第18話 もしもいつかの最悪な話
グラウンドにいる生徒達の賑やかな声はどこか遠く聞こえ、近くを走り抜けていった生徒の足音さえも離れた場所から聞こえた気がする。周りの景色はいつも通りの学校なのだが、俺達だけ別の場所にいるような、奇妙で居心地の悪い感覚。
項垂れるように話す宗佐もまたその居心地の悪さを感じさせる要因の一つなのだが、それは俺よりも宗佐の方が強く味わっているだろう。
学校という日常生活に忌々しい異物が紛れ込んだ。それも、クラスメイト達の前で――なにより、一途に想う月見と、大事な妹である珊瑚の目の前で――暴力沙汰を見せてしまったのだ。宗佐の胸中は計り知れない。
それでもと話を続けようとし、宗佐が一瞬言葉を詰まらせた。
当時の思いが蘇ったのかギリと歯ぎしりをし嫌悪感すら漂わせる。その表情から、この先語られる話が気分の良いものでは無いのは容易に分かる。
そうしてしばらく宗佐は思いつめるように黙った後、自分のなかで整理がついたのか溜息交じりにゆっくりと口を開いた。
「あいつ毎日酒飲んで、母さんに怒鳴り散らして……。そのうち母さんに手をあげるようになったんだ」
「手をあげるって、お前、それ……」
「ガキだったけど俺だって男だし、母さんを守ろうとしたよ。でも碌な抵抗できなくてさ、殴られたりとか蹴られたりとか毎日で……」
酷かったんだ、と、思い出したくないのだろう言葉を濁す。
当時の宗佐が何歳だったのかは分からない。だが以前に珊瑚が宗佐の小学生時代の話をしていたので、少なくともそれ以前、もしかしたら十歳にも満たない頃か……。
到底、大人に勝てるわけがない。それが酔っぱらったあげくに家族に暴力を振るうような男なら猶更だ。息子相手と言えども手加減するとは思えない。
想像するだけで血の気が引く。
それが顔に出ていたのか、宗佐は俺へと視線を向けると眉尻を下げて笑った。酷い話だろ、なんて笑い飛ばしてくるが、さすがにそれに応じてやることはできない。きっと今の俺は見て分かるほどに青ざめているのだろう。
「一時期は先生とか近所の人とかにも心配されてさ。母さんと親戚の家に避難して、離婚したんだ」
詳細は話したくないのだろう短くまとめて宗佐が話を終わらせる。対して俺はなんと言えばいいのか分からず、当たり障りのない相槌を返すしか出来なかった。
気の利いたこととか、慰めの言葉とか、励ましとか、そういったことが何一つ出てこない自分の話術のなさに嫌気がさす。
そんな何とも言い難く重い空気の中、宗佐が深く溜息を吐いた。
「もう何年も音沙汰なしだったのに、何を思ったか俺達の前に現れてさ。……久しぶりに見たけど、あいつと俺やっぱり似てるよな」
俺に同意を求めるというより、自分自身に言い聞かせるような声。
それに対して俺は「中身は正反対だけどな」と言い捨てた。
父親と宗佐は確かに親子だと思えるほどに似ていた。爽やかな顔付き、穏やかな空気、少し頼りなげな笑み、どれも血の繋がりを感じさせる。
だが見た目だけだ。中身は違う。
宗佐が語る父親の話は、どれをとっても宗佐とは似つかわしくない。
「お前、家庭訪問の内容もう忘れたのか? あんなに散々言われても効いてないんだから、一度の失敗で挫けた男とじゃ比べられないだろ。それに良い大学だのエリートコースだの、お前とは縁のない話だし」
わざと冗談めかして告げれば、宗佐が「言いすぎだろ」と苦笑を浮かべた。
次いで「少しは懲りた」と言ってくるが、俺はそれにはわざとらしく肩を竦めてかえしておいた。宗佐が不満そうに俺を睨みつけてくる。……いつも通りの、否、いつも通りに振る舞おうとするやりとり。
もっともそんなやりとりもすぐに終わり、宗佐はすぐさま表情を暗くさせてしまった。再び視線を他所に向けると辛そうに目を細める。
「……父親、だもんなぁ」
諦めと自虐を綯交ぜにしたかのような声色で宗佐が呟く。
次いでゆっくりと広げた己の手に視線を落とすのは、離れようのない自分の身体を恨めしく思っているのか。
「今は名字も違うし赤の他人だと思ってるけど、でも俺、やっぱりあの男の息子なんだよ……」
「宗佐、そんなふうに言うなよ」
「半分あいつの血が入ってるんだから似てて当然だ。だから、俺もいつか……」
「おい、なに馬鹿なこと言ってるんだ」
へんなこと言うな、と俺が制止すれば、それに対して宗佐が顔を上げた。
苦しそうな、険しい表情。
「でも事実だろ。俺とあいつは血が繋がってるんだ! 見ただろ、俺はあいつを殴ったんだ!昔のあいつみたいに!」
「それは妹を守るためだろ、ただの暴力と一緒にするな。父親だからってそこまで似るはずないだろ!」
「だけど似てるんだよ! 似てきてるんだ! あいつの若い頃の写真なんて俺とそっくりで、だから俺もいつか……!」
いつか自分の家族に手をあげるかもしれない。
宗佐が悲鳴じみた声をあげた瞬間、俺の脳裏に珊瑚の顔が浮かんだ。
ぐうたらな宗佐に対して呆れながらも苦笑を浮かべる、妹としての兄妹愛と一人の少女としての恋心をない交ぜにした、辛そうでそれでいて嬉しそうな笑み。可愛らしく、そして視線の先にいるのが俺ではないことがなにより悔しい、珊瑚らしい表情。
それを宗佐が、と考えた瞬間、俺は怒鳴るより先に宗佐の胸ぐらを掴んでいた。そんなことあり得るわけがない、何を馬鹿なことを言ってるのか。
それでも、もしそんなことがあるというのなら……。
「お前があの男みたいになってみろ、俺がお前をぶん殴ってやる!」
宗佐が家族に手をあげようなんて思えなくなるほど殴って、頭を押さえてそんな考えごと地面に叩きつけてやる。
そう俺が怒鳴るように訴えれば宗佐が僅かに言葉を詰まらせ、掠れる声で小さく俺の名前を呼んだ。その声に俺も我に返り、慌てて胸ぐらを掴んでいた手を離す。
俺の発言に唖然としていた宗佐はそのままドサと尻餅をつき、そうしてしばらく呆然としたかと思えば苦笑を浮かべた。はは…とぎこちないながらも笑い声が宗佐の口から漏れる。
「なんだよそれ、俺を殴るって……」
「うるせぇな、お前にはそれぐらいの荒療治がちょうど良いだろ」
「だからって、暴力に暴力で返すってどうなんだ」
話している内に宗佐の笑みが強まる。多少なり吹っ切れたのか普段の調子で笑う宗佐に、俺も負けじと軽口で返す。宗佐の笑い声に内心で安堵したのだが、今言えば馬鹿にされそうなので黙っておく。
代わりに「さっさと教室に戻るぞ」と未だ尻餅をついたままの宗佐を軽く爪先で蹴れば、苦笑を浮かべた宗佐がそれを受けて立ち上がった。
「戻りたくないなぁ」と頭を掻きながらぼやくところを見るに、教室の空気が悪くなっているのを案じているのだろう。
そうはっきりと口にするあたりが普段通りの宗佐らしく、俺は肩を竦めながらも再度足で蹴って急かしてやった。
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