第33話 保健室の告白
幸い、宗佐の腰はただの打ち身ですんだ。
骨まではいっておらず、数日は痛むだろうが病院に行くほどではない。それが保険医の診断だった。
「色々とあったけど、まぁ大事ないようで良かった」
溜息混じりに呟き廊下を歩く。
宗佐は保健室で親の迎えを待ち、珊瑚も制服に着替えて宗佐と一緒に親を待つ。月見は保健室のベッドに横になる宗佐を案じていた。
そして俺はと言えば、一応念のため担任の教師への報告のため一人職員室へと向かっていた。
教室を出る際、宗佐に掛けられた「あんな所で転ぶなんて先生に笑われるな」という言葉を思い出す。これはきっと、先生への説明を『宗佐が転んだだけ』と誤魔化せという事だ。
俺もそれに対して「お前の無様な様を鮮明に話しておく」と了承の言葉を返した。
詳細を話すかどうかは珊瑚が決めるべきだ。
そして彼女は、困ったように肩を竦めるだけで何も言わずに俺を見送った。
職員室に行き、担任の先生に宗佐の負傷を知らせる。
もちろんネクタイに関することは説明せず、宗佐が外を走っていて、運悪く池の付近で足を滑らせ、哀れ池に落ちて腰を痛めた……という内容だ。
先生からはなぜ宗佐が外を走っていたのかと尋ねられたが、そこは真面目な顔で「男子高校生っていうのは時に無性に走りたくなるんです」と誤魔化しておいた。――自分で言いだしておいてなんだが、これで理解するあたり、先生は男子高校生をなんだと思っているのだろうか――
だがなんにせよ、先生への報告も終わり、後は帰るだけだ。
「でも宗佐を車に乗せるのは大変そうだな」
昇降口へと向かおうとし、ふと足を止める。
打ち身ですんだとはいえ宗佐の負傷は中々で、保健室に運んでやるのも一苦労だった。さすがに藻だらけの制服でベッドに横になるわけにはいかずジャージに着替えたのだが、その間なんどあいつの悲鳴を聞いたか。
親が車で迎えに来るとはいえ、保健室から車に乗せるのは大変だろう。とりわけ宗佐の母親は線の細い女性で宗佐を担げるとは思えない。もちろん珊瑚も同様。
運良く男の教師が居合わせれば良いが、もし誰もいなかったら……。
「乗りかかった船ってやつだな」
どうせなら最後まで付き合って、後日宗佐に飯でも奢らせよう。
そんなことを考え、俺は保健室へと進路を変えた。
「あら、えっと……今休んでる生徒さんを連れてきてくれた子よね」
とは、保健室の扉を開けて出てきた保険医。
俺が頷いて返せば、どこか急いだ様子で「あのね」と話し出した。
「さっきの子、寝ちゃったみたいなのよ」
「宗佐ですか? あの馬鹿、隙あらば寝るんですよ……」
「お母様が車で迎えに来るらしいから、車に乗せるのを手伝おうと思ってたの。でもグラウンドで怪我しちゃった子がいてね、ちょっと出なきゃいけなくなっちゃったのよ」
「あ、それなら俺が手伝うんで大丈夫です。あいつの母親とも何度も会ったことあるんで」
「そう? それならお願い」
よろしくね、と告げて保険医が小走り目に廊下を去っていく。
それを見届け、俺は保健室の扉に手を掛け、ゆっくりと開いた。寝ている宗佐を気遣い、極力音を立てないように室内に入る。
保険室内は白を基調とした内装をしており、清潔感に溢れている。
まず目に付くのは保険医の机と向かいに座る診察用の椅子。治療道具や薬品の入った棚は壁に並び、一角には測定器具が並べられている。
そして保健室の一角は衝立式のカーテンで区切られている。奥にはベッドが二つ。
その片方で今まさに宗佐が寝ているのだろう。
わざわざ起こす必要もないかと考え、声を掛けずに診察用の椅子に静かに腰掛けた。
半分開けられた窓から風が吹き込む。
聞こえてくるのは、グラウンドで活動する運動部の声と、吹奏楽部が奏でる音楽。保健室の独特な雰囲気ゆえか、それらもどこか別世界の音のように聞こえる。
静かだ。
あまりに静かな空気に、先程の騒動が嘘だったのではと思えてしまう。
そんな事を考えた、次の瞬間……、
「大好きだよ」
と、囁くような声が、カーテンで仕切られた部屋の奥から聞こえてきた。
