その②「アカバン」と言えば、競輪場では『残り2周』という意味

 リビングの大画面テレビでは、競輪の生中継が映されていた。佐賀県の武雄競輪場で開催中の開設記念競輪だ。

 この『開設記念競輪』とは、日本各地の競輪場で、毎年一回開催されるグレード(G)レース。通常の開催と異なり、4日間行われる。競輪選手には、A級とS級というランク付けがあるのだが、この中でも上位に当たるS級選手のみが参加できる。

 今節の武雄記念は、一昨日おとといの土曜日が初日。今日は月曜なので、3日目、つまり準決勝戦が行われる。


 成行はソファーに腰掛けて食事を待つことにした。風邪でもないのに、この時間、学校にいないことが不思議な気分にさせる。


 一方、テレビでは準決勝戦の一つ前、3日目の9レース『S級特選』が始まった。つまり、今の時刻が14時40分頃だということが、時計を見ずともわかる。


「しかし、本当に競輪が好きなのね・・・」

 テレビ画面を眺めながらつぶやく成行。テーブルの上にはタブレット端末が置かれている。十中八九、雷鳴はこれで民間投票サイトから車券を買っているのだろう。恐らく、この9レースも。


 9レースが始まり、成行はレースを見守る。


 レースが残り2周、赤板あかばんのホームに差し掛かる。

 競争レースする競輪選手のために、競争路バンク内には残り何周かを表示する『周回しゅうかい表示ひょうじ』が用意されている。その残り2を示す周回しゅうかい表示板ひょうじばんいたが真っ赤いことから、競輪では残り2周のことを『赤板あかばん』と呼んでいる。


 このタイミングで、雷鳴がお盆を持ってリビングに戻ってきた。お盆の上には、ワッフルの乗った皿とティーカップが載っている。

「ユッキー、待たせたな」

 そう言いつつ、雷鳴の視線は完全にテレビを向いている。

「ありがとうございます」

 成行もそう言いつつ、テレビ画面に釘付けだ。


 残り1周半のタイミング、しょうを迎える。地元九州勢⑧①⑦が前に出きった。中段ちゅうだんの位置に北日本、南関の混成ライン⑥②⑨が収まる。後手に置かれたのが中部勢の④⑤③だ。


「それでいい!それでいい地元勢!」

 テーブルにワッフルの皿とティーカップを置きながら雷鳴は言う。力が籠っているので、声が大きい。

 一方、成行は声を出さず、真剣にレースを見る。


 打鐘ジャンが鳴り終わる頃、最終ホーム過ぎたタイミングで、中段ちゅうだんの混成ラインが前段ぜんだんの九州勢へ襲い掛かる。しかし、九州勢がうねり、混成ラインが1センターで浮く。

「よしっ!それでいい!地元勢!」


 いよいよ雷鳴の声がデカい。まるで本場のホームストレッチでレースを見ているかのようなテンションだ。

 だが、最終バックで混成ラインの外側から中部勢が捲ってきた。最終2センターの手前から前段ぜんだんの九州勢に襲い掛かる。かなり良い勢いだ。


「これはヤバいな・・・」

 呑気に呟く成行だが、雷鳴は顔色を変えて喚く。

「オイオイオイ!中部勢は来るな!余計なことするな!」

 だが、雷鳴の喚き声は武雄まで届かない。


 2センターで九州勢の外側を捲った中部勢。4コーナーを抜け出す頃には、中部勢が九州勢を飲み込んだ。

 武雄の長い直線。中部三番手の③番が最後の最後で伸びてきて1着ゴール。中部二番手にいた⑤番が2着。そして、九州勢の三番手にいた⑦番が3着。


 あれだけ雷鳴がピタッと静かになり、渋い顔をしている。

 恐らくのだろう。聞かなくてもわかる気がする。だが、成行はあえて聞いてみることにした。

「ダメでした?」

「ああ・・・」

 力無く答える雷鳴。彼女はタブレットを手にする。自分で購入した車券を確認しているようだ。

「まあ、こんな日もありますよ」

 気休めを言う成行。


「う~ん。中部勢を甘くみていた。九州勢のズブズブは想像したが、中部勢のズブズブは想像できなかった」

 雷鳴が言う『ズブズブ』とは、競輪の用語。『ライン』という並びを作ってきそう競技。それが『競輪』だ。

 例えば、三名で選手が並んでいて、一番後ろに並んだ選手が1着になり、先頭(または前)を走っていた選手が着外になってしまうことを『ズブズブ』という。


「まあ、準決勝戦がありますから。そこが本当の勝負ですよ」

「確かに。気持ちを切り替えるしかないか・・・」

 タブレットを眺めていた雷鳴は、視線を成行の方へ変える。


「話題は変わるが、いいか?ユッキー」

 雷鳴は成行に疑問をぶつけてきた。

「キミは競輪に詳しいようだな。もっとも子供の頃、父上ちちうえに競輪場へ連れて行ってもらったというが、それだけじゃないだろう?」

「どうして、そう思います?」

「勘よ。車券師の勘。単に親と競輪場へ行っていただけじゃないだろう?例えば、親族やキミのご両親の知り合いなどに競輪関係者がいないか?競輪場に勤務しているとか?または競輪選手の顔見知りがいるとか?」

 勘だけで聞いてきているなら、鋭いなと感心する成行。


「こう見えても競輪歴が長くてね。その辺はアリサや見事とは違うからな」

 雷鳴は得意げな表情だ。

「でも、中部勢の巻き返しは予想できなかったと?」

「それを言うなって!」

 この情報なら教えても差し支えないだろう。そう思った成行は事情を話すことにした。


「僕の両親の仕事が競輪に関係しているんです。僕の競輪知識は、そこから由来するものです。両親は二人とも競輪記者なんです。父が専門予想紙の記者。母は大手スポーツ紙の記者です」

