4.止血

 流子はタユタの自家用車に乗っていた。

 車は大学裏の駐車場に停めてあったので、すぐ近くだった。

「安心して」ハンドルを握るタユタが口を開いた。「これは水素燃料車。製造過程のどのプロセスにおいても、咬錆の排出には関与していないわ」

「う、うん」流子は前方を向いたまま答えた。「それなら安心だね」

「ごめんね、リューコ」

「な、何が?全然だいじょうぶだよ」

 そう、流子は気にしていない。自分がタユタにとってお弁当、つまり敵地に侵入するための通行パス代わりに扱われたことを。それは友情と矛盾するものではない。むしろ四方から殺到する牙と爪から守ってくれたではないか。いや、問題はもっと別のところにある気がする。例えば殺戮自体とか。

「いいえ、本当にごめんなさい。そんなに服を汚してしまって。もっと綺麗に済ませるつもりだったのだけれど」

「ああ、服?服ね!」

「うちに来てシャワーを浴びるといいわ。服もクリーニングに」

「シャワーくらいうちの下宿にもあるよ?」

「うーん。でも、吸血鬼の血の痕跡を処分する方法があるの?この車とわたしのマンションは遮蔽できるけど」

「それは無いけど……あの、あの、帰りはDUSKO《ダスコ》で買い物しようと思ってたし、でもああ、この服じゃ行けないか」

 大型ショッピングセンターDUSKOは大学がある山のふもとにあり、24時間開いている食料品売場には夜な夜な学生達が虚ろな顔で彷徨うので吸血鬼との見分けはつかない。

「夕食も買いに行けないでしょう?人間用の食料品もうちにあるから」

「そ、そうだね。そういえば、うちの冷蔵庫、ほぼ空だし」

「じゃあ決まりね。うちにおいで」


 車は坂道を下りて町中に入り、電力ではなく燃焼と生物発光に彩られた歓楽街を通り過ぎた。頭上は絡み合う送血腺で覆われ、タイヤが廃血溜まりを踏みつけた。

「でもね」タユタは信号で止まっている間に言った。

「今日みたいな個人単位で出来るゴミ掃除じゃ、もう間に合わないの。環境を咬錆から守るには、錆禍を止めるには、そして血液と化石燃料の搾取を止めるには」

 個人単位?ゴミ掃除?流子は耳を疑った。

「エコバッグを買ったり、ゴミの分別をしたり、代替血液を飲んだり、雑魚のコロニーを殲滅する程度じゃ嗜血主義は止まらない。むしろ、その全ての行為が嗜血主義に取り込まれ、消費されていくの」


 タユタの高層マンションは駅前の、人工筋肉を縒り合わせて作った鳥居のような奇妙なオブジェを見下ろしていた。そのビルは流子から見ても下見に訪れたころから目立っていたが、一人暮らしの学生が住んでいるとは思い至らなかった。

 車はマンションの地下駐車場に乗り入れ、二人はエレベーターに向かった。

 上階から籠が降りてくるまで待つあいだ、タユタが尋ねた。

「お腹すいた?」

「う、うん」

「わたしも……」

 タユタがそう言いながら肩に血まみれでもなお艷やかなボブヘアーを預けてしなだれかかって来たので、流子は宥めなければならない気がした。

「そうだね、あんなに動いたもんね」

 タユタの髪を撫でると、赤い絵の具を使ったあとの油彩筆を掃除するときを思い出した。

「最上階をまるごと私が所有しているの。血痕は執事に掃除させるから心配しないで」

 廊下の壁の一部が鏡になっていて、流子のベージュ色のトレンチコートと暖色系のインナーを映している。今日はタユタのかわいさばかり目で追っていて、自分がどんな外見かもほとんど意識していなかった。今やどちらも血塗れで、色価による和音も聞こえない。

 流子は、おかしいのは状況ではなく自分の思考なのではないかと疑い始めた。こんな状態でもまだ色について考えている。この感覚は共感覚というほど純粋に感覚的でもないが、信号機のような記号でもなく、比喩として流子につきまとっている。色彩は光の行為であり、受苦である。そう本で読んだことを思い出す。


 エレベーターが地下から上昇し、一階部分の壁面から出ると、全体がガラス張りになっており、外が見えるようになった。透明な箱はガス燈の明かりの集合体である地平線が見える高さに達した。