その声に、俺は一瞬で察した。
これはきっとベッドで眠る宗佐へと向けられたものだ。
誰かがこのカーテンの向こうに居る。その人物は眠る宗佐を見守り……そして先程の言葉を口にしたのだ。
優しく儚く、そして恋心を滲ませた、相手への思いを押さえきれず漏らされた声。
宗佐が寝ていても伝えたいと、いや、寝ているからこそ、胸の内を言葉に変えたのだろう。
この手の、寝ている宗佐に対して女子生徒が小声で告白……という状況は何度か遭遇したことがある。眠る宗佐が愛しくて、そして聞かれていないと分かっていて胸の内を語るのだ。
しかし、意図せず聞いてしまう身としてはむず痒いやら申し訳ないやら。
そもそも俺が聞いて良いものではない。きっとカーテンの向こうにいる人物は、俺が保健室に入ってきたことに気付いていないのだろう。
ならば俺がすべき行動はただ一つ。先程の告白は聞こえなかった事にして、静かに廊下に出るだけだ。
ゆっくりと、音を立てないよう立ち上がる。
カーテンの向こうにいるのは、月見か、それとも宗佐を慕う他の女子生徒か。早瀬の可能性もある。
誰かは分からないが、いつか起きている宗佐に直接言えると良いな、とカーテンの向こうにいる誰かに心の中で告げ、保健室の扉へと向かう。
そういえば、珊瑚はどこに行ったのだろうか。
あいつの事だから、宗佐が女子生徒と保健室で二人きりと知ったら「妹の私を差し置いて!」と怒り出すだろう。密会は許すまじと保健室に飛び込もうとするかもしれない。
そうなったら珊瑚を止めて、少しだけ時間稼ぎしようか。
カーテンの向こうに居たのが誰かは分からないが、密かな告白を聞いてしまったお詫びだ。
そう考え、扉に手をかけゆっくりと開けようとした。
その瞬間……、
「大好きだよ……、宗にぃ」
と。
聞き慣れた声の、聞き慣れた呼び方の、それでいて聞いたことのない優しく儚い声が聞こえた。
「え……?」
と、思わず声を出し、振り返る。
それとほぼ同時に強い風が音立てるように吹き抜け、ベッドを囲っていたカーテンを大きく揺らした。
まるで暴くように、その奥にいる人物を晒すように……。
そこにいるのが珊瑚だと、俺に見せつけるように。
彼女の胸元に飾られたネクタイが妙に目に付いた。
「え、今、なんで、妹が……」
ふわりと一度大きく翻ると、カーテンは再び元の位置に戻り珊瑚の姿を隠した。まるで先程吹き抜けた風が、それが暴いた光景が、すべて嘘だったかのように元通りだ。
俺は突然の事に何も言えず、的を得ない言葉を口にするしかない。
仮にこれが月見や他の女子生徒であれば、聞いてしまった事を詫び、誰にも言わないと約束して保健室を出て行っただろう。スマートにはいかなかもしれないが、俺にだってそれぐらいの対応は出来る。
……だけど、珊瑚だった。
カーテンの向こうに居たのは、間違いなく、珊瑚だった。
宗佐の妹で、ブラコンで、……そのはずなのに。
「あの、わ、私、違うんです……」
カーテンで仕切られた一角から珊瑚が出てくる。
ゆっくりと、少し覚束ない足取りで。顔は青ざめており焦燥感からか視線を泳がせている。
そうして泣きそうな顔で俺を一度見ると、「違うんです」と掠れた声で訴え、逃げるように保健室を出ていった。
「あ、妹……!」
扉が閉まられる音でようやく我に返り、慌てて俺も保健室を出る。
その瞬間、「敷島君?」と声を掛けられた。
「月見……」
「今、珊瑚ちゃんが出てきたんだけど、なんだか凄く焦ってたみたい。何かあったの?」
「いや、それは……。月見、悪いが保健室で待っててくれないか? 宗佐の親から連絡が来るはずなんだけど、あいつベッドで寝てるんだ」
「えっと……。うん、とりあえず待ってればいいんだね。分かった」
俺の話に、月見が目を丸くさせてコクコクと首を縦に振る。
今が平時であったなら、その仕草を可愛いと思っただろう。
だが今の俺にはそんな暇はない。「頼む!」と一言告げ、珊瑚を追うように走り出した。
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