第19話 いつも通りの茶番

 


 そうして戻った教室は、案の定というかやはりというか、重苦しい空気が漂っていた。

 もっとも、つい先程まで教室内で暴力沙汰があったのだから仕方あるまい。

 クラスメイトの誰もが教室に戻ってきた俺達にチラと一度視線を向けるも、慌てて顔をそむけて何も無かったかのように会話を始めた。そのぎこちなさと言ったらない。


 鈍感な宗佐もさすがにこの空気を感じ取ったのか教室に入るや黙りこんでしまい、それでも自分の机へと向かうと、窓辺で不安げにこちらを見ていた珊瑚に視線をやった。

 宗佐が名前を呼べば、珊瑚もまた宗佐の名前を呼んで返す。いまだ目元は赤くなってはいるが、戻ってきた兄の姿に僅かに安堵したのが見えた。


「珊瑚、ごめんな。驚かせて……」

「ううん、大丈夫……。宗にぃは?」

「俺も大丈夫」


 苦笑を浮かべて答える宗佐はまさに『お兄ちゃん』と言った様子で、それでいてまだぎこちなさが残る。どうにか取り繕ってでも珊瑚を安心させてやりたいのだろう。

 周囲もその必死さに気付いたのか、誰もがかける言葉が分からないと躊躇っている。普段は明るく賑やかなクラスに重く張り詰めたような空気が漂う。

 そんな中、月見が宗佐に近付くと持っていたハンカチを頬に当てた。

 殴られた頬。冷やしてやろうと思っていたのかハンカチは濡れていて、宗佐が僅かに目を丸くさせて視線を珊瑚から月見へと移した。


「月見さん……」

「芝浦君、冷やさないと」

「あ、そうだねありがとう」


 殴られた口元をハンカチで拭われ、宗佐が月見の手に自分の手を重ねる。ハンカチを受け取るつもりだったのか、僅かに触れた指先がピクリと小さく跳ねるのが見えた。

 普段であれば一瞬にして互いに赤面しそうなものだが、いまは互いにその余裕すら無いらしい。それでも月見は宗佐を宥めるように柔らかく微笑み、その気遣いを察してか宗佐も苦笑を浮かべた。

 張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ気がする。思わず俺も安堵し……、


 次の瞬間、教室内でガタンと音があがった。


 見れば一人の男子生徒が立ち上がり「月見さん!芝浦から離れて!」と声をあげた。

 名前を呼ばれた月見が驚いたように肩を震わせ、宗佐が表情を強張らせて小さく息を飲む。

 先程の暴力沙汰のことを言っているのか。なんて馬鹿なことをと俺は声をあげたクラスメイトを睨みつけ……


「月見さん、そのハンカチを離して! 芝浦の馬鹿がうつる!」


 という言葉に思わず目を丸くさせた。


 ……ハンカチとは、今月見が宗佐の頬に当てているハンカチの事だろうか。

 どうして今そんなことをと目を丸くさせたまま疑問を抱けば、近くに座っていた別の男子生徒も続くように立ち上がった。


「月見さんの綺麗なレースのハンカチに芝浦の馬鹿が染みこんでしまう!」

「そうですよ月見さん! 芝浦には雑巾で十分!」

「早く離れて、すぐにそのハンカチを煮沸消毒しなくては!」


 次々と沸いてくるクラスメイトの暴言。

 宗佐の馬鹿が染みこむだの感染するだのと言ったその発言は失礼極まりなく、それでいてなんとも普段通り。宗佐への暴言ではあるものの、それはけして先程の暴力についてではなく、いつも通りの嫉妬なのだ。

