第24話 幕間(後)

 


 つれない態度でそっぽを向く珊瑚を思う存分愛で、桐生先輩は今度は東雲に向き直った。自分の胸元を押さえて「いる?」と尋ねる。

 しなやかな指がシャツの第三ボタンを軽く撫でる。これを外せばどうなるか……。

 今でさえきめ細かな肌が見えているのに、更に胸元が開いてしまえばとんでもないことになる。仮に問われたのが男子生徒であったなら、見たい気持ちと見てはいけない気持ちが揺らいで盛大にたじろいだだろう。いや、女子生徒でさえ桐生先輩の妖艶さに当てられてしまうかもしれない。


 ……だが問われたのは東雲である。


「実稲にとって、珊瑚ちゃんから貰うボタン以外は全て等しくただの留め具です!」


 きっぱりと言い切る、その堂々とした返しと言ったらない。

 桐生先輩相手に一切物怖じしないこの態度、雑誌モデルという職業ゆえの自信だろうか。もしくは拗らせまくった友情ゆえか。

 なんにせよ先輩相手とは思えない失礼なものだが。というか普通に断れないのか、こいつは。


「桐生先輩なら実稲と同じ五千円からスタートで大丈夫だと思いますよ。あ、でもシャツなら八千円ぐらいでも良いかも!」

「大人顔負けに働いてる子は言う事が違うわね」


 東雲の返しもまた気に入ったのだろう、桐生先輩が更に機嫌を良くして笑う。


 そうして今度は俺へと視線を向けてきた。

 上機嫌だった笑みに意地の悪い色が浮かぶ。……それでも麗しいのだが。


「な、なんですか……」

「敷島君にもと思ったけど、きっと貴方にもただの留め具でしかないわね」


 先程の東雲の言葉を真似つつ、そして妖艶に微笑み、桐生先輩が触れていたボタンからそっと手を放した。

 次いで分かりやすく珊瑚へと視線を向けるのだから、これには俺も慌てて咳払いをして誤魔化してしまった。随分と白々しい咳払いだったろう。それに対して「あら、大丈夫?」なんて返してくる桐生先輩もまた白々しい。


 卒業式だろうと、この人は小悪魔を通り越した悪魔、否、魔王だ。


 呆れるべきか、むしろここまでくると尊敬すべきか。

 そんな事を考えていると、桐生先輩は宗佐に向き直り、全てのボタンを取り払われたブレザーへと視線をやった。やはり第二ボタンが欲しかったのだろう、「残念」と小さく漏らす声に偽っている様子はない。

 だがそんな切なげな表情を一瞬で切り替え、改めて宗佐を呼んだ。


「芝浦くんに伝えたいことがあるの」

「俺にですか?」

「えぇそう……だからもうちょっとこっちに寄って」


 耳打ちでもしたいのか手招きする桐生先輩に、宗佐もさして疑わずに近寄る。

 それを見ていた一部の者達の間に緊張が走った気がしたが、おおかた桐生先輩が宗佐に告白しかねないと判断したのだろう。

 宣戦布告されたばかりの月見はもちろん、俺達を囲む親衛隊達も。それどころか珊瑚もどこか落ち着きをなくし、小さく呟くように宗佐の名前を呼んだ。


 卒業式らしからぬ張り詰めた空気が漂うが、それすらも楽しいと桐生先輩は笑みを浮かべる。

 そうして彼女は無防備に近付く宗佐へと距離を詰め……、



 その頬に自らの唇を押し付けた。



 シンと妙な静けさが漂う。

 それを破ったのは静けさの原因である桐生先輩だった。


「貴方を追いかけていた二年間、とっても楽しかった」


 そう告げる桐生先輩の頬は赤くなっており、声は随分と晴れやかだ。

 偽りない、飾ることもしない純粋な恋心。それゆえの行動と言葉なのだろう。


 だが次の瞬間にはその声も、戸惑いやら嫉妬やらが入り混じった喧騒に掻き消されてしまった。当然と言えば当然だろう、さすがの俺もこれには思わず声をあげかけたほど。――驚きつつもこの後の騒動を予期し、一歩また一歩と後ずさって距離を取った己の判断力を褒めたい――

 宗佐は自分に何が起こったのか理解をしていないようで目を丸くさせ呆然としているが、駆け込んできた男達に羽交い絞めにされ、あげくに集団の中に引きずられていった。悲鳴と呪詛が聞こえてくる。

 その光景を目の前に月見が一人あたふたしているのは、宗佐を救うべきか桐生先輩に牽制し返すべきか分からずにいるのだろう。この賑やかさに惹かれたのか、ひとが更に増えてくる。


 一瞬にして騒々しくなり、それを眺める桐生先輩は普段通りの悪戯っぽい笑みだ。

 最後の最後に仕掛けてやったと誇らしげにさえ見える。


 卒業式だというのにまったく変わらないこの賑やかさに、俺もまた普段通りに溜息を吐けば、いつの間にやら隣にいた珊瑚が同じように呆れを露わに肩を竦めた。

 ちゃっかりと騒動から避難しているあたりが珊瑚らしい。……東雲を騒ぎの渦中に置いて自分一人逃げていることも含めて。


「良いのか、今の」

「どうせ宗にぃのことだから、海外の挨拶とかそんなこと言い出しますよ」

「それはさすがに……。と言いたいところだが、宗佐ならあり得るな」


 そんな会話を交わしながら目の前の集団を眺める。

 まったくもって相変わらずな光景ではないか。桐生先輩が卒業したところで諦めるわけがないのだから、きっとこの光景はこれからも続くのだろう。

 時に大胆に、時に健気に、宗佐を取り合う女子生徒達。そしてそれを目の当たりにし宗佐に嫉妬する男子生徒達。渦中の宗佐は鈍感なうえにコンプレックス持ちで、恋愛関係の決定打はまだ先になるだろう。

 高校生らしいのからしくないのか分からない、なんともやかましい三角どころではない多角関係。

 それを呆れて眺める俺と、隣に立つ珊瑚……。


「進級しても何も変わりませんね」


 まったくと言いたげに珊瑚が溜息を吐く。軽く首を横に振る仕草はまさにやれやれと言いたげだ。

 次いで彼女は携帯電話を取り出して時間を確認した。思っていた以上に長く話をしていたようで、卒業式が終わってからだいぶ時間が経っている。

 桐生先輩は男子生徒はもちろん女子生徒からも慕われている。教師陣からの評価も高い。最後に話をしたいと考える者は多いだろうし、現に輪の人数が一人また一人と増えている。――宗佐を囲む男子生徒も増えているのだが――

 きっとこのまま待っていても埒が明かないと考えたのだろう。遠巻きながらに「宗にぃ、先に帰るね」と声を掛けた。……多分本人には届いていないと思うけれど。


 次いで彼女は「帰りましょうか」と告げるや歩き出した。

 俺の返答も聞かずに。むしろ俺を見ることもせずに。

 俺が後を着いてくるかを確認する様子もない。


 着いてきて当然とでも言いたげな歩みに、俺は一瞬間を開けた後、


「何も変わらない、なんて事は無いな」


 自然と笑みを零し、小さく呟いて彼女の後を追った。



 集団から少し離れてちらと振り返れば、桐生先輩が俺達を見つめ、視線が合うや笑みを強めた。

 口パクで何かを伝えてくる……、いったい何だと注視すれば、


『頑張って』


 と、聞こえるはずのない桐生先輩の声が聞こえた気がした。

 おまけに、俺に伝わったと察したのかパチンとウィンクまでしてくるではないか。




 本当、この人には敵わない。





 閑話:了





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