第二章 二年生夏

第1話 夏の暑い日

 


 春の過ごしやすい時期はあっというまに過ぎ去り、すぐに暑くなる。

 とりわけ今年は梅雨が明けるのが早く、夏休み目前の今は既に真夏日と言える気温を叩きだしていた。

 幸い蒼坂高校は各教室にエアコンが設置されているが、それでも登下校は太陽に晒される。ようやく学校についてもなかなか汗は引かず、シャツのボタンを一つ余分に外してはたはたと手で己を扇いだ。


「あっちぃ……」


 唸るように呟き、ペットボトルを仰ぐようにして生温くなった水を飲む。

 エアコンは稼働しているとはいえ、設定温度はあまり低くはない。節電を意識した設定だ。俺としては寒いぐらいに下げて欲しいところなのだが、家庭用と違いこちらで勝手に操作は出来ない。すべて職員室で一括管理されているらしい。

 それでも外よりマシかと考えていると、ゴンと強く窓を叩かれた。

 見れば宗佐そうすけが外に立っている。何事かと窓を開ければ上半身だけ室内へと乗り入れ、ぐでんと項垂れた。


「おい、何だよ」

「暑い……死ぬ……溶ける」

「ここまで来たならさっさと教室に来ればいいだろ。窓閉めるから離れろよ」


 ぐいと宗佐を押し返そうとするも、これが中々どうして動かない。

 それほど涼を求めているのか。まぁ気持ちも分からないでもないが。

 だがここで涼ませてやる義理はない。窓を開けているため冷気が逃げていくし、外からの生温い風が入ってきて俺まで暑くなってくる。むしろ宗佐の体さえ熱源に感じられる。暑い中で熱せられた男の体……。なんて暑苦しくて気持ち悪い。

 さっさと宗佐をどかして窓を閉めよう。そう考え、俺は宗佐の背後に立つ人物へと視線をやった。


「おい、妹。宗佐をどかすの手伝ってくれ」


 そう俺が声を掛けたのは、もちろん珊瑚さんごだ。

 夏用の半袖シャツに制服のスカート、胸元には『S・S』のイニシャルが刺繍されたネクタイ。夏らしい装いだがそれでも暑いのだろう、彼女は折り畳み式の扇子ではたはたと己を扇ぎつつ「健吾けんご先輩の妹じゃありませぇん」と声をあげた。いつもの返しではあるが、間延びした口調から夏の気怠さを感じさせる。

 挙句に暑いから力仕事はしたくないと訴えてきた。尤もな話だが、俺としては「はいそうですか」とはいかない。


「このままだと無理やり窓を閉めて、宗佐が上下で真っ二つになるぞ」

「そんな、それは困ります。するならせめて左右で二つにしてください」

「よし分かった。そういうわけだから、宗佐、うまい具合に窓のレーンに横になれ。左右に真っ二つにしてやる」


 ほら、と俺が促せば、物騒すぎる話題に宗佐が慌てて身を引いた。

 非道だと俺を責め、次いで珊瑚へと向き直る。


「珊瑚、珊瑚は大事なお兄ちゃんが真っ二つになっても良いのか!? 左右なら良いのか!?」

「大好きで尊敬する宗にぃが二人になったら、今よりもっと幸せだなって思ったの」


 えへ、と珊瑚が可愛らしく笑う。

 ……可愛いが、なんてわざとらしい可愛さだろうか。

 だというのに宗佐は一瞬にして表情を緩ませ、「そうかぁ?」と間延びした声を出した。嬉しそうで、背後に花畑が見えそうだ。


 馬鹿だ、と俺は心の中で呟いた。

 元々宗佐の事は馬鹿だと思っていたが、俺が思っていた以上に馬鹿だ。妹馬鹿だ。


「俺が二人になったら今よりもっと幸せ、なんて、珊瑚は可愛い事を言ってくれるな。なぁ、健吾」

「そうだな。その幸せの前提にお前は真っ二つになってるわけだが。しかもそれをやるのは俺ときた」

「二人の兄に、妹が一人。なんて幸せな芝浦しばうら兄妹!」

「分かったからさっさと教室に入ってこいよ。妹も、馬鹿に付き合って外に居ると熱中症になるぞ」


 早く校舎に入るよう促せば珊瑚がコクコクと頷いた。暑いのだろう、その頬がほんのり赤くなっている。

 次いで彼女は宗佐のシャツをぐいと引っ張り、引きずるように強引に歩き出した。

 珊瑚が何やら宗佐に訴えている。おおかた「無駄なやり取りに付き合わせないで」とでも言っているのだろう。そんな珊瑚を宗佐が扇いでご機嫌を取っている。

 相変わらずともいえる二人の背中が徐々に小さくなり、校舎へと消えていった。


 それを見届け、ようやく静かになったと俺は窓を閉めた。

 もっとも、それから数分後に宗佐が教室に入ってきて、「いやぁ今日も暑いよな。さっきも珊瑚がさ」と話し出して煩くなるのだが。



 ◆◆◆



 エアコンか稼働していても教室内は暑い。

 さすがにうだるような暑さとまではいかずとも、一室に数十人が居るのだから熱がこもって当然。大人しく座っているからまだ過ごせているだけだ。

 とりわけ先程の授業を受け持っていた教師は所謂『熱血教師』というもので、実際に熱を放っているわけではないとはいえ、見ているだけで暑っ苦しくなってくる。体育ならまだしも、座学は静かに授業を受けたい季節だ。


