その②「しそジュースを飲んで、人間を辞める」

 成行が再び目を覚ますと、そこは先程と同じ部屋。そして、誰もいない。


 残念だが、これは悪い夢などではない。紛れもなく誘拐されたのだ。

 口の中に残るおのが血の味。鼻も折れたままだろう。ろくな手当てもされずに放置されている。顔面フリーキックを受けて、どれくらい経過したか見当けんとうもつかない。


 このままでは絶対にマズい。ではないのは明らかだ。

顔面フリーキック男から聞いた重要なキーワード。。かつて、あの子が持っていた本の正式名称なのだろうか?


 今、考えると家を訪れてきた警官の正体も怪しい。本物の警察官であるかという点だ。偽物であれ、本当であれ、これは大事おおごとだ。こうして違法な手段を用いられて、拘束されているのだ。


 逃げ出す方法を考えなくてはいけない。だが、ケガをして冷静に脱出方法を考えられる状態にない。

 誰かこの一大事に気づいてくれるだろうか。警察がこの誘拐に気づいて、いつ捜査を始めてくれるのか。


 目出し帽の二人組は魔法のことを口にしていた。つまり、ただの誘拐犯ではない。魔法を知る、あるいは使える誘拐犯だ。そうなると、誘拐事件に誰も気づいていないかもしれない。気づいても自分を捜し出せないかもしれない。そんな不安が成行の気力きりょくむしばむ。


 ふと、見れば白い小型冷蔵庫があった。あの中に何か食べ物はないだろうか。そう思うと空腹感が増してくる。

 考えるよりも先に成行の体が動く。鼻の痛みに堪えながら、体をゆっくりと回転させて冷蔵庫に近づく。


 このタイミングで、あの二人が戻ってくれば、再度顔面フリーキックが待ち受けているかもしれない。それでも構わない。何か口にしたい。単純な食欲ではなく、生きるために何かを口にしたかった。

 これでもかと思うくらいに歯を食いしばり、ケガの痛みを堪える。体を回転させる度、顔面をえぐるような痛みが成行を襲う。


 部屋の片隅の冷蔵庫前にたどり着いた成行。目の前には白い冷蔵庫の扉。だが、これでは扉を開ける手立てがない。

 すると、今度は転車台のように体を回転させ始める。またも、痛みと葛藤しながら体を動かす。

 今、成行は裸足だ。足の指まで動きを制限されていない。さらに顔とは異なり、脚も、足の指も無傷だ。これならば、手の代わりになるはず。成行はそう思った。


「いける・・・!」

 思わず声が出る成行。足の指が冷蔵庫の扉にかかる。慎重に、尚且つ確実に扉が開けられる箇所を見極めて、一気に力を込めた。

 すると、冷蔵庫の扉が想像以上に、勢いよく開いた。その反動で冷蔵庫内の物が床に落ちてしまう。ガラスの砕ける音が部屋に響き渡る。


 何が割れた音だった。ゆっくり顔を動かして冷蔵庫の方を見る。

 半分開けかかった冷蔵庫の扉近くに、割れた瓶のようなものが散乱している。瓶の中身だろうか、床には何かの液体が大量にこぼれていた。

 足元の破片に注意しつつ、また体を回転させる成行。再び顔を冷蔵庫の方へと向ける。

 顔が液体に近づくと、甘くフルーティーな匂いがした。これは果物のジュースとみていい。なら、惜しいことをした。今なら、いくらでもジュースが飲める気がするのに。


 成行の目の前には、ジワリと広がるジュースの湖。冷蔵庫の中には、まだジュースが残っているかもしれない。

 だが、これ以上はどうすることもできない。相変わらず自由に身動きできない状況だ。口惜しい。割れた瓶のラベルだろうか、『しそジュース』という文字が目に入る。よく冷えたしそジュース。こんな贅沢な飲み物はない。特にこんな極限状態で口にするしそジュースはどんなに美味いだろう。


 成行に迷いが生じる。床に広がるしそジュースを舐めるべきか否かという悩みだ。

 心が揺らぐ。そんなマネはできないというプライドと、しそジュースを飲みたいという生理的欲求。床に広がる紫色の水辺からは甘い魅惑的な匂いがして、成行の正常な判断能力を奪いつつあった。


「飲もう」

 誰に対して言ったわけでもないが、成行は決断した。

 床のしそジュースをすする成行。

「美味い・・・!」

 思わず言葉が漏れる成行。

 床にこぼれたとはいえ、まだ冷えているしそジュース。くどくなく、そのスッキリした甘さが傷ついた体に染み渡る。


 だが、このような極限状況で、このようなマネをすべきではなかった。成行は無我夢中で残ったジュースをすすり始めた。無論、それは床にこぼれたジュースである。

 飲めば飲むほど、体に力が漲る気がした。床にこぼれたとはいえ一滴たりとも残したくない。そんな衝動に駆られる。


 瞬く間に、床にこぼれたジュースがなくなった。成行は空腹が満たされて、心まで満たされた気がした。だが、床にこぼれたジュースを飲みつくして、まるで人間を辞めた気分になっていた。

 満足した成行を眠気が襲う。だが、彼はそれにあらがうことなく眠りに就いた。

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