第32話 彼女のネクタイ

 

 早瀬を見つめる宗佐の表情は厳しい。

 だが睨みつけるわけでもなく、感情を露わに憤っているわけでもない。ただ静かに、そこはかとなく怒りを漂わせている。

 それを正面から受けた早瀬はしばらく呆然とした後、小さく「妹?」と呟いた。宗佐と、そして困惑の表情を浮かべている珊瑚を交互に見やる。


 どうやらようやく己の勘違いに気付いたようだ。

 早瀬が深く息を吐き、張りつめていたものが音立てて切れたと言いたげに肩を落とした。


「……なんだ」


 と。

 掠れた声には落胆の色がこれでもかと滲んでいる。


「妹、だったなんて……。それじゃ私……嫉妬して馬鹿みたい……」


 今の早瀬の声には破棄がなく、先程までの勢いが嘘のようだ。

 そうして一度宗佐へと視線をやると、辛そうに目を細め、踵を返すと逃げるように走り去っていった。誰も追えず、小さくなる後ろ姿を見つめるしかない。

 そうして早瀬の姿が校舎の陰に消えると、宗佐がはたと我にかえって月見へと向き直った。


「話の途中だったのにごめん! 珊瑚の声が聞こえて、俺とっさに走り出しちゃって。月見さん、何か言おうとしてたよね? 確かネクタイが……」


 騒動の前の会話を思いだそうとしているのか、宗佐が記憶を巡らせる。

 その言葉に、俺は月見の告白が途中だったことを、それもネクタイの話題を出したまさにその瞬間だったことを察した。

 タイミングが悪いなんてレベルではない、最悪だ……。

 宗佐が「どんな話だったの?」と改めて尋ねるが、今更月見が言い出せるわけがない。


「あ、えっと、それは……。べつに重要な話じゃなくてね……。そ、そういえばそのネクタイ、珊瑚ちゃんがこの間もらったやつなの?」


 顔を赤くさせ慌てながら月見が視線を向けるのは、宗佐の手元にあるネクタイ。

 早瀬に盗まれ、そして宗佐と共に池に落ちたものだ。チェック柄が藻に絡まってなかなかに哀れな姿になってしまった。

 それを見る月見は切なそうだ。だがそれよりも辛そうな表情をしているのは、ネクタイの所有者である珊瑚。

 彼女にとって、池に落ちたネクタイはこれで二本目。

 早瀬から取り返そうとした瞬間、指先が触れるか否かの距離までは届いた。だが叶わず目の前で池に落ちたのだから、胸中どれだけ辛いことか。


「ごめんね、宗にぃ……。せっかく貰ったのに、またこんなことになって……」

「気にすることないよ。それに、さっぱり話が分かってないけど、きっと珊瑚のせいじゃないんだろ」

「宗にぃ、ありがとう。でも、もう私ネクタイは……」


 ネクタイは着けないと言おうとしたのか、珊瑚が声色を落とす。

 二本もネクタイを貰い、宗佐に買い直させ、その挙げ句に二本目も駄目にしてしまったのだ。非は一切ないとはいえ、当人である珊瑚が申し訳なさを覚えるのも無理はない。


 だけど駄目だ。

 そこで折れたら駄目なんだ。


「駄目だ。それは違うだろ」


 そう珊瑚に声を掛ければ、彼女は困惑を露わにした表情で俺を見つけてきた。微かに開かれた唇から、「でも」と酷く弱々しい躊躇いの声が漏れる。

 胸の内に湧いていたざわつきが増していく。辛そうな珊瑚を見ていると、俺まで息苦しくなる。


 何か言わなくては……。

 だが何を言って良いのか分からずにいると、月見が「珊瑚ちゃん!」と妙に大きな声で珊瑚を呼んだ。


「大丈夫だよ。宗佐君、まだネクタイ二本持ってるから! 一本貰えるよ!」

「え、でも……。それは月見先輩が……」

「わ、私は別にそんなことはっ……! それにほら、リボンも可愛いけど、元気な珊瑚ちゃんにはネクタイのほうが似合ってると思うの。お兄ちゃんのネクタイを着ける妹なんて、とっても素敵だよね!」