 その言葉に月見と宗佐は呆然としていたが、誰より早く事態を察した桐生先輩はニヤリと口角を上げ、宗佐へと身を寄せた。

「芝浦君、大丈夫だった?」と優しい声で彼女が宗佐の頬を撫でれば、それを見て教室内によりいっそう悲鳴があがる。


「少し青くなってるわ。痛そう」

「あ、いえ、大丈夫です……」

「あら、こっちにも傷が。机にぶつけたのかしら」


 心配しながら宗佐の頬や額を撫でる桐生先輩の甲斐甲斐しさといったらない。もちろんそれは月見をはじめとする女性陣に見せつける為であり、同時に男達の嫉妬に火をつける。

 委員長が慌てて「芝浦君、わたし絆創膏持ってるの!」と鞄から小さなポーチを取り出し、対して男達が呪詛を唱え始める。

 見れば木戸までもが「桐生先輩! 俺も怪我してくるんで手当を!」なんて馬鹿なことを言いだす始末。


 月見や桐生先輩をはじめとする女性陣が宗佐を囲み、そしてそれを嫉妬する集団が声をあげ、教室内が混沌と化す。その騒々しさと言ったらない。

 思わず珊瑚と顔を見合わせれば、彼女は相変わらずだと言いたげに肩を竦めた。まだ目元は少し赤いが、俺を見上げて苦笑する程度には持ち直したようだ。


 そうして互いにうんと一度頷きあい……、


「宗にぃの馬鹿がうつるなんて、変なこと言わないでください!」

「そうだそうだ、感染だの染みこむだのあり得ない話をすんな」


 と、喚く男達に異論を唱えた。

 教室内が一度静まり返る。といってもこの沈黙は先程のような重苦しいものではない。いつも通りの馬鹿馬鹿しいやりとりの延長だ。


「宗にぃと概ね一つ屋根の下で過ごし、共に同じ布団に……炬燵布団に入る、謂わば嫁と同義語の義妹である私は、宗にぃみたいなお馬鹿さんじゃありません!」

「妹、さり気なく女性陣を牽制するな。まぁそれはともかく、宗佐の側にいる俺の成績はお前らも知ってるだろ」

「感染の可能性は皆無です」

「染みこむだのなんだの見当違い」


 説き伏せるように話せば、男達はもちろん、呆然としていた宗佐や月見までもが視線を向けてくる。

 その視線に答えるべく、俺と珊瑚は口を開いた。


「つまり宗にぃは単独でお馬鹿さんなんです」

「つまり宗佐は単独で馬鹿だ」


 俺達の断言を最後に、教室内が再び静けさに包まれる。

 次いで各地から小さなざわつきが上がりはじめた。どうやら納得してくれたようで、「確かにそうだ」だの「納得の理論だ」だのと、内容こそ馬鹿馬鹿しいしいが声色は真剣そのものだ。……納得するのもそれはそれで宗佐への罵倒でもあるのだが、今は気にするまい。

 そうして誰もが納得の表情を浮かべると、喚いていた集団から一人の生徒が出てきた。

 最初に声をあげたやつだ。なにか吹っ切れたような晴れ晴れとした表情で俺の前で立ち止まると、爽やかな笑顔で片手を差し出してきた。


「悪いな敷島、それに芝浦の妹。俺達は勘違いしていた。『芝浦が単独で馬鹿』これ以上すべてを物語っている言葉はない」

「あぁ、理解してくれたんだな」


 良かった、と差し出される片手を掴んで応える。

 固く交わされる握手。誤解が解けたあとに生まれる友情……なんて素晴らしい話ではないか。


 ちなみにそんな友情劇をそばで見ていた宗佐はと言えば、酷く冷めた表情を浮かべた後、


「本人がここにいるんだけど」


 と呟いた。

 もちろんそれに対して俺と珊瑚は、


「「知ってる」」


 と返しておいた。

 宗佐が恨めしそうに唸り声をあげる。それを見る月見と桐生先輩は苦笑を浮かべ、木戸に至っては声をあげて笑いだした。

 横目で珊瑚を見れば、彼女もまたこの賑やかさに笑っている。目元はまだ赤いが、少しは気分が晴れただろうか。



 なんとも馬鹿馬鹿しく、騒々しく、そして普段通りのやりとりの中、俺は誰にも気付かれないように小さく安堵の息を吐いた。

 



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