2.供血

 入学式が終わって、流子と渚はキャンパス内を見て回ることにした。

 売店で必修教養科目の教科書を買っておきたいという理由もある。

「生協の学食でご飯食べてみる?もうお昼って時間でもないけど」渚が訊いた。

「あそこの食堂って、入っていいのかな?」と生協の二階の学生食堂を見やる流子。

「もうここの学生だしいいでしょ」

「いや、人間用かどうかってこと」

「ここのは北陸初、人鬼共用の食堂らしいよ」

「え、すご」

 流子が生協の売店を見ていると、渚が手首の〈浮き痣〉を見ながら言った。

「あ、血中算素が足りないわ。一応下ろしてくる」

「ATM?一緒に行こうか?」

「いい。先に買ってて」

「わかった」

 流子はレジに並んだあと、教科書を供血決済で購入した。昔の献血のようだが、細胞を破壊しない採血器によってほとんど傷跡が残らない。下手に動かなければの話だが。

 最近は遠隔で浮き痣を読み取らせるだけで、暗号血液として払うことが出来るようだが、流子の血にはそのような価値情報はコードされていないので、実際に物理的な血に乗せて血中算素を払わなければならない。


 買い物が終わって生協の前で渚を待っていると、声をかけてくる男性がいた。新入生ではない、もしかすると院生くらいの年齢の、人間の若者だ。服のセンスには全く見るべきところがない。

「こんにちは~、新入生のヒトかな?」

「はい、まあ……」流子はできる限りぞんざいな返事をした。

「僕たち捧血の会っていう集まりなんだけど」

 よく見ると後ろに二人ほど会員らしき人達が控えている。

「会?サークルなんですか?」

「うん、サークルのようなものだね」

「ようなもの?」

 最高に胡散臭い。普段はこういった勧誘は一蹴している流子だが、淀川揺蕩の言うように自主的に様々な非営利活動をする人たちがいると知り、どんなものがあるのか興味があった。見た目に反して、とても有意義な活動かもしれない。

「失礼だけど、さっき君は供血決済していたよね。供血に抵抗がない人は入会しやすいと思うんだ」

「何をする集まりなんですか?」

「恵まれない吸血鬼に優先して血を寄贈するボランティア。でも、パトロンになれば特典がついてくるんだよ。眷属にしてもらいやすくなる。この会出身で眷属になった先輩もたくさんいるんだ」

「眷属になるには優秀な成績を修めるのが最短だって聞きましたけど」

 流子はずっと警戒の目つきで対応しているが、その意味が伝わっていないのだろうか?勧誘に慣れていてこの程度ではたじろがないのか、男性は続けた。

「まだ眷属になれないポスドクの人たちをみてもそう思う?すでに眷属になってる人達の人選を見ても?お世辞にも優秀とは言えない」

「はあ……」流子にはポスドクという単語がよくわからない。大学院関係の用語だと思うが。よくわからないので、とりあえず断ることにした。「友達を待ってるんで、いいです」

「友達も誘ってみたら?サークルと掛け持ちしている人も多いよ」

「いや、その……」

 思ったよりしつこい勧誘。生協の前は人通りも多いが、誰も助けてくれる様子はない。困惑する流子に、後ろから声がかけられた。ここが舞台かと勘違いするように台詞じみた、よく通る声。

