3.流血
太陽がどこか低い山の後ろに沈んで、ぽつぽつとガス燈が灯りだした。
キャンパスの中央を縦断する公道を、敷地の奥のほうにある駐車場から用事を終えた学生や職員たちの自動車が下山していく。アセチレン・ランプを点灯させて前方の夕闇を照らしながら。
生協のある建物から道路を挟んだ向こう側に、サークル棟が見える。楽器を練習する音などがここまで聞こえてくる。
タユタが屋外に出られる暗さになった。もはや地球が逆回転しない限り、彼らを脅かすものはない。
「私はサークルを少し見学してみようと思うのだけれど」タユタが言った。「リューコも一緒に来る?」
「なんのサークル?」
「それが、実態がよくわからないの。吸血鬼限定ということしか」
「そんな怪しい所、なんで行くの?」
「怪しいから行くのよ」
タユタはそう言って手首を見せた。流子のものよりも高精細な発光色素胞群に周辺地図が表示されている。
「咬錆濃度のモニタリングサイトによるとこのあたりが赤くなっているでしょう。どこかに発生源があるの」
「ふーん」
二人は運動場や駐車場のさらに奥、敷地の端に向かった。咬錆がそれ自体で人間に悪さをするわけではないから、別に流子は嫌ではない。ただ、駐輪場から離れるのが帰るとき面倒だ。
「私ね、人間の友達がずっと欲しかったんだ」歩きながらタユタが言った。
「へえ……」人鬼共学の高校などないのだから、今まで機会がなかったとしても無理はない。
「ごめん」タユタがかぶりを振って言い直した。「こう言ったほうが良かった。ナギサとリューコみたいな友達が欲しかったって」
人間なら誰でも良かったという意味に聞こえたと思って、言い直してくれたのだろうか?
「いいのに」
私のことを特別だと思っているフリをしなくても。
二人は目的の地点に着いた。まだ開発途中、道路の終わりだ。
そんな林の中、廃屋と呼ぶには小ぎれいだが、ペンションやロッジと呼ぶには無機質な、低いコンクリートの直方体が樹々を押しのけて建っている。
かすかに心臓の鼓動のような低音が聞こえ、建物の背後に青く光る水面が少し見えている。プールだろうか?
「なんか私」流子は直感が告げたまま言った。「こういうところ無理かも」
「流子がいないと、私一人で入ることになるわ」
それはかわいそうだ。できればそれは避けてほしい。渚と約束したのだから。
「大丈夫。一瞬で終わるわ。誰とも会わない、何も喋らない。暗いから誰からも見えない。一瞬覗いて帰るだけだから」
「そ、それなら。本当に一瞬だけだよ」
入り口には大柄な守衛の吸血鬼がいて、タユタに一言だけ詰問した。
「それは?」
「これ?お弁当」
タユタがそう即答したので、流子は耳を疑った。「はあ!?」
門番は通れと首の動きで示した。
暗く狭い通路を抜けると、数十体くらいの吸血鬼がいた。
ほとんどが広いホールで音楽に合わせて身体を適当に揺らしている。最奥にはその音楽を統制するような作業をしている吸血鬼もいるが、円盤ではなく奇妙な肉塊を捏ねている。人間用の音響装置では隠されている内部の有機パーツだろう。
「やはり、学生はほとんどいない。外部から来た下級氏族と眷属の溜まり場ね」タユタが観察して言った。「サークルとは呼べない」
手前には低いテーブルとソファーに座っている男女の吸血鬼がいる。タユタはソファーに座っている男に声をかけた。
「よい黄昏を」
あまり一般的でない挨拶を受けて、男は無言でタユタを見上げた。
「ここ錆臭くない?」タユタは微笑んだ。
よく見ると、同じソファーで寝転んでいる女性は意識がないようで、首から血を流している。人間のようだ。同様に倒れている男女は複数いる。捧血の会の人たちはこのように扱われるのだろうか?眷属になれればいいが、なり損なうとゾンビのようになって手に負えなくなる。
「お前見たことあるぞ。有名な……」男は数秒間思い出す努力をしてから言った。「そうだ、環境テロリストのトマティーナだ」
生き血を吸わない吸血鬼のことを、スペインのトマト祭りにちなんでトマティーナと呼ぶ。網細血観上ではほとんどの場合、蔑称として。代替血液のことはトマトジュースなどと揶揄される。
「ここって咬錆の排出基準満たしてる?」タユタは呼び方を気にせず、周囲を見遣りながら言った。「ことによると地域全体の上限さえ越えているかもしれないわ」
「ここは県境外なんだよ。銀沢市じゃない」男は弁解した。
「入るときに検問がなかったから、無効。それに、排出源は周囲に保護地区がある場合も違法」
「これは市の監査か何かか?」
「いいえ。見学」
「じゃあ失せな。トマト啜りに出す酒は置いてない」
「ええ。帰って大学に報告しておくわ。敷地の境界線に汚染源があるって」
男は面倒くさそうに立ち上がって言った。流子達より頭二つ分は背が高い。
「お前、自由吸血の権利って知ってるか?国に認められてるんだよ、お前ら活動家がいくら喚いたところでな」
吸血鬼の女が横から言った。
「そいつ本当に知らないんじゃないの?
