第4話 戻り梅雨

 


 放課後になれば幾分涼しく……というわけでもない。

 さすがに太陽が真上にある日中に比べれば涼しくはあるのだが、それでも夕方はまだ気温が高い。とりわけ今日は午後から雨が降り始め、ただでさえ高い気温に湿度が加わる。じっとしているだけで汗ばむぐらいだ。


「……あれ」


 と呟いたのは、そんな放課後の一時。

 そろそろ帰ろうと昇降口に向かったのだが、鞄の中にあるはずの折り畳み傘が無い。

 入れたはずなんだけど、と記憶を辿れば、折り畳み傘を鞄に入れた記憶と、その翌日にさっそく使った記憶が脳裏に蘇る。その後に鞄にしまい直した記憶は……残念ながら無い。

 つまり忘れたというわけだ。


「しまった。梅雨明けって聞いて油断してたな」


 昇降口から覗く外の様子を窺えば雨はいまだに降り続いている。土砂降りとまではいかないが、走って帰れる雨量ではない。

 職員室に行って先生に相談すれば傘を借りれるだろうか。それとも家が同じ方向の友人を探して傘に入れてもらうか……。だが既に時間は遅く、人はまばら、後者の望みは薄い。

 ちなみに駄目元で家に電話をしてみたのだが、背後から小学生男児の遊ぶ声と赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、電話に出た母さんもかなり忙しそうにしていた。とうてい「迎えに来てくれ」等と頼む気にはならない。


「走って帰るか。でも制服は予備があるから良いとして、鞄が濡れるのはきついな」

「健吾先輩、どうしたんですか?」

「いっそ鞄はゴミ袋に入れるか。いや、それは恥ずかしい。それならもう鞄は置いていった方がいいな。……ん?」


 背後から名前を呼ばれ、振り返れば珊瑚が首を傾げてこちらを見ていた。

 こちらに歩み寄ってくる彼女の手には……折り畳み傘。


「よぉ妹、こんな時間まで部活か? 雑用部は夏でも忙しいんだな」

「健吾先輩の妹じゃありませんし、雑用部でもありません! でもベルマーク部の活動でした!」


 失礼なと珊瑚が不満を訴えつつ、部活動なのは正解だと報告してくる。

 彼女が所属する雑用部……もといベルマーク部は、どうやら年中依頼があるらしい。

 運動部のような大会も無ければ、さりとて文化部のような発表の場があるわけでもない。教師から他部活の依頼までと幅広く活動し、尚且つベルマークという上限の無い目標なだけに、意外と多忙な部活のようだ。


「今日はどこの部活からの依頼だったんだ?」

「調理部と家庭科部です。調理道具のお手入れや、調味料の在庫管理をしていました。あと縫い針の本数を数えて、待ち針を数えて、ミシン針を数えて……」 

「肩が凝りそうな仕事だな。ご苦労さん」

「でも調理部の人達がお菓子をくれたので良い仕事でした。ところで、健吾先輩はどうしてこんな時間に?」


 俺が帰宅部という事を知っていて疑問を抱いたのだろう、珊瑚が首を傾げて尋ねてきた。


「図書室で勉強してた。期末試験が近いだろ、家だと煩くて落ち着いて勉強なんて出来ないからな」

「試験勉強……。それはもちろん宗にぃも一緒だったんですよね! 宗にぃと一緒に、この時間まで勉強していたんですよね!」


 珊瑚が切羽詰まった声で尋ねてくる。

「一緒だった」という俺の返事を乞うような必死さではないか。

 だが、現実というのはいつだって残酷だ。


「残念ながら俺一人だ。一応宗佐にも声は掛けたんだけど、良い笑顔で『勉強よりも俺は草原を駆けるよ』って返してあいつは帰っていった」


 ちなみに草原云々はゲームの話である。今頃きっと宗佐――が操作するプレイキャラ――は草原を駆けまわっていることだろう。というか、俺が図書室で勉強している最中にもやたらと進捗を報告してきた。