「そういうことなのか。てっきり叔父さんあたりが選手なのかと思った」

「残念ならが、親族には競輪選手はいません」

「どこの記者なのだ?」

「父は専門予想紙の『南競なんけい』。母は、『大江戸スポーツ新聞』の競輪担当です」

「なるほど。それなら、競輪に詳しいのも頷ける」

 雷鳴は成行の説明に納得した様子。


 成行の父が所属するのが、競輪専門予想紙の『南競なんけい』。南競なんけいの『なん』は、南関東みなみかんとうの『みなみ』に由来する。

 競輪の地区分けにおいて、南関東地区となるのは千葉、神奈川、静岡の三県。

 その名の通り、南競は南関東地区内の静岡、伊東温泉、小田原、川崎、千葉、松戸の各競輪場で購入できる。そして、例外的に地区分けでは、関東地区となる京王閣競輪場でも販売されている。


 一方、成行の母が所属するのは、全国でも名の知れたスポーツ紙『大江戸スポーツ新聞社』。スポーツのみならず、芸能記事などでも有名。マスコミに疎い人でも、名前くらいならワイドショーなどで聞いたことがあるだろう。

「別に隠すワケではなかったのですが。いずれ何かの機会に話せばいいかとも思っていたので」

「そうすると、週末にユッキーの家に誰もいなかったのは、そのせいか?」

「ご名答」


 成行の両親は競輪記者という仕事柄、取材で日本各地を移動することが多い。

 特に開設記念競輪や特別競輪と呼ばれるG(グレード)レースとなれば、首都圏を離れて遠く函館や熊本、佐世保まで赴くこともある。

「じゃあ、ユッキーのご両親はここに?」

 雷鳴はテレビ画面を指さす。

「ええ。そこです」

 成行の両親は、今まさに武雄競輪場の開設記念競輪の取材に行っている。


「父と母は、先週の木曜に武雄へ向かいました」

「金曜が前検日ぜんけんびの取材だからな。東京へ戻ってくるのは明後日か?」

「二人が帰ってくるのは来週の月曜です。武雄の後は、そのまま高知記念へ向かうので」

「そうか!今年の高知記念は4月後半だったな」


 武雄記念は、明日火曜日が決勝戦(開催最終日)となる。

 その直後、高知競輪場でスタートする開設記念競輪は、今週の木曜日が初日。つまり、高知の前検日は明後日の水曜日になる。

「忙しいスケジュールだな。武雄からそのまま高知へ移動するのか?」

「ええ、そうです。中0日だって言ってました」

「でも、それだと昔は寂しくなかったか?」

「いえ、それほどでもなかったです。僕には10さい年上としうえの兄がいます。当時は高校生だったので、兄が親代わりでした」


 笑顔で答えた成行だが、子供の頃、両親不在が寂しかったことを今でも覚えている。それでも当時高校生だった兄がいたので、決して一人ぼっちではなかった。

 それに何よりも成長と共に、その寂しさにも慣れてしまっていた。


「んっ?待てよ、もしかしてユッキーのお兄さんは競輪選手を目指してたりしないか?」

「残念ですが、それはないです」

 キッパリ否定する成行。

「そりゃ、残念」

「今、兄は機械部品メーカーに勤めていて、静岡市の工場に配属されています。でも、兄も競輪選手という選択肢には迷ったって言ってましたけどね」

「ユッキーはどうなんだ?」

「僕ですか?僕は選手になるよりも、お客様のままがいいです。だって、口で言う以上に競輪選手というのは大変な職業です。それは実際にレースを見て、両親からの話を聞いてみて感じたことですから」


 成行もかつては競輪選手という人生を考えたことがある。だが、生半可なまはんかな気持ちではやっていけない世界だろうし、何よりも命懸けの職業だ。そのことに対して、少しでも躊躇いがあった自分には向いていないと思った。

 人には人の道がある。自分が信じた道を進めばいい。選手を目指すのか、お客様のままでいるのか。どちらが間違いかという答えはない。父からそう言われたことを、成行は今でも覚えていた。


「人には人それぞれの道がありますから。それは競輪選手も、魔法使いも同じでしょう?」

「知ったようなことを言って」

「ご無礼、お許しを」

 成行は時代劇のセリフっぽく言ってみた。

「それじゃあ、今度は僕が雷鳴さんに聞いてみてもいいですか?」

「私に?」

「その美貌を保ち長生きする秘訣は何ですか?」

 その質問に固まる雷鳴。彼女が回答を躊躇したのが、すぐにわかる。

「企業秘密だ!」

「えっ!そんな!そんな断られ方をされると、却って気になるなあ」

「うるさい!私のプライベートな話はここまでだ!」

 雷鳴はこの話題を無理やり終了させようとした。


「だが、これだけは言っておく。長く生きてると色々あるんだ。16年しか生きていないユッキーには理解できないこともある。まあ、色々あるんだよ。魔法使い業界も」

 そう話したとき、雷鳴がほんの一瞬、寂しげな笑みを浮かべたのを成行は見逃さなかった。あの表情と、雷鳴の語った言葉の意味が重く感じた。これ以上、興味本位で何か聞くべきではない。


「すいません。調子に乗りました」

「いや、構わないさ。ユッキーも魔法使いは不慣れだろうしな」

「不慣れ?」

 雷鳴の言葉を聞いて思わず笑いそうになる成行。

「雷鳴さん、魔法使いに慣れている人は、そうそういないですよ?」

「あっ。そうだな。確かにな!ハハハっ!」

 雷鳴は豪快に笑った。


「そうだ、ユッキー。私からキミに提案したいことがあるんだが?」

 雷鳴は真剣な表情で成行に話し掛ける。


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