「いい景色だね……」

 流子は素直に感心した。咬錆のせいで低動力のエレベーターの上昇はゆっくりで、その分この夜景を眺める時間がある。錆びて滅びゆくと同時に、化石を呼吸する街を。

「この街は好き?」

「まだわからないけど」流子は答えた。「ここに来なかったら、今夜みたいな経験一生できなかったと思う」

「私も」タユタが流子の下顎に手をかけて言った。「今日あなたを見つけることが出来てよかった」

「えっえ?」流子の目が泳いだ。

「かわいい……」

「えっ――」流子の声は途切れた。タユタが自分の喉元に口づけしてきたので、声帯を震わせると気まずいと思ったから。

「怯えてる?さっきのせいで」固まった流子を観察したタユタが言った。

「わかんない。多分怖かったと思う」

 本来死は人鬼問わず悲劇だが、数えきれないほどとなると麻痺してしまったようで、どう意味を解釈すればいいのかわからない。

「ごめんね。でも大丈夫、あれは全部吸血鬼だったでしょう。私は人間を傷つけたことなんてない」

 タユタは流子をドアまで追い詰めて、両手を壁について逃げ場を封じて言った。「ほら、こんなことしても」そして、流子の鎖骨のあたりを咬む真似をして、長い犬歯を当てた。

「か、む……?咬まない、よね?」

 流子は今、左の鎖骨を甘噛みされたまま、装飾のついた金属製のドアに押し付けられている。鎖骨ならたとえ噛み跡がついても学校でバレないだろうか?などとどうでもいいことを考えている。

 タユタは顎を動かさなかったが、代わりに体重をかけてきたので牙が流子の薄い皮膚を突き破ってしまった。タユタはそのことに驚いたかのように目を見開いたが、溢れ出る血を反射的に舐めたように見える。まるで零れた分を舐め取れば、すでにフリではなくなった行為が取り消せるとでもいうように。

「今……吸ってる?私の……」

「ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったの」

 言いながら、服に血滴が吸われないように押し下げて、胸郭に沿って滴る雫を舌で拭った。

「ごめんなさい。違うの。ごめんなさい」

 タユタが息継ぎをするように謝り続けるので、流子は慰めた。

「いいんだよ。私もこうして欲しかった気がする」

 渚やタユタのように、自分の全てを何かに捧げたかった気がする。

「止血しないと」

 タユタは我に返ったように言って身体を離し、しかし流子から目が逸らせないでいる。

「いいよ、吸っても」

「え……?」タユタはさっきまでの流子がずっとそうだったのを真似するように、戸惑った顔をした。

「吸うなら、最後までして。血が無くなるまで。眷属の成り損ないだけは嫌だ」

「そんな……無駄になんてしない」タユタは頭を振って否定した。「一滴も。こんなに美味しい……」

 そしてまた、胸元に頭を預けようとしてきた。

「でも」流子はタユタの両肩をそっと押し止めて、まっすぐに目を見つめて言った。

「その代わり、なぜ私を選んだのか言って。人間だから?便利だから?かわいそうだから?それとも、血が美味しそうだから?そんなつまらない理由で?」

 人を簡単に切り裂くことが出来る夜叉を前にして、流子はなぜか強気に出ることが出来ている。二人の間に傷口が開いたことで、与える立場になったことで、力関係が逆転したような気がした。そしてはっきりと言った。

「つまらない理由だったら、おあずけ」

 タユタは息が詰まったような表情になった。その瞳は戦闘時ほど赤く光ってはいないが、かすかに中央部分に光が集まっていて、それが揺れていて、焦点が定まらない。困り眉で、苦しそうで、かわいそうなほど可愛く見える。

「もう言ったよ」タユタは喘ぎながら返答した。「私は言ったよ。美しいから、何も傷つけないから、そんなふうになりたいって。リューコみたいになりたいって。言わなかったっけ?」

 言ってない。それらは全て、植物について言っていたことだ。あれは、私のことを言ったつもりだった?彼女の中では、植物と人間が混同されているのかもしれない。人間が生き物のことを動植物とまとめて呼ぶように。彼女にとっては環境なのだ。

 そしてなぜか彼女は、その環境の中で最も自分から遠い物を愛するように出来ている。不幸なことに。

「もういい?リューコの血が欲しい」

 タユタが再度身を預けてきたのを、流子は遮らなかった。

「うん、いいよ」

 流子は誰かにこうして欲しかった気がする。ずっと前から。ただ願わくば、この時間が永く持続するものならよかったのにと思った。




〈了〉


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