 期末試験前に随分と余裕ではないか。

 さすが宗佐だと俺が褒めれば、珊瑚が額を押さえて唸り声をあげた。

 だが次の瞬間「それはさておき」と話題を変えるあたり、宗佐の不出来さに対しての慣れを感じさせる。さすが妹だ。


「それで健吾先輩はこんな時間なんですね。おまけに傘が無くて帰れない、と」

「……そこまで分かってたのか」

「だって健吾先輩、遠目に見てても鞄あさったり携帯電話を弄ったりで一向に帰ろうとしないんですもん。外の様子を覗いては溜息を吐いて、悩んで、その手に傘はない。以上の事から、傘が無いと考えるのが妥当です」


 珊瑚が己の推測を語る。得意気で、まるで犯人を前に己の推理を披露する探偵のようではないか。

 ふふん、と胸を張る彼女に思わず拍手を送ってしまう。名推理だ。


「そこまで分かっているなら話は早い。妹、予備の傘は」

「予備はないです」

「ベルマーク部の部員に予備の傘持ってる奴は」

「もうみんな帰っちゃいましたよ」


 曰く、珊瑚のみ別件で職員室に用事があり、部活後に寄っていたらしい。

 友人も先輩も先に帰ってもらったと話す彼女に、俺は参ったと頭を掻いた。

 やはり教室に戻ってみるか。だが時間を考えるに希望は薄い。部活で残っている奴等はと一瞬期待するも、運動部は雨のため中止のところもあるし、今どの部活がどこで活動してるかも把握しきれていない。となると職員室に行って教師を頼った方が早いかもしれない……。

 どうしたものか、とあれこれと考えを巡らせていると、珊瑚が「仕方がないですね」と肩を竦めた。


「傘に入れてあげます」

「良いのか?」

「本当は依頼書を書いて小坂先生の判子を押してもらって成立するんですが、緊急依頼として受理してあげます」

「なるほど、ベルマーク部の依頼ってことか」


 どうやらベルマーク部として俺を助けることにしたらしい。

「緊急依頼は割高ですよ」と意地悪く笑んでくるが、今の俺には有難い話だ。無事家に帰りついたら、家中を引っ繰り返して

 ベルマークを搔き集めよう。


「それじゃ、帰りましょう」


 珊瑚が先を促すように歩き出し外靴に履き替える。折り畳み傘を開けば、彼女の手元に濃紺のチェック柄が広がった。大振りで柄もシンプルなあたり、父親のものだろうか。

 聞けば、祖母が今年の戻り梅雨は大雨になるかもしれないと言っていたらしい。それを聞き骨組みのしっかりとした折り畳み傘を鞄にしまうあたり立派ではないか。


 うっかり折り畳み傘を忘れた俺とは大違いだ。


「傘は健吾先輩が持ってください。健吾先輩の高さに合わせてたら、私の腕が疲れちゃう」

「あぁ、それは別に良いけど……」

「どうしました?」


 動けずにいる俺を、珊瑚が不思議そうに首を傾げて呼ぶ。

 そこには俺と帰る事を、それどころか傘に入れてやる事を気に掛ける様子は一切無い。


 ……これはつまり、相合傘というものではなかろうか。


 と、そんな事を俺が考えて躊躇っているなど、珊瑚は露程も思っていないのだろう。


「そうだ、俺、何を気にしてるんだ。相手は妹だ」

「先輩の妹じゃありません!」

「妹だ。妹、宗佐の妹だ」

「だから宗にぃの妹じゃ……い、妹です! もう、私だけ帰りますよ!」

「あ、待て、悪かったよ。俺も帰るから入れてくれ」


 痺れを切らして俺を置いて帰ろうとする珊瑚を慌てて追いかける。

 ひょいと彼女の手から折り畳み傘を奪えば、不満そうな顔で俺を睨みつけてきた。それを乾いた笑いで誤魔化し、言及される前にと歩き出す。


 俺の態度が白々しかったのか珊瑚の表情はしばらく険しかったものの、逐一送られていた宗佐のゲーム進捗を話してやれば、途端に怒りの矛先がそちらへと向かった。

 すまない宗佐……。今だけはお前を隠れ蓑にさせてもらう。

 そう、今頃なにも知らずに草原を駆けまわっているのだろう宗佐に心の中で詫びた。



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