第16章 8 耐え難い1日

 その日は1日自分がどうやって過ごしたのか、あまり記憶が無かった。職場ではいつもと様子が違う私をやたらと皆が気遣ってくれた。恐らく、私がぼんやりしている様子を交通事故の後遺症のせいなのではと勘違いしてしまったようで、今日は早めに帰った方がいいと言われたほどだった。本当は帰るつもりは無かったけれども、あまりにも周りが強く早退を進めるので、無理に残って仕事でミスをするよりはマシかと思い、私は16時に早退する事になったのだった―。



ガタンゴトン

ガタンゴトン…

 

 揺れる車内の中、つり革につかまっているガラス窓に映る自分の顔は酷いものだった。青白い顔には生気が宿っていなかった。昨夜は一睡もする事が出来なかったので目も充血している。

本当に…たった一晩でこんなに自分の外見が変わってしまうなんて…。

隆司さんと付き合っていた時に一方的にフラれてしまった時だって、私はこれほどまでに落ち込むことは無かったのに、直人さんの場合はこんなに自分が打ち砕かれてしまうとは思わなかった。


私…やっぱり、直人さんの事は本気で好きだったんだ…。

そして私はギュッとつり革の手摺を強く握りしめた―。


 新小岩駅に到着したのは16時半だった。亮平との待ち合わせの時間は21時半だったけど…時間を変更する事は可能かな?

私はスマホを取り出すと、亮平にメッセージを打った。


『今日は仕事を早退して、今新小岩駅に着いたところ。もし亮平の都合が良ければ待ち合わせ時間をもっと早めない?』


それだけ打って送信すると、すぐに電話がかかってきた。え?どうして?


「もしもし…?」


電話に出るとすぐに亮平の声が聞こえてきた。


『もしもし?一体早退って…どこか具合が悪いのか?だったら今日川口のマンションへ行くのはやめにしたっていいんだぞ?』


亮平の声には私を心配する様子がうかがえた。


「ううん。そんなんじゃないけど、ただ今日は私の様子がおかしい事に職場の人が気付いて早退を勧められたんだよ」


『何だ…そうだったのか。心配したよ』


電話越しから亮平の安堵する溜息が聞こえてきた。


「ねえ、そう言う亮平はどうして今私に電話してこれたの?仕事じゃなかったの?」


『俺は今営業で外回りをしているから大丈夫なんだ』


「そっか…それで?亮平は仕事何時に終わるの?」


『俺は今日は直帰していい事になってるから…多分19時半頃には新小岩駅に行けると思う』


「そう…なんだ。それじゃ駅で待ってるから一緒にマンションへ行っていくれないかな?私はその辺で時間潰してるから」


『え?マンションに帰らないのか?』


亮平の戸惑う声が聞こえてくる。


「うん、帰りたくても帰りたくなくて。だって直人さんのマンションが隣にあるから…」


『そうか、そうだよな?よし、分った。それじゃ駅で待ってろよ。仕事が終わったら連絡するから』


「うん、ありがとう…」


『礼なんか別にいいさ。それじゃまた後でな』


それだけ言うと亮平からの電話は切れた。その後、私はなるべく余計な事は考えないように本屋さんで立ち読みしたり、雑貨屋さんに行って品物を見たりして亮平が来るのを待っていた―。



****


19時15分―


「鈴音!」


改札で待っていると亮平が現れた。


「すまん。待ったか?」


電車から降りて駆けてきたのか、亮平は少し呼吸が乱れていた。


「ううん。そんなに待っていないから大丈夫だよ」


「よし、それじゃ…行く前にまずは腹ごしらえだ。何所か店に入ろう」


「わ、私はいいよ。亮平だけ食べて」


「お前なあ…何言ってるんだよ」


亮平が呆れたように言う。


「だ、だって…食欲なんかないんだもの」


「駄目だ、いいから来い」


断る間もなく亮平に手を取られ、結局立ち食いお蕎麦屋さんに連れて行かれた。食欲が無かったけれども、私は無理矢理ワカメそばを食べて亮平はコロッケそばを2人で無言で食べた―。




****


「駄目だ、鈴音。やっぱり俺も川口の部屋を訪ねる。だってお前、今にも倒れそうだ」


今、私と亮平は川口さんのマンションの前でもめていた。


「だ、だけどそれじゃ直人さんに悪いよ」


「そうか、なら…もし今、川口の部屋に行って女がいたらどうするんだ?」


亮平の言葉で私は急に怖くなってしまった。だったら…


「そ、それじゃ…やっぱり部屋まで来てくれる…?」


「ああ、当り前だ」


亮平は頷いてくれたので、私達は2人で直人さんの部屋へ向かった。



 そして今、私達は直人さんの部屋の前に立っていた。ごくりと息を飲むとインターホンを押した。


ピンポーン…



「反応無いな…」


亮平が呟く。


「うん…もう、鍵を開けて入るしかないかも…」


そして私は持参した合鍵を鍵穴にさして…ドアをカチャリと開けてみると部屋の中は真っ暗だった。


「うん?留守か?」


背後で亮平の声がするが、私はすぐに異変に気付いた。慌てて壁のスイッチを付けて、目の前の光景に驚愕してしまった。


「そ、そんな‥‥」


ショックで声が震える。


「おい!鈴音っ!」


急激に気が遠くなっていくのが自分でも分った。


最後に私が見た光景は…全ての荷物が消えうせていた直人さんの部屋だった。



「鈴音っ!」


必死で叫ぶ亮平の声を耳にしながら、私の意識は完全になくなった―。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る