 気落ちする珊瑚を気遣ってか、それとも自分が告白しようとしていた恥ずかしさを誤魔化すためか、月見の声は普段よりも大きい。

 次いでぱっと宗佐へと向き直ると「ねぇ、芝浦君!」と同意を求めた。宗佐が頷いて返す。


「月見さんの言うとおりだよ。それに、珊瑚が着けてくれるなら何本だって買うからさ、気にするなって。えっと、俺の鞄は……」


 宗佐がふと周囲を見回し、俺へと視線を向けた。

 取ってきてくれということなのか。肩を竦めて同意を示し、少し離れた先に置いてあった宗佐の鞄からネクタイを取り出す。昨日届いたばかりの新品のネクタイ、きっと宗佐もまだ着けていないだろう。

 それをいまだ座り込んだままの宗佐に一本手渡す。「自分で取ってこいよ」と文句を言ってやれば「いやそれがなぁ」と間の抜けた声が返ってきた。


「珊瑚、はい」


 屈託無く笑い、宗佐が珊瑚にネクタイを手渡す。

 珊瑚がわずかに困惑したのち、それでもそっと差し出されるネクタイを手に取った。


「ありがとう……。宗にぃ」


 貰ったばかりのネクタイを両手でぎゅっと握り、珊瑚が笑う。

 それを見る宗佐は嬉しそうで、月見もまた穏やかな表情を浮かべている。

 一件落着、いかにもめでたしめでたしといった空気ではないか。


 ……だけど、どうしてだろうか。

 珊瑚の笑顔が苦しそうに見える。


 俺の目には、泣きたいのを押し隠した、無理矢理に取り繕った痛々しい笑顔にしか映らない。


 なぜ今ここでそんな笑顔を浮かべるのか。


「……どうした?」


 様子に違和感を覚え俺が問えば、珊瑚はパッとこちらへと向き直った。

 その表情は晴れやかだ。先程の苦しそうな笑顔は嘘のようで、いつも通り、それどころか得意気に胸を張ってくる。


「見てください、やっぱり宗にぃのネクタイを着けるのは私なんです!」

「……そうだな。良かったな、妹」

「だから健吾先輩の妹じゃありません! でも、この調子で何十本でも何百本でも貰っていきますよ!」

「その意気だ。宗佐をネクタイ破産に追い込んでやれ」


 珊瑚の冗談に俺も乗って返せば、彼女は楽しそうにくすくすと笑った。

 宗佐が慌てて「俺の経済状況も考えて!」と待ったをかけ、それが楽しいのか月見も笑いだす。

 

「それじゃ、ひとまず宗佐の着替えでも用意するか。しかし俺は居ただけであんまり役に立たなかったな……」


 珊瑚を助けたのは宗佐だし、早瀬の誤解を解いたのも宗佐の発言である。ネクタイを諦めようとした珊瑚を励まし、三本目のネクタイを提案したのは月見だ。

 俺は終始居たものの、これといって役に立つことは出来なかった。

 それなら、藻にまみれた宗佐のためにジャージでも持ってきてやるか。


 そう考えて校舎に戻ろうとするも、宗佐が待ったを掛けた。


「健吾、そんなこと言うなって。お前にも重要な役がある。というか今まさに俺はお前に助けてほしい」

「助け? なんだ?」

「重要な役目だ。……俺を、出来れば揺らさず、安静に、保健室に連れて行ってほしい」


 そう告げて、宗佐はゆっくりと、時間を掛け、そろそろと、腰に響くのを恐れるように横になった。

「腰がやばい……」と告げてくる声はか細く、まさに蚊の鳴くような声。


「宗佐!?」

「宗にぃー!!」

「芝浦くーん!!」


 宗佐を呼ぶ俺達の声が、普段ならば静かなはずの校舎裏に響いた。


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