第34話 ”妹”

 


 放課後もだいぶ経った今、部活動も半分近く終わったのか校内に残っている生徒の数はだいぶ減っている。

 廊下を走ってもすれ違うのは数人だ。それも奥まった方へと向かえば向かうほど少なくなり、俺が珊瑚に追いつく頃には周囲に人の気配無くなっていた。


 珊瑚の腕を掴む。

 振り返った彼女の髪が揺れ、泣きそうな顔で俺を見つめる。


「……健吾、先輩」


 珊瑚が掠れた声で俺を呼ぶ。

 だが名前を呼ばれても俺はなんと返して良いのか分からずにいた。情けない。咄嗟に追いかけて腕を掴んでしまったが、まだ頭の中で整理がついていないのだ。

 それでも何か言わなくてはと考え口を開くが、俺が何かを言おうとした瞬間、珊瑚が「冗談ですよ」と言葉をかぶせてきた。


「あ、あんなの冗談に決まってるじゃないですか。確かに私は宗にぃの事は大好きですよ。ちょっとどこかだいぶ抜けてるけど、あんなに優しい兄は居ませんからね。優しい兄と、可愛い妹、これ以上ない組み合わせです」

「……妹」

「だから先輩の妹じゃありません、私は宗にぃの妹です。……宗にぃの妹なんです。……血が繋がってなくても、妹なんです。ただの妹なんです」


 珊瑚の声が次第に弱々しくなっていく。

「妹」と繰り返すその言葉は、まるで自分に落とし込むような……むしろ自分に無理矢理押しつけているように聞こえる。

 苦しそうな声で、眉尻を下げ、そしてついには俯いてしまった。

 その姿が、掠れる声で繰り返される「妹」という言葉が、なんて痛々しいのか。


「妹、お前、本当は宗佐のことが……」

「どうして妹なんですかね……。私、こんなに宗にぃの事が好きなのに……。大好きなのに……誰より先に宗にぃと出会って、誰より先に好きになって、誰より一緒に居るのに……」


 震える声で珊瑚が話す。

 普段の元気で小生意気な彼女とは思えない弱々しい声。小さな肩が震え、俯く事で垂れたネクタイがゆらと揺れる。


 兄妹だからと交換したネクタイ。

 そこに意味などないと、珊瑚本人が繰り返すように言っていた。


「こんなに宗にぃの事が好きなのに、私は妹なんですよ……。嫉妬もしてもらえない、誰のライバルにもなれない。早瀬さんは私が妹だと知って落胆してた、月見先輩は私に宗にぃのネクタイを譲った……」

「あれはみんなお前のことを……でも、そうか……」


 あれだけ執着していた早瀬は、珊瑚が宗佐の妹だと知るや己の嫉妬が無駄だったと落胆した。ネクタイを貰うと決意していた月見は、それを屈託無く笑って珊瑚に譲った。

 すべては珊瑚が宗佐の妹だからだ。


 ……妹だから、恋敵ではないと、嫉妬する必要ないと、譲ってもいいと、彼女達はそう考えたのだ。


 珊瑚が宗佐を一人の男として恋い慕っていたのなら、これほど惨めな事はない。


「でも、それならどうしていつも誤魔化してたんだ。宗佐に対してもいつも冗談めかしてただろ」

「言えるわけないじゃないですか!」


 俺の言葉に、珊瑚が顔を上げて声を荒らげた。

 彼女の目尻にたまっていた涙が堰を切ったように溢れ出す。大粒の涙が頬を伝い、床に落ちる。

 涙で潤んだ瞳がじっと俺を見つめ、苦しそうに「言えるわけない……」と掠れる声で呟いた。


「私がちゃんと告白すれば、宗にぃはきっと正面から受け止めてくれる。真剣に話を聞いて、私が傷つかないように断ってくれる……。だって宗にぃは私の事を好きでいてくれているから。でも……」


