第5話 傘
傘は大振りで、そのうえ俺も珊瑚も守るべきは鞄と考え間に挟んでいるため、一つの傘に入っているとはいえ密着はしていない。
だがさすがに二人と鞄二つ覆うほどの面積は傘には無く、珊瑚を濡らすまいと彼女の方に比率を置けば、自然と俺の肩が濡れる。
「健吾先輩、濡れちゃってます。もっとそっち側に持っていいですよ」
「いや、そうしたらお前が濡れるだろ。俺は鞄さえ無事ならいいんだ」
だから気にするな、と話しながら歩く。
珊瑚もそれならと考えたのか、鞄をぎゅっと抱えこんで少しだけ距離を詰めてきた。傍目には鞄を後生大事に守っているように見える。
いや、実際に鞄を守っているのだ。
それは俺と同じ『鞄の予備がない』だの『教科書やノートが濡れると後々使いにくい』だのと言った理由もあるだろうが、それ以上に……。
ちらと珊瑚の胸元に視線をやった。蒼坂高校指定の夏用シャツ。その胸元にはネクタイが……無い。
彼女はいつも宗佐から貰ったネクタイを着けているが、雨の日の登下校時だけは外している。外に出る時は雨に濡らすまいと大事に畳んで鞄にしまい、校舎に入るといそいそと着けだすのだ。
以前の俺であれば、その姿を見て健気なものだと感心しただろう。どうしてあの馬鹿をそれほど慕えるのかと悩んだかもしれない。
だが今となっては珊瑚の健気さは俺の胸を痛める。以前に見た、泣きながら己の恋の末路を訴える彼女の悲痛な表情が脳裏を過る。
「……卒業までに、あの馬鹿を一発ぐらい殴っておきたいな」
そうでもしないと俺の気も晴れない。
思わず呟けば、どうやら俺の言葉は珊瑚に届いていたようで、きょとんと眼を丸くさせてこちらを見てきた。突然どうしたと言いたげな表情だ。
「馬鹿って宗にぃの事ですか? 雨の八つ当たりはさすがに可哀想ですよ」
「いや、そうじゃないんだが……。まぁそういう事にしておくか。ところで俺が『馬鹿』って言っただけで宗佐の事だと思うのはどうなんだ? 確かに宗佐の事なんだが酷くないか?」
「そりゃ私だって他の女の子達みたいに『勉強が苦手でも芝浦君は素敵』って思っていたいですよ。だけどそれより同じ芝浦一族として『兄がやばい』という感覚が勝ってしまうんです」
『恋は盲目』とはよく聞く言葉だ。
俺自身、月見や他の女子生徒達が宗佐に見惚れるのを目の当たりにしその言葉が事実なのだと実感している。彼女達の中では、宗佐の間抜けなで馬鹿な言動も『抜けてるところが親しみやすい』に変換されるのだ。いわゆる『隙』というものなのだろうか。
だが珊瑚は宗佐の妹。同じ芝浦姓を名乗る身。
少し隙が……等と甘っちょろい事は言えないらしい。
「なるほど、辛いところだな」
「試験結果が出た後の芝浦家の空気の重さと言ったらないですよ」
「しかし、それでよく宗佐はうちの高校に受かったよな」
蒼坂高校は名を馳せるほどのトップ校ではないが、それでも偏差値は高い方である。加えて立地もよく自由な校風とあり、受験時の倍率もそこそこ高かったと聞く。
そこに合格したのだから、宗佐の地頭は言うほど悪くないのでは……と話せば、珊瑚が盛大に溜息を吐いた。
「宗にぃ、勝負事にはやたらと強いんです。受験の時だって、私とお母さんはずっと心配してたのに、宗にぃは妙に自信たっぷりで受かるって断言してたし」
「……あぁ、あいつそういう所あるよな」
土壇場に強いというか、引きが良いというか、運を味方につけているというか。
羨ましい話だ。むしろここまでくると羨むのも馬鹿らしく思えてくる。
「勝負の神様っていうのはもしかしたら女なのかもな」
「それはつまり、勝負の神様も宗にぃに惚れてるってことですか」
俺の話に、珊瑚が呆れを込めたような声色で返す。
もちろん冗談だ。彼女も分かっているのか、否定する気もないようで呆れた表情を浮かべている。
そうして他愛もない雑談を続け、そして時折は携帯電話に送られてくる宗佐からのゲーム進捗を珊瑚と二人で眺め、芝浦家に着いた。――ちなみに、ゲーム進捗について珊瑚は「証拠確保です!」と言いながら画面を写真に撮っていた――
芝浦家は俺も何度も遊びに来ている。洋風の、極平凡な一軒家だ。
その隣には幾分古い和風の家が建っており、こちらも芝浦家だと説明されたのはいつだったか。二軒は庭続きで隣接しているが、一見では単なる他人同士の家だと思うだろう。
洋風の家は、主に宗佐と母親が暮らしている『新芝浦邸』。
和風の家は、主に珊瑚と祖母が暮らしている『旧芝浦邸』。
「なんだ、今日は新芝浦邸の方に帰るのか?」
新邸の玄関へと向かう珊瑚に声を掛ければ、彼女は頷いて返してきた。
「こっちにはお父さんの傘があるんです。折り畳み傘より大きいし、骨もちゃんとしてるから、そっちを使ってください」
