第35話 『兄の友達』と『友達の妹』

 


 翌日、いつも通り余裕のある時間に登校し束の間の静かな時間を堪能していると、「おはよう」と横から声をかけられた。

 月見だ。相変わらず可愛らしく、俺が応えると穏やかに笑う。きらきらと目映い笑顔。宗佐やほかの男達が惚れ込むのもわかる。

 教室内にいた男達もこの笑顔に当てられたか、遠目ながらに月見を見つめて熱い吐息を漏らすのが聞こえてきた。

 クラスメイトなのだから声を掛けて朝の挨拶ぐらいすりゃ良いのに。とは思いつつも、そんな助言をしてやる義理もないかと無視しておいた。


「芝浦君、あの後大丈夫だったのかな? 今日はどうするんだろう。敷島君は何か聞いてる?」

「送り迎えに親が車出してくれるから学校には行く、って言ってたな。さすがに当分体育は休みだろうけど」

「そっか、学校には来れるんだね」


 良かった、と月見が弾んだ声を出す。

 登校するなり俺に尋ねてくるあたり、きっと宗佐と月見はまだ連絡先の交換をしていない。となれば月見に宗佐の様態を知る術はなく、きっと昨日帰宅してからも案じ、そして数日会えなくなるかもと不安を抱いていたに違いない。


「良かったな」

「そうだね、酷くないようで良かった。芝浦君だいぶ痛がってたから、もしかしたらって不安だったの」

「いや、確かに宗佐が軽傷で済んで良かったとも思うんだけど、それより宗佐が来れると分かった月見が嬉しそうで……。お、宗佐が来たな。噂をすれば何とやらってやつか」


 がらと開けられた教室の扉から、宗佐が普段よりゆっくりと顔を覗かせた。――ちなみに月見は俺に冷やかされ掛けたのを察して眉根を寄せていたものの、すぐさま宗佐へと視線を向けてしまった――

 さすがに一晩では完治はしていないようで、宗佐の動きは些かぎこちない。さすがによろけたり支えを使ったりはしていないが、慎重に歩く様は誰が見ても違和感を覚える。

 扉付近で雑談をしていたクラスメイトがそれに気付き、不思議そうに宗佐を呼んだ。


「芝浦、どうした?」

「いやぁ、それが昨日の放課後ちょっと怪我しちゃってさ。腰やっちゃったんだよ」

「昨日の放課後? 俺達がお前を捕まえようとしていた時にそんなことになってたのか」

「そうなんだよね。……いやちょっと待って、なんで俺を捕まえようとしてたの」

「気をつけろよ。そりゃ俺達もお前を捕まえて木に吊そうとはしてたけど、怪我させようとまでは考えてないからな。でも腰やったら不便だろ。何か困ったことがあるなら言えよ、今は吊さずに手伝ってやるから」

「どうしよう、優しさを全く感じられない」


 怖い、と宗佐が不信感を訴えつつ、それでも一応の感謝の言葉を返してこちらへと歩いてきた。片手をあげて朝の挨拶をするあたり、痛みは残っているがそう酷くも無さそうだ。

 それどころか、月見が声を掛けて心配すると途端にしまりのない笑顔を浮かべるではないか。

 この緩みきった空気は相変わらずだ。あの騒動の後だと平穏でなによりと思えてくる。

 ……あと毎度おなじみのこの呪詛も平穏な日常の証と言えば証だろう。


 ……それと、


「なんで今日も外にいるんだ?」


 窓の外へと尋ねれば、窓枠の下に隠れていた珊瑚がひょこと立ち上がって姿を現した。

 まだ目新しい蒼坂高校の制服。胸元にはチェック柄のネクタイ。『S・S』の刺繍がされた裾が彼女の動きに合わせてゆらりと揺れる。


「てっきり宗佐を支えて教室まで来ると思ってたけど、そこまではしてやらないのか?」

「それが、私も教室まで宗にぃを支えてあげるつもりだったんですけど、宗にぃってば車に携帯電話忘れちゃって」


 曰く、二人は正門まで母親に車で送ってもらい、珊瑚は宗佐を支えつつ校舎へと来た。

 そのまま二人で教室に……と昇降口から校舎へと入ろうとしたところ、宗佐が車に携帯電話を忘れたことを思い出したらしい。それを聞き、宗佐に代わって珊瑚が車に戻り携帯電話を取って戻ってきたのだという。

