だからこそエンゲル係数や日々の騒動が大事になるのだが――


 それを伝えたところ、宗佐から盛大な舌打ちが聞こえてきた。俺に向けられる視線も心なしか恨みがましい。

 成長期の恩恵をおおいに受けた俺に対し、宗佐は今一つ。低くもないが高くもない身長、頼りないとまでは言わないが細身で、中性的な顔付きとその体躯はよくあっているが、男らしさはあまり感じられない。

 宗佐はそれを気にしているのだ。そのうえ、俺と並ぶと差がより顕著になる。


「遺伝だと? さらっと言い切って、なんて恨めしい……。俺はどんなに牛乳を飲んでも梁にぶらさがっても身長が伸びないのに……」

「宗佐、梁にぶら下がっても身長は伸びないからな」


 無駄な努力だ、と断言すれば、余計に宗佐からの視線が鋭くなった。

 曰く、夕食後に牛乳を飲み、梁にぶら下がるのが宗佐の日課らしい。珊瑚が居る時にそれをやると「家が壊れる!」と怒られるという。

 努力と言えば努力なのだろうか。微妙なところだ、と考えていると、木戸までもが羨むように俺を見てきた。


 木戸は運動神経が良く、スポーツ万能。体躯も優れている。

 だがそれは日々の努力あってのことで、曰く小学校から中学校卒業までサッカーを習っており、今は――桐生先輩を追いかけるため――何もやっていないが、そのぶん家で鍛えているという。

 意外に努力家なようで、同等の優れた体躯をもちながらも「何もしてない」と断言する俺を羨む気持ちは分かる。


「何もしてなくてそれか? 遺伝って言ったってずるいだろ」

「ずるいって言われてもなぁ。本当に何もしてないし……」


 言い掛け、自分の家での行動を思い出してみた。

 確かに俺は何もしてない。スポーツを習っているわけでもなく、部活も帰宅部。家で鍛えもしていない。

 やってる事と言えば、


「家に帰ったら三十キロ超えた猿が二匹飛びかかってきて、土日祝日問わずその相手をしてる。あと先日めでたく十キロに到達した赤ん坊の癇癪に付き合って上げ下げしてるな」


 これぐらいである。

 

「そんな健吾に敬意を払って、俺は健吾の筋肉を育児筋と呼んでいる」

「やめろ宗佐、人の体に変な名称をつけるな」

「さすが蒼坂高校の歩く育児百科」

「待て木戸、それは俺の異名か!? 俺はそんな呼ばれ方をしてるのか!?」


 育児筋だの歩く育児百科だの、こいつらの中で俺はどういう扱いなのか。

 だがそれを問えども二人は切なげな表情で「ゆっくりお湯に浸かれよ……」と労ってくるだけだ。その瞳の哀れみ具合と言ったらなく、思わず寒気がしてしまう。

 よりにもよって鈍感馬鹿 宗 佐 ストーカー 木 戸 に同情されるなんて冗談じゃない。



 そんな脱衣所でのやりとりを終え、露天風呂を堪能して早々に上がる。――妙な異名が判明した俺の胸中はかなり複雑だが、敷島家が普通ではないのも今更な話――

 サウナやら岩盤浴はさして興味が無いので後回しにした。ミストサウナが何の香りだの効果がどうの、そういったはしゃぎ方を俺達がしても気持ち悪いだけ。

 むしろ俺達の総意は『早く夕飯が食べたい』これに尽きる。

 桐生先輩あたりが聞けば呆れて溜息を吐いただろう。だが空腹なのは事実、男子高校生とは世界一燃費の悪い生き物である。


 そうしてさっさと浴衣に着替えて部屋に戻り、のんびりとテレビを見ながら待つこと数十分。

 廊下から数人の話し声が聞こえ、次いで部屋の扉がガチャリと音を立てて開いた。「やっぱり戻ってる」というこの声は桐生先輩のものだ。

 テレビを見ていた俺達も自然と声のする方へと視線を向け……。


 男三人、一斉に固まった。


 きっと今の俺達の姿は傍から見れば間抜けとすら言えるだろう。けれど本当に、俺達は揃えたように一斉に固まったのだ。

 なにせ部屋に戻ってきた彼女達は、みんな――当然と言えば当然だが――湯上がりで、そして浴衣を着ているのだ。


「ごめんね、待たせちゃったね」


 とは、苦笑を浮かべつつ室内履きに履き替える月見。

 緩やかな髪を一つに縛って右肩に流し、肩にかけたタオルで軽く叩いている。その仕草が、そして緩い髪の結び方が妙に生々しく、ほんのりと上気した頬が愛らしさを引き立てる。


 そんな月見と並んでハタハタと自分の頬を扇いでいるのは桐生先輩。

 濡れて艶を感じさせる黒髪をシンプルで飾り気のない髪留めで纏め上げており、そこからハラリと落ちる細い束が妙に色気を感じさせる。ただでさえ妖艶な魅力が風呂上がりという追加要素を受けてもはや目に毒レベルではない。


 そんな二人に宗佐と木戸は釘付けである。好きな人の普段ならば見ることの叶わない風呂上がり姿、となれば見惚れるなと言うのが無理な話。

 そして俺も例に漏れず、月見と桐生先輩と共に部屋に戻ってきた珊瑚に見惚れていた。


 なにせ彼女は……。月見と桐生先輩という色気を感じさせる浴衣姿の二人に続いて部屋に入ってきた珊瑚は……、


 一人半纏はんてんを着て、色気というよりホカホカしていた。



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