「ごめん。待った?」

「渚!……えっ?」流子は飛び上がるほど驚いて、実際に半歩ほど飛び退ってしまった。

 そこにいたのは木曽浦渚ではなく、淀川タユタだった。

 演説のときそのままの格好の上に薄いコートを羽織った淀川タユタが、微笑みながら流子の手を握っている。

「行こっか」

 タユタは流子を引っ張ってその場を後にしたが、捧血の会の人たちは驚きのあまり固まっている。さすがに吸血鬼を勧誘することは出来ないだろう。

 流子を牽引しながらタユタは言った。

「ちゃんとしたルートからじゃないと、恵まれない吸血鬼に血は届かないわ。あれは新入生を狙う部外者でしょうね」

「そうなんですか。すみません」

 自分が助けられたことを理解し始めた流子だが、まだ何かの手違いではないかと思う。

「それに、眷属の選定基準はあなたの言った通りよ。私達は優秀な人間しか眷属にしない」

 冷たい手に握られた流子は自分の手の熱さを意識し、火傷させてしまうのではないかと思う。

 ステージで見た通り颯爽と大股で進むタユタの背筋を見ながら吸血鬼用の遮光渡り廊下を歩くのは、何かまだ暴かれていない墓所へ向かう暗渠に迷い込んだ気がする。

「あ、あの、私。いいね押しました」

「ほんと?ありがとう」タユタは屈託なく笑った。


 浮き痣を開き、〈絡腺〉に短文を書き込んで居場所を伝えると、渚と合流することが出来た。

 約束通り食堂で昼食を取ることにすると、タユタもそれに加わりたいと言った。二人に断る理由はなかった。

「私達なんかと、本当によかったんですか?淀川さん」食器トレイを持った渚がおずおずと言った。

「入学前からここで食事をしてみたかったの。私、食券機のあるお店って初めて」

 タユタはそう言いって目を輝かせながら、血液パックのボタンを押した。十数種類の中から一つのフレーバーを選んで。

 カレー定食と血液パックが同じ食券機で扱われているのも流子には新鮮だった。普通は店舗ごと別なのに。


 三人は明るい窓際の席に座った。太陽光から、紫外線より短波長の電磁波と一部の可視光を遮光した窓からの光は吸血鬼の肌を傷つけない。全面がガラス張りで、キャンパスを歩く学生達を見下ろすことが出来る景色だ。

 文系学部区画は周囲より一段高いので、大学会館の二階にある食堂からサークル棟や理工学部棟、さらに向こうには半ば建設中の自然科学館が見える。窓から見えない反対側は文系学部棟で、さきほどの入学式などの各種行事はそこで行われる。

 銀沢大学のキャンパス全体は郊外の小高い山の中にあり、交通の利便性を放棄したことで得た広大な土地を使って年々施設を拡張している。


「淀川さんって何学部なんですか?」渚が訊いた。

「一応理学部環境システム学科に入ったけれど、ずっとこのままかはわからないわ。やりたいことが他に出来たら他に移るかも」

「私も理学部の、生物学科なんです」渚が奇遇というように言った。

「わ、私は文学部文学科……」流子はなんだか申し訳ない気持ちで言った。「私も理系にすればよかった。理転しようかな」

「文学部でいいじゃん。私だって文転したいよ」渚が事も無げに言った。

「リューコは本が好きだから文学部に入ったの?」タユタが気遣うような眼差しで聞いてきた。この集まりの主役はどうみても彼女であるのに、いきなり流子を主題にさせてしまって心苦しい。

「わかりません。本の内容より装丁に興味があるから、色彩検定を取ろうかなと思ってますけど。今のところは……」なぜ文学科で?自分でも意味をなさない。

「ほんとなんでこの大学入ったんだよこいつって感じなんすよ」渚が茶化した。「私について来ただけなんじゃないかって」

「いや、奨学金とかあるから……」

 とは言ったものの、おそらく渚がいうとおり、彼女についてきただけというのが正しいのだと思う。


 渚はすごい。だから渚についていけば間違いないと思った。可能な限りずっと。

 しかし学部までは追従することが出来なかった。その障害となったものの一つは、〈錆禍さいか〉ということになる。それは流子が子供のころから世界が無視できない問題になっていた。

 咬錆かみさびという微小物質は、電流を自身のエネルギーとして利用しながら金属を分解する。それはつまり、建造物の鉄骨や人間が持つ小物などには影響ないが、あらゆる電力で動く機械が錆つくということだ。

 錆禍によって電子機器がほとんど使えなくなってから、全国の大学の理系学部は再編を迫られた。文系学部は本体が図書館のようなものなので、最悪でも本さえあれば存続できるが、実験機器はそうではない。電力と大気中の咬錆を完全に隔離しなければ機器は動かないが、そのせいで設備は大掛かりになり、個人単位での研究は難しくなった。

 それに対して、吸血鬼は血中算素を使った各種計算が得意で、しかも眠る必要がない。無眠人スリープレスと呼ぶ向きもあったが、彼らはヴァンパイアという名称を誇りに思っているのであまり使われない。作業時間を二倍確保できる彼らが再編後の理系学部を独占している中、人間の身で理系に進んだ渚を、流子は単純に尊敬している。


「渚は」流子はその渚に話題を振った。自分のことから話題を逸らすためという意味もある。「人工血液の研究がしたいって言ってたよね」

「そうなの?すごい」タユタが興味を示した。

「いや、少しでも関わりたいってだけです。恥ずかし……」渚が赤くなった。

 渚はタユタに対してずっと敬語だ。同学年なのに。流子はかわいい相手にはタメ語で話したくなってしまう。

「人鬼共通の難題と言われているものね」タユタが言った。「吸血鬼が飲むための人工血液は、単に成分や栄養素だけを天然の血液と同じにしても効果がない。もちろん動物の血でもダメ。血中算素が人間の体内で利用可能な状態にされていないと」