 まったくと大袈裟に溜息を吐き、珊瑚が手にしていた携帯電話を宗佐へと手渡した。「悪いな」とへらと笑ってそれを受け取る宗佐のしまりのない顔といったらない。


「宗にぃは可愛く可憐で優しい妹を持ったことをもっと感謝すべきだよ。なんだったら、数日は私のことを『珊瑚様』と呼んでも良いんだからね」


 珊瑚が小生意気に胸を張る。なんて恩着せがましい態度だろうか。

 もちろん冗談だ。それが分かって宗佐が笑いながら「珊瑚様」と彼女を呼んだ。更には「可愛くて可憐で優しい珊瑚様」と過剰に褒めだす。これには逆に珊瑚が慌てて「やっぱりやめて!」と前言撤回した。

 このやりとりに、聞いていた月見までもが笑いだす。


 芝浦兄妹は相変わらず仲が良い。


 ……だけど、珊瑚の真意は。

 己を『妹』と称することで隠す、胸の内は……。

 昨日見た、珊瑚の悲しそうな顔と、胸の内を吐露する彼女の苦し気な訴えが脳裏に蘇る。



「……健吾先輩、どうしました?」


 黙り込んだ俺を案じて珊瑚が声を掛けてきた。

 眉尻を下げた不安そうな顔。こちらの様子を窺う瞳が、なにも言わないでくれと訴えているように見える。

 その弱々しい表情に、俺は小さく笑って返した。


「そうだな、宗佐は良い妹を持って感謝するべきだ」


 肩を竦めて宗佐に対して呆れを示せば、俺の返事に珊瑚がほっと安堵の表情を浮かべた。

 もっとも、安堵したかと思えばすぐさま怪訝な表情に変えて俺をじっと見つめてくる。


「そうやって肯定されると、それはそれで気持ち悪いですねぇ。いったい何を企んでるんですか」

「相変わらず失礼だな。ところで……」


 ふと珊瑚を呼ぼうとして言葉を詰まらせた。

 俺は珊瑚を『妹』と呼んでいた。それに対して彼女はいつも決まった口上で返してくるが、止めるようにはいってこない。だから今日まで続けてきた。

 だけどそれが早瀬に勘違いをさせ、今回の騒動の発端となった。俺がきちんと互いの関係が分かるように珊瑚を呼んでいれば、早瀬の嫉妬は珊瑚には向かなかっただろう。それは妹でありながら密かに宗佐を想う彼女には辛い事実だとしても、少なくともネクタイは盗まれずに済んだはずだ。


 だから『妹』ではなく、別の名前で呼ばなくては……。

 そう思えども今更どう呼べば良いのか分からず迷っていると、珊瑚が何かを察したのか、


「先輩の妹じゃありません!」


 と、いつもの言葉を口にしてきた。

 俺が呼ぶ前にである。あまりにはっきりと言い切るものだから「俺、まだ呼んでないよな?」と疑問を抱いてしまう。

 そんな俺の反応も面白かったのか珊瑚は随分と楽しそうだ。してやったりと笑っている。

  

「たまには私から仕掛けるのも良いと思いまして。可愛くて可憐で健気な美少女に、強かというスパイスが加わるんです。どうでしょう、これぞ最強ですね!」

 

 ドヤッと胸を張って誇る珊瑚に、俺は肩を竦めて溜息を吐き……、珊瑚に負けじとにやりと笑みを浮かべた。


「あぁ、そうだな。“可愛くて可憐で健気だけど強かな美少女の珊瑚ちゃん”」


 と、わざとらしく呼んでやる。

 珊瑚が一瞬きょとんと眼を丸くさせ……、ふるりと大袈裟に体を震わせた。慣れない呼ばれ方に違和感どころか寒気がするとでも言いたいのか。

 そのうえ僅かに身を仰け反らせて距離まで取ってくる。わざとらしい拒絶の姿勢ではないか。

 もっとも俺も慣れぬどころではない呼び方をしたため、なんとも言えぬ居心地の悪さを感じていた。


 そうして、眉根を寄せて怪訝な顔で顔を見合わせることしばらく……、


「これは無い」とどちらともなく笑い出した。



 珊瑚がそれで良いのなら、呼び方を無理に改める必要も無いだろう。

 俺達は『兄の友達』と『友達の妹』なのだから。




 ……この時は、まだ俺はそんな事を考えていた。




……第一章 了……





第一章、完結です!ここまでお読み頂きありがとうございます。

幕間に短編を挟み、次章は夏のお話になります。

まだ寒いこの時期に夏のお話と季節感皆無ですが、引き続きお付き合い頂けると幸いです。

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