言葉じゃ届かぬ距離がある

「ちょっと、茜。話聞いてる?」

「聞いてるって」

 ホテルの一階部に併設されたカフェでケーキバイキングを堪能していた。休日にアリサと出かけるのは久しぶり。

「ほんと? ぼーっとしてなかった? 考えごと?」


「これ、江波くんが好きそうかもって」

 私のお皿には食べかけのフォンダンショコラがある。フォークを入れられて、とろりと広がったガナッシュは、見た目に違わぬ濃厚さ。けれど、甘さは控えめ。生クリームがチョコの苦味のとげとげした部分だけを抑えている。ビターチョコ好きな江波くんの口に合いそう。


「へー」アリサが、にやにやと口元を緩める。「私といても彼のことが気になっちゃうんだ」

「そんなんじゃ。ちょっと思っただけだし」

「照れんなって。彼がいないところでも彼のこと考えちゃうとか、まさしく恋じゃん。順調に行ってるみたいで友人として嬉しいよ」

「そうなのかな? でも、キスだってまだだよ」

 江波くんが強く押してこないのは相変わらず。告白してきたのは彼なんだから、もうちょっと積極的になってくれてもいいのに。


「茜が嫌がることはしたくないんじゃないの。大切にされてるじゃん。ほら、付き合うときに全部馬鹿正直に言っちゃったわけでしょ。彼からしたら無理矢理迫るみたいになるからね」

 面白がるような表情は崩さないまま「茜のほうから動かないと」と私をけしかける。

「そういうものなの?」

 そうそう、とアリサ。他人の恋愛だからと無責任に放言してないか。


「自分の気持ちは伝えた?」

 私は首を横に振る。

 まっすぐにぶつけれらた感情に呼応するかのように芽生えた、この想いは恋と呼ぶよりほかにない。我ながらなんて単純なんだろうと呆れるけど、好きになってしまったんだから仕方ない。


「だったら、まずはそれからし」

 そうだ、まだ私は本当の意味では、江波くんの気持ちには応えられていない。

 とはいったものの、いざ彼を目の前にするとどうすればいいのかわからなくなってしまう。彼はあれだけはっきりと、もう何度も好きだって言ってくれたのに。

 言葉にできない。けれど、行動でだって示せる。 

 アリサにアドバイスを貰いながら、いろいろとやった。

 私から誘ったデートで彼の手を取る。誕生日には、彼がよく着ているジャケットに合うシャツを贈った。バレンタインには手作りのブラウニーを。


 自分からアプローチをかける、その行動にひっぱられ私のなかの感情はいっそう大きくなっていった。

 それは彼にも十分届いていたはずで、それっぽい雰囲気にもなった。


 なのに、今日こそはと決めてもキスができない。

 水族館デートの帰り道、このまま別れるのは寂しく感じられた。ずっと、一晩中だって彼といたかった。家まで送ってもらった別れぎわ、彼もまた名残惜しげにしていた。チャンスじゃない? このままやっちゃえ。「大丈夫、いけるよ。ほら、はやく」頭のなかでアリサがそう囁いていた。半歩進んでそのまま唇を重ねる、たったそれだけだ。なのに、ふいにそこが家の前だと意識してしまう。玄関先でそんなことしちゃっていいの? 家族に見られでもしらたら。いや、彼氏がいるのは知られている。高校生だ。キスくらいしてもいいよね。その先まで行っているカップルだっている。キス程度で、とやく言わせない。男女交際禁止にするほど厳しい親でもない。けれど、本当に全部許してくれるのか。特にお父さん。今度うちに連れてこいなんて社交辞令みたいなもの。鵜呑みにしたら痛い目を見るかも。なら、こっそりやってしまえば。電灯は点いている。キッチンだからお母さんだろう。料理中なら火の番もある。やるなら今。でも、お父さんは? 帰宅しているのか不明。もし帰って来たところに鉢合わせでもしたら。 

 ぐるぐると思考が巡り、決意が萎んでいく。


 気づけば「それじゃあ、またね」「あ、うん。また」と挨拶を交わしていた。遠のいていく彼の背中を呼び止めることもできず、私は一人家へと入った。

 自室で一人になると後悔ばかりが襲ってくる。なんで。なんで思い切れないの。簡単なことじゃない。外でが無理なら部屋に呼べばいい。今更そんなアイデア浮かんでくる。そうすれば誰に見られる心配はない。自分の部屋なら、なんだってできる。キスだって、それ以上だって。


 枕に顔を埋めて身悶えているとスマホが震えた。彼からのLINE。今日はありがとう、楽しかったよとスタンプつきで。こういうところ感心するほどマメ。

 通話アイコンをタップすると、すぐに彼は出た。会話は内容らしい内容もない雑談。彼がそこにいる、その事実を確かめるように私たちは、とりとめのない話をする。


 通話を終え、心は温かくなっていた。けれど、だからこそ、もっと、と願ってしまう。

 自分の唇を指先でなぞる。

 私がこんなに欲張りだなんて。こんなにもいくじなしだなんて。そんな自分があるなんて思いもしなかった。けれど、それも私。TikTokで一時期流行った曲でも歌っていた。進化するのだ、心は。

 身を焦がすなんて比喩は大仰でもなんでもなかった。彼の何気ない仕草に、些細な言葉に一喜一憂した。甘やかなささやきで、その体温で私たちはお互いの感情を確かめあった。じゃれ合うように、何度も、飽くこともなく。けれど、それでも彼のわずかな反応が私の心を乱す。彼の笑顔が、私を無敵にする。彼のため息が、私を臆病な一匹の小動物にする。自分自身の感情に振り回されている自覚があった。でもどうにもできない。その情動の熱量に、その高低差に、心と身体はじわじわと削れ。

 

 やがて、限界が訪れ、風邪で寝込むはめに。自家中毒かメルトダウンか。

 ベッドで横になって、考える。恋は心身を疲弊させる。彼といるとそんなことさえ忘れてしまう。無限にエネルギーが湧いてくると錯覚してしまう。一緒にいて楽しくないわけじゃない。体調を心配する