「そう簡単に代替血液が量産出来たら、吸血行為なんて発生してませんからね」渚が同意した。

 流子は話題についていくために適当に言った。

「そもそも、算素って何なんだろうね」

「本質的すぎるでしょ」渚がつっこんだ。

「算素は……咬錆の表の顔って感じ」タユタが軽く頬杖をついて言った。「厄介者が行儀よくしているときの姿」

「やっぱり同じ物なの?」

「ええ。そこまではゼロ年代の時点でわかっていたわ」

「今は吸血鬼界隈ではどれくらいまでわかってるんですか?その……算素と咬錆について。英語の論文が多くて、追えないんです。私英語は苦手なので」と渚。

「私は得意だよ」流子はドヤ顔で言った。

 渚は流子を無視して言った。「やっぱり、ただの酸素同位体ではないのは確定なんですよね?」

「ええ。そもそも算素は、あまりにも酸素に似ているからそう名付けられたけれど、前世紀までは存在すら知られていなかった。化学反応の過程では酸素原子のように振る舞うから。

 それは通常の酸素分子と同様に空気中から肺に取り込まれ、赤血球によって運ばれ、化学エネルギーを解放した後は、二酸化炭素の形にさえなる。中性子二つ分重いという特徴はあれど、酸素同位体と誤解されてきた。

 まるで擬態しているように。実際には、原子ですらないのに。

 似ているのは外見だけ。算素の内部構造は既知の原子とは全く異なる。電子雲の中に中性子ハローによる二層目の雲があり、それが原子核に似た構造を取っている。その殻を通して中性子と陽子の出入りがあり、限定的な元素変換が行われているけど、原理は不明。フェムトマシンと呼ぶ人もいる」

「……?」

 疑問符が顔に出ている流子に向けて、タユタは一般向けと思われる説明を始めた。

「人間たちは過去に、無限に自己複製して地球を食べ尽くすナノマシン――グレイ・グーというアイデアを弄んだそうだけれど、それより五桁もスケールが小さい算素というフェムトスケールのマシンがもたらしたのは、もっと奇妙で限定的で、複雑な事態だったというわけ」

「原子核スケールの話になると、生物学や化学の領域ではないですね」渚は残念そうに言った。

 今考えると、渚は専門的な話をするとき自動的に、オタク特有の早口で丁寧語になる。今はその状態なのかもしれないと流子は思った。

「心配しないで、ナギサ。算素が動作する媒体は血なのだから、生物学の方面からやれることも多いと思うわ」タユタは励ますように言った。「私も実は、生物学のほうが好き。いつか植物を研究してみたいと、ずっと思っているの」

「植物……?」意外な組み合わせに流子は聞き返してしまった。

 吸血鬼と植物?人間を介してしか繋がりがないはずの、頂点捕食者と一次生産者。生態系の中で位置が遠すぎるし、色相環の中でも同様に補色だ。混ざり合わない赤と緑。そのはずだった。

 しかし、環境保護を訴える吸血鬼というパレットの上では、奇跡のように加法混色されている。

「私ね、時々植物になりたいって思うの」タユタがぽつりと言った。

 緑色のラベリングがされた、再生可能な血液パッケージを、申し訳無さそうにか細い指で包む淀川タユタ。

「吸血鬼である自分が嫌でたまらないときがある。なぜ他の動物から血を奪う生き物として生きているんだろう?こんな寄生的な生のあり方に私達を導いたのはなんだろうって」

 渚も流子と同じく、息を呑んだように手を止めて見つめている。長波長に濾過された日光に照らされて、懺悔するように言葉を選んでいる夜の種族を。

「お陽さまの光を浴びるだけで――もちろん私が浴びすぎると死んじゃうんだけど――何も食べずに、殺さずに、傷つけずに生きていく存在として生まれなかったのは何故だろう?どういった種類の呪いが生の様態を押し付けるんだろうって」


 そうか、吸血鬼が夜を生きるのは、暗闇に乗じて人を襲うためではない。太陽という無償の贈与、何も見返りを求めない恩恵の奔流を嬉々として利用する植物ほど無邪気ではないから、惑星の影に隠れているのだ。まるで到底返礼しきれない贈り物を慎み深く遠慮するように。



   ***


 帰りのバスの時間だという渚を見送るために流子は屋外に出た。まだ日は沈んでいないので、タユタは外に出てこない。日陰で流子を待っている。まだ一緒にいてくれるのだろうか?なぜ?


「バス停まで遠いから、ここでいいよ」渚は言った。「早く戻ってあげて、あの子のところへ」

「うん。でも、私もすぐ帰るつもりだけどね。チャリで」

「あの子、本当にいい子だった」渚は夕日の逆方向の空を見つめて言った。

「うん」

「……大事にしてあげてね」

「ええ?渚のほうがしゃべる機会あるでしょ、これから」

「大事にしなきゃってこと。私達が」

「そうだね。また三人で食事できたらいいね」

「うん。また今度」

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