「せめてもう少し設定温度を下げてくれれば良いんだけど。まぁでも、エアコンが無い学校に比べればマシか」


 そう自分に言い聞かせつつ後ろの席を振り返れば、宗佐もまた暑さでうんざりだと言いたげな表情をしている。


「さすがにこうも暑いと授業中に寝れないな」

「そもそも寝る時間じゃないだろ」

「まぁそう言ってくれるな。それに設定温度を下げて欲しいってのは同意だ。せめて二限の終わりぐらいまでは設定低めにしてくれないと、外歩いて来た熱が全然引かない」


 うちわで己を扇ぎ、宗佐が不満を訴える。

 これに関しては俺も同意だ。車通勤の先生達と違い、俺達生徒は炎天下の中を徒歩や自転車で登校している。熱がこもった状態で登校して中途半端な設定温度の教室に居たのでは、いくらじっと座っているとはいえそう簡単には熱は引かない。

 現に……、


「月見がいまだに溶けてるもんな」


 そう俺が斜め後ろへと視線を向ける。

 そこにはクラスメイトの月見弥生つきみやよいが……、


 ぐでんと机に突っ伏していた。


 彼女らしからぬだらしなさだが、聞こえてくる「暑いよう」という訴えを聞くに溶けずに原型を留めているだけマシか。

 どうやら月見は暑さに弱いようで、陽射しが強くなり始めた頃からこうやって休み時間に溶けるようになった。

 友人の一人が通りがかり「弥生、今日も溶けてるねー」と慣れ切った声を掛け、買ってきたペットボトルで彼女の頬を撫でて去っていく。


「……半溶け月見そば」

「美味しそうな呼び方しないでよぅ……。どうしても暑いのは苦手で……。ごめんね、こんなだらしない姿を見せて……」


 ぐでんと体を机に預けたまま、月見が顔だけを上げて己のだらしなさを詫びる。惚れている宗佐に見られていると分かってもこれなのだからよっぽどだ。

 もっとも、月見がどれだけ暑さに参って溶けかけた姿を晒していても、彼女に対して幻滅するような奴はいないだろう。むしろこの情けない一面も魅力だと考えるだけだ。

 まさに宗佐がその典型で、「早く秋になればいいのに」とぼやいている月見を苦笑しながら見つめている。その瞳には幻滅や呆れの色は一切無く、それどころか同意を示して月見を扇ぎだした。その表情は月見への愛おしさと、そして話が出来る嬉しさで満ちている。


「先生に直談判すればもう少し設定温度を下げてもらえるかな。いや、いっそ武力行使と言わんばかりに職員室に乗り込んで、操作盤を強奪するんだ!」

「そんな過激なこと駄目だよ……!」

「でも月見さん辛そうだし。もう少し設定温度を下げれば楽になるかもしれないよ。月見さんのためなら俺……」

「え……。芝浦君、私のために……?」


 勢いづいた宗佐の言葉に、月見が目を丸くさせ……次いで頬を赤くさせた。

 だが自分で自分の「私のために」という発言が恥ずかしくなったのか、ガバと身を起こすと慌てて「違うの!」と声をあげた。


「そ、その、私のためだけっていうわけじゃなくて、その……ほ、他の子も暑くて困ってるもんね! 設定温度を下げて貰えたらきっとみんな助かると思うの!」

「あ、え、えっと、そうなんだ! それに珊瑚も暑いのが苦手で、だから設定温度を下げて貰えたら良いなと思って!」


 宗佐も慌てて言い繕う。きっと己の発言に気付いて恥ずかしくなったのだろう。

 ここで宗佐がはっきりと「月見のため」と念を押して言えれば二人の仲も進展しそうなものだが、なんとも惜しい……。

 月見も宗佐の誤魔化しを信じたようで、どこか残念そうにしつつも「そうなんだね」と話を続けている。そうして落ち着いたのかほぅと深く息を吐いた。

 慌てた事で汗を掻いたと恥ずかしそうに笑い、シャツの胸元を掴んで扇ぐようにして風を取り入れる。


 ……その姿に、俺も宗佐も思わず目を見張ってしまった。




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