 苦しげに珊瑚が呻く。


「違うんです……。宗にぃが私を想ってくれているのは……妹としてなんです。勘違いなんて出来ないぐらい、宗にぃは私を妹として愛してくれているんです……」


 宗佐と珊瑚の兄妹仲が強く確かだからこそ、それはあくまで兄妹仲でしかない。

 明確な違いは、他でもない、妹でありながら宗佐を恋い慕う珊瑚だからこそ分かるのだろう。


 宗佐から自分に向けられる好意は、決して男女のものにはならない、と。

 揺るがない兄妹仲だからこそ、揺らいでくれない。別の物にはなりえない。

 それでも乗り越えようと無理強いをすればどうなるか……。


「……私が想いを口にしたら、私は大好きな宗にぃから大事な妹を奪うんです」


 掠れる声で訴え、珊瑚が再び俯いた。

 小柄な彼女がいつもより小さく見える。こんなに脆く小さかっただろうかと、そんな場違いな事を考えてしまった。


 だけど、そうだ。

 仮にこれが珊瑚ではない、他の宗佐を慕う女子生徒だったなら、恋が終わっても関係は変わらずにいられる。友人でも、先輩でも、後輩でも、元の関係に戻れる。

 宗佐は不器用だが真摯な男だ。相手がそれを望むなら以前通りの関係を築くだろう。


 だけど珊瑚だけは違う。

 宗佐は珊瑚を大事にしている。誰よりも大事にし、可愛がり、家族として愛している。

 そして同じくらい、珊瑚から『兄として』愛されていると思っているのだ。自分達の兄妹仲は絶対だと、揺るがないと、信じ切っている。


「宗にぃには言えない……誰にも言えない……。私は妹なんです、芝浦珊瑚なんです。いつか宗にぃが誰かと結ばれても、それは変わらない……」


 宗佐が誰かと結ばれて珊瑚の恋が終わっても、妹として、兄が選んだ相手と向き合わないといけない。

 宗佐の側から離れるのなら、それは同時に恋した相手の大事な家族を奪うことになる。大事な妹を失えば宗佐は不幸になる、それを考えれば逃げる事も顔を背ける事も許されない。


 宗佐に打ち明けることも出来ず、誰にも言えず、誰のライバルにもなれず。

 誰よりも長く想い続けた彼女の恋はひっそりと終わり、そして宗佐と宗佐が選んだ誰かが歩む人生を、妹として眺める日々が始まる。


 なんて残酷な話だろうか。


「……だから、健吾先輩も忘れてください。私はただ兄妹仲の良い妹なんです。……ただの妹でしかないんです」


 震える声で珊瑚が「妹」だと繰り返す。これは俺に対してではなく、きっと自分に言い聞かせているのだろう。

 その言葉に、俺ははっきりと「忘れない」と告げた。

 珊瑚が顔を上げる。


「俺は忘れない。誰にも知らせず、宗佐にも伝えることなく終わっても、俺だけはお前の気持ちが兄弟仲じゃなくて恋だったって覚えてるから」

「健吾先輩……」

「……だから、頼むからそんなに泣くなよ」


 うまく慰める言葉が想い浮かばない。もう少しうまい言い方があれば良いのに。

 せめてとハンカチを取り出し珊瑚へと差しだした。彼女は小さく礼を言うと震える手でハンカチを受け取り目元を拭と、ゆっくりと顔を上げ痛々しいながらに笑った。今にも再び泣き出してしまいそうな儚い笑みだが、取り繕う気力は取り戻してくれたと考えるべきか。

「もう大丈夫です」という声は掠れていてまだ『大丈夫』とは思えないが、それでも少しは落ち着いてくれただろう。


 そんな珊瑚を見て、俺は小さく息を吐き……、


 そしてしまったと心の中で呟いた。

 どうしてこういう時に甥のハンカチを持ってきちゃうのかなぁ、俺は。


 あぁ、児童用ハンカチの独特な薄さと色の濃さが妙に目立つ。

 あれはたぶん、日曜朝の戦隊物のハンカチだ。探せばどこかに名前も書いてあるだろう。

 珊瑚もハンカチの違和感に気付いたのか、鼻を啜りつつ不思議そうに見つめ、おもむろに開いた。

 大きく描かれたヒーローのなんと目立つことか。あとやっぱり右下に甥の名前が書かれている。

 先程まで苦しそうに訴え涙を流していた珊瑚が、ハンカチの絵柄を見て数度瞬きをし、今度は俺を見つめてきた。悲痛そうだった瞳に、今が疑問の色が浮かんでいる。


「……出来れば回収したい。もしくは、せめて畳んで使ってくれ」


 己の至らなさに唸りながら頼めば、珊瑚が涙に濡れた目をぱちぱちと瞬かせ……、


「健吾先輩も、あんまり様にならないですね」


 と、楽しそうに笑った。



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