第8話 ネクタイにまつわるジンクス
昨日は結局、文句を言いつつ双子の髪を拭いた後、文句を言いつつ着替え、文句を言いつつ米とおむつを買いに自転車を走らせた。
夕飯のエビフライが俺の皿だけ一本多かったのはきっと買物の報酬だろう。それを見た途端に悪くない仕事だったと考えてしまうあたり、俺も単純なのだと思う。
「あの家で反抗期が来たらどうなるんだろう。……いや、そもそもあの家では反抗期なんて無理な話か」
教室の自分の机に座り、そんな事を呟く。
それに対して「どうしたの?」と声を掛けられた。
見れば月見が不思議そうな表情でこちらを見ている。鞄を机に置いてブレザーを椅子に掛ける仕草から、登校したばかりなのだろう。
登校早々に席の近いクラスメイトが哀愁漂わせて物思いに耽っており、案じて声を掛けたといったところか。
「大丈夫? なんだか遠くを見てたけど……」
「いや、ちょっと家のことを考えてただけだ。それより、俺もだけど月見も早いな」
黒板の上に掛けられている時計を見れば、まだ朝のホームルームにはだいぶ時間がある。
クラスメイト達も二割程度しか来ておらず、いつもは賑やかな教室内も今だけは朝の落ち着きと静けさを保っている。
「私はお父さんの出勤時間に合わせて家を出てるの。お父さんと一緒だと駅まで車で送ってもらえるんだ」
「そうか、月見は電車通学だっけ」
「うん。敷島君は? 家からは歩いてこれる距離なのに、いつも早く来てるよね」
「俺は……。今だけは静かに過ごせる貴重な時間だからな」
朝方の敷島家での騒動を思い出し、思わず遠い目をしてしまう。
大家族は朝だろうと変わらず煩いのだ。
むしろ登校時間という制限があるだけに朝はより騒々しくまさに戦争。総勢九人の家で洗面台三つは無理があると常々俺は思っている。
それに対して、この教室内の静けさといったら。俺が唯一穏やかに過ごせる時間と言っても過言ではない。日頃から宗佐絡みの騒動に巻き込まれているから尚更、あいつのいない時間の静けさは貴重だ。
そう月見に語れば、彼女は若干俺の勢いに押されつつも「大家族って大変なんだね……」と労ってくれた。――ちなみに「宗佐絡みの騒動」に関しては月見も無自覚とはいえその一端を担っているのだが――
次いで彼女は窓の外へと視線をやった。
何かを探しているのかそわそわと落ち着きがない。
「どうした?」
「えっと……その……。珊瑚ちゃんは今日も来てるかなって……」
「妹? いや、妹はまだ来てないな。宗佐もまだ来てないし、もう少し遅いだろ」
「そ、そっか……。一緒に登校してるんだもん、そうだよね」
月見が乾いた笑いで誤魔化す。
だが俺がどうしたのかと尋ねると、しばらく言い淀んだのち、「ネクタイが気になって……」と呟くように話し出した。
「昨日会った時、珊瑚ちゃんネクタイ着けてたから」
「あぁ、そういえばそうだな」
言われて、珊瑚の姿を思い出す。確かに彼女はネクタイを着けていた。
蒼坂高校の制服は男女ともにブレザータイプで、男子はネクタイ・女子はリボンの装飾品がついている。どちらも紺色のチェック柄で、端には所有者を示すイニシャルの刺繍付き。
ズボンも紺一色というシンプルすぎる男子制服にとっては唯一の洒落っ気と言えるかもしれない。ちなみに女子制服はスカートが紺色チェックでなかなかに見た目が良く、男女並ぶと若干デザインの力の入り方に偏りを感じてしまう。
そんな蒼坂高校の制服だが、規定はかなり緩い。
式典や一般開放の時にきちんとした身形をしていればオーケー、というのが学校側の考えらしく、多少の着崩しは容認されている。
その中でもネクタイとリボンは最たるもので、着けていなくとも、それどころか学校指定外のものを着けていても文句は言われない。
もちろん、男女が異性の装飾品をつけていても問題にはならない。
そのため、蒼坂高校には一つのジンクスがあった。
『ネクタイとリボンを交換した男女は将来結婚する』
おかげで、蒼坂高校では付き合いだした男女はまずネクタイとリボンの交換するのが常となっている。
聞いているこちらがむず痒くなりそうな話だが、どうやら月見には憧れらしい。そんなジンクスもあったなと俺が口にすれば、「素敵だよね」とうっとりとした表情を浮かべだした。
その表情は可愛らしく、まさに美少女。月見から「ネクタイが欲しい」と言われれば誰だって喜んで差し出すだろう。
もっとも、当の月見にその自覚は無いようで、冷やかしがてらに俺が言うも「そんな事ないよ」と笑い飛ばしてしまった。
月見は自分がもてる事に気付いていない。これだけ男子生徒達から熱い視線を送られていてもまったく気付いていないのだ。
きっと宗佐しか見ていないからなのだろう。
……まぁ、宗佐からの熱い視線にすらも気付いていないので、実際はただ鈍感なだけだと思うけれど、月見の名誉のために一途ゆえという事にしておく。
「それで、妹のネクタイがどうしたんだ?」
話を本題に戻せば、月見が再び窓辺へと視線をやった。
そこに立つ珊瑚の姿を、そして彼女の胸元にあるネクタイを想像しているのだろう。
少し躊躇った後、ゆっくりと口を開いた。
「珊瑚ちゃんのネクタイ、もしかして……芝浦君のネクタイなのかなって」
僅かに言い淀みつつ月見が呟く。
その言葉に俺は一瞬考えを巡らせ「あぁ、そうかもな」とあっさりと返した。この際なので教室内に居た女子生徒の一部が微かにざわついたことには気付かないでおく。
言わずもがな、宗佐を慕う女子生徒達だ。
ただでさえ強敵ライバルである月見の口から『芝浦君のネクタイ』というキーワードが出たうえ、それも別の女子生徒が着けているかもしれないとなったのだ。彼女達が耳を澄まして聞き入るのも仕方ない。
……多分、仕方ないと思う。
俺としてはただの雑談なのであまり聞いてほしくないが。
「確かに宗佐のかもしれないな。もしも宗佐以外のネクタイだとしたら、あのシスコンが黙ってないだろうし」
日々堂々と『可愛い妹』と宣言しているぐらいの溺愛ぶりである。
仮に珊瑚に恋人が出来たら、それも相手が蒼坂高校の男子生徒となれば、上級生だろうとお構いなしに突撃し『珊瑚にふさわしいかチェックさせてもらう』と付き纏うだろう。
さすがに殴りはしないだろうが、いっそ潔く喧嘩を売った方がマシだと思えるぐらいの粘着を見せかねない。
そう俺が話せば、月見も宗佐のシスコンぶりを思い出して苦笑を浮かべる。
それとほぼ同時に、
「珊瑚の恋人はたとえ石油王だろうと認めないからな!」
という勇ましい声が聞こえてきた。
誰か?
もちろん宗佐である。
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