「はなをもったともだち」

この、偶然の一致になんと名前をつけようか。


俺は、幼稚園の時、県の幼児絵画展で金賞を取っていた。

そのタイトルは「はなをもったともだち」だった。

しばらく、その賞状と一緒に鴨居に飾ってあったので、覚えている。

そして、その”ともだち”が誰なのか、全く記憶になかった。


俺はそれだけの一発屋で、神童と持て囃されることはなかった。

高梨葵もモデルではなかった。

高梨葵が、同じ幼稚園にいたのか、わからない。

小学校は同じはずだから、幼稚園が同じであっても不思議ではない。

不思議ではないが、それがどうした。


現実は、ドラマにならない。

高梨葵と俺との関わりがその絵から始まっていたとしても、結局俺は彼女と”チルキミ”みたいな濃密な時間を過ごすことはなかった。


”ハロネコ(ハロー!マイキャットはこう略す)”は全話視聴したが、”チルキミ”を、きちんと視聴する勇気がでなかった。

”チルキミ”は、あらすじと、ラストシーンと思しき「手紙」を動画サイトで見ただけだった。

あの絵が始まりだとしたら、俺たちには"チルキミ”につながる世界線があったんじゃないか。

その世界線を歩きたい、と痛烈に思う。


唐突に死んだら漫画の世界に転生してました!というネットに溢れる物語が、オレに起こらないものか。


ああ、全く厨二臭い。嫌になる。


ハロネコに、高崎葵というキャラクターがいると知った時に、なんの衒いもなく、チルキミに、高梨葵っぽいキャラクターがいるんじゃないかと思ってしまった。

そんな妄想も無邪気に信じてしまうくらいに、不思議な偶然が起こりすぎた。


バーナム効果だ、なんてことは、どうでもいい。わかってる。


よりにもよって主人公に「アヲイ」の名前が使われているとは思わなかった。

時系列では、チルキミの後にハロネコである。

前作の主人公に使った名前を、次作の主要人物に転用する意図はなんなのか。

それがわかるのは作者だけなのだから、考えたところで、無意味だが。


フィクションを見て、「これは俺の物語だ」なんて感じるのは幻想に過ぎない。

物語と、現実に符合があったからといって、そこに特別な何かがあるなんて思ってはいけない。

メジャーになる作品は、多くの人間の感情の動きに、どこかしら触れる部分をもっている。人気作の中に、個人個人が「思い当たる節」があるのは当然なのだ。


しかし。


「ハロネコ」が、俺たちの学校を舞台にしていなければ、俺は「ハロネコ」を見ることはなく、「ハロネコ」に高崎葵というキャスティングがなければ、それ以上作者に興味を惹かれることはなく、興味を惹かれなければ、「チルキミ」を調べることもなく、調べなければ、「チルキミ」が”あおい”の物語であることを知ることはなく、知らなければ「手紙」に辿り着くこともなかった。


「手紙」は「あおい」の、心の声なんだということで、もういいじゃないか。

それが、俺にとっての真実だ。







ごめん。


キモいよな。




高梨葵は、俺の作品を綺麗だと言ってくれた。

そのお礼を、俺は言ってない。


ありがとう


そして



君が好きです

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