雨脚は先程より強くなっている。さすがに豪雨とまではいわないが、確かに頑丈な傘を借りられるのなら有難い。
悪いな、と一言告げれば、珊瑚はにんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべて「証拠写真のお礼です」と言ってきた。
相変わらず生意気な笑みだ。だが今回は俺には害はないので放っておく。むしろ宗佐は多少痛い目を見た方が良いと思う。
そんな事を考えつつ、玄関先の屋根の下まで行き、玄関扉を開ける珊瑚を見届ける。
彼女が扉を開けて「ただいまー」と屋内へと声を掛ければ、母親らしき女性の声が聞こえ、次いで玄関正面にある階段から降りてきたのは……、
「おかえり珊瑚、風呂湧いてるからこっちで入っちゃえば……って、健吾、どうした?」
と、俺を見て不思議そうな表情をする宗佐。
Tシャツに膝下丈のズボンと、いかにも部屋着といったラフさである。
なんで居るのかと言いたげな表情で俺を見てくるが、妹の帰宅を出迎えればそこに友人の姿があったのだから驚くのも無理はないだろう。
「傘が無くて、妹に入れて貰ったんだ。で、家まで帰るのに親父さんの傘を貸してくれるって」
「あぁ、そうだったのか。梅雨明けたのに急に降ってきたもんなぁ」
「ところで宗佐、試験勉強を断って進めたゲームはどうだった?」
「聞いてくれよ、ようやく新装備が作れたんだ! いやー、最後の素材が出なくて苦労した。今夜空いてたら一戦いかないか? ……はっ、違う! 俺はゲームを優先なんかしてない!」
しまったと言いたげに宗佐が前言撤回する。この分かりやすさと言ったらない。挙句に乾いた笑いを浮かべて「いったい何の話だか」と白々しく誤魔化すのだ。
話を聞いていた珊瑚の眉間に皺が寄り、随分と険しい表情で宗佐を見つめている。恋心を抱いた相手に向けていい表情ではないが、胸中を考えれば仕方あるまい。今の彼女は恋愛とは別、不出来な兄を視線で咎める厳しい妹だ。
そんな兄妹のやりとりを見つつ、俺は首を横に振ってみせた。
「まさか健吾……俺を売ったのか……!?」
「悪いな、宗佐。傘に入れてもらったお礼に証拠写真を提供した」
「裏切りだ……! くそ、今回の試験は『ゲームを我慢して勉強したけど成果にならなかった』って言い訳するつもりだったのに!」
「試験前から言い訳を考えるなよ」
呆れを込めて告げれば、宗佐がまたも乾いた笑いで誤魔化してきた。そのうえ「珊瑚、タオルを持ってきてやるからな」とそそくさと奥へと引っ込んでいく。
まったく、と珊瑚が呆れのこもった溜息を吐き、次いで玄関の隅にある傘立てから一本取り出した。
黒一色の大振りの傘。閉じた状態でも骨が強いと分かる。
いかにも成人男性用といった代物だ。
「健吾先輩、これで大丈夫ですか?」
「あぁ、悪いな。でもそれ使っていいのか?」
傘立てにはまだ数本傘がささっている。だが男性用らしき色合いのものは一本だけ、宗佐が普段使っているものだ。
他には朱色とオレンジ色の傘が一本ずつ。朱色の方は梅雨時に珊瑚が使っていたのを見た。となればオレンジ色の傘はおばさんのものだろう。あとは細身のビニール傘が二本ほど残されている。
見たところ父親の傘は珊瑚が手にしている一本だけだ。となればそれを俺が持ち出してしまうのは気が引ける。もちろん、明日には返すつもりだが。
そんな俺の考えを察したのか、珊瑚が「大丈夫ですよ」と返してきた。
「今お父さん居ないんです。今年も夏は帰ってこられないって」
あっさりと珊瑚が言い切り、だからと傘を差しだしてきた。
芝浦家の父親は仕事で海外出張をしており、年に数回戻ってくると以前に聞いたことがある。
それも仕事柄戻ってくるのは不定期で、一月ほど滞在したかと思えば半年家に戻ってこないという時もあるという。かなり多忙なようだ。
ゆえにこの傘も出番が殆どないらしく、買ったは良いが父親が使ったのは一度か二度だという。
それなら、と俺も礼を告げて傘を受け取った。
ズシリと少し重いが、雨脚の強い今日はこの重さも頼りがいに感じられる。
「それじゃ借りていくな。……ところで、宗佐に伝えて欲しいことがある」
「なんですか?」
「今夜十一時って伝えてくれ。いや、特に何があるわけじゃないし、草原を駆けまわる予定でもないんだが」
誤魔化しつつ話せば、珊瑚が随分と冷たい視線を送ってきた。きっと今の俺は先程の宗佐にも負けない白々しさだろう。
「夜更かししないでくださいよ」という一言には乾いた笑いで返し、台所から現れたおばさんに軽く挨拶をして芝浦邸を後にした。
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