「おまけに力も弱くなる。人間も殺せないほど非力に」さらにもう一体が口を挟んだ。
「そうなったら終わりだな。もう血族じゃねえ、病気の人間だ」
吸血鬼たちは笑った。
ここまであからさまに嘲笑されることがあるだろうか?流子は中学時代に見た人間同士のいじめを思い出したが、あれはもっと陰湿なほのめかしに満ちていた。吸血鬼は文化が違うのか、口調から直接的で、容赦がない。
あと、なんだか演技じみて聞こえる。タユタも含めて、吸血鬼はまるで英語で思考してから日本語に直訳したような喋り方をする。語彙レベルだけでなく、語順や主語の有無、倒置表現からして。そのせいで外国の映画を見ているような、非現実的な気分になる。
「議論が不成立に終わったことを残念に思うわ」タユタはそう言って引き返そうとした。
「まあ、待てよ」男は引き止めるように言った。「ずっと興味があったんだ。トマティーナの目の前で人間の生血を直飲みしてやったら、どんな顔するだろうってことに」
「……」
タユタは相手に背を向けて、無言で流子のほうを向いていたが、垂れた髪の毛で表情がよくわからない。
「泣くのか?怒り狂うのか?卒倒するというのが一番ありそうだ。なにせ、血が足りてないからな」
男は流子を指差して言った。「ところで、それは置いていくんだよな?」
タユタは何も返事をしなかった。
その代わり、身体を素早く翻して、先程まで論敵だった相手の胴体に何か不吉な音を響かせた。タユタは自身の右の拳を相手の胸に貫通させていた。胸骨を破壊して背中側に突き抜けた右手は孵化した寄生生物のように蠢き、そのままでは飽き足らず、引き返して背骨を掴んだ。男は苦痛のあまり絶叫し、ビクビクと痙攣した。流子の位置からはよく見えないが、何か黒い砂鉄のようなものが背骨に沿って集まっていき、金属が軋むような音がした。背骨が何か別のものに作り変えられているといった印象を受けた。
タユタはそのまま右手に握ったものを引き抜くことに決めたらしく、彼女が力を込めるに従っていくつもの血管や神経が引きちぎれていく音がした。周囲の吸血鬼も流石に異常に気づき、しかし唖然としながらその儀式を見つめている。
栓が抜かれたように勢いよく、男の首から脳天にかけてを左右に両断して現れたのは、背骨ではなく一振りの黒い刀剣だった。鍔こそ無いが、今鍛造されたばかりのような鋭利さを湛えながら、高く掲げたタユタの手に握られている。破壊された肉体は噴水となり、血は天井に反射してスプリンクラーのように降り注いだ。
血の雨を浴びて我に返ったかのような吸血鬼達の瞳が一斉に、一群の警告灯のように赤く光りだした。長く伸長した牙をむき、獣のように吠える。人間よりも顎の可動域が広い気がする。黒い爪も突然成長して、凶器と呼べる形になった。
「あなたたち」ようやくタユタが言葉を発した。「そんなにスペインのお祭りが好き?」
それからのことは、流子が仔細を目で追えるものではなかった。
吸血鬼たちが殺到する先、つまり部屋の中心には何か跛行する肉挽き器のようなものがあり、それが回転するたびに血飛沫が上がり、壁を赤く染めていく。
肉挽き器は血煙の向こうで少女の形を取ることがあり、刃以外にもあらゆる身体部位を、彼女の敵の急所にめり込ませ、引き抜く過程のどこかで破砕していった。
部屋全体が一つのブレンダーとするなら、彼女はブレードだった。臓物は床を滑走し、肉片は壁画のマチエールとなった。
立ちすくむ流子に襲いかかる吸血鬼も当然いた。流子の顔を鷲掴みにしようとする両手が寸前で主を失い回転しながら宙を漂い、首筋に噛みつこうとする女の顔が次の瞬間には仮面のように天井に張り付いているといった、因果関係がよくわからない現象が起こっていることは、無理に解釈すれば流子が無傷のままでいられるように、移動する嵐によって守られているという意味づけが可能だった。しかしそれは壁のシミに顔を見出すような無意味な曲解にすら思えた。この騒乱は単なる自然現象として捉えたほうがまだ意味を成すように思えた。
心臓の鼓動のようなキックを基底とした音楽が突然終わり、余韻のように空を切る音と澄んだ金属音が続いた。それはタユタがカタナを羽ばたく蝶のように振ることで血払いする際の小気味良い風切り音と、逆手持ちのまま石造りの床に突き立てた硬質な音だった。その後にようやく静寂が訪れた。カタナを杖として片膝立ちになったタユタは牙も顕にして呼気を吐き、肩を上下させている。流石に息一つ乱さずこの量の人間サイズの肉塊のすべてを解体して壁と天井に張り付ける作業をこなすことはできなかったようだ。
すべてが過剰で、埒外で、流子が情報として処理できる限度を超えていた。
「し、し、シラバスは汚れてないかな?」
流子はかばんを下ろして、中身である今日もらった授業計画書をチェックし始めた。そういえば教科書も買ったことを忘れていた。かばんには防水処理がされていたのでそれら冊子類と本は無事だった。このリュックは雨天での自転車通学を見越して買ったものだった。大学の下見のとき、キャンパスへ向かう長い坂道を立ち漕ぎで登る学生の姿が見られたからだ。等間隔のポプラの木の向こう、遮光通路に沿って、バスと並走しようとする彼ら。車を持つ予定のない流子にとってはそれが未来の自分の姿だと思った。天井から新たに血滴が垂れてくるまえに被せを閉じた。
「も、もう用事は終わったの?これ」
流子の口はかろうじて、早く帰りたいという意味の文章を発した。
タユタは立ち上がって、静かにこちらに向き直った。赤熱する対の銃口のようなその瞳はゆっくりと赫灼を排熱し、もとの青紫に冷えていった。
「ええ」タユタは答えた。「すぐ終わったでしょう」
「そ、そう?すぐって言ってたもんね。うん。じゃあもう帰る?帰ろっか?」
「うん。帰ろう」
部屋の中央には、墓標にしては華奢すぎる一振りのカタナだけが残された。それはすでに自壊を始めており、鏖殺の証拠を消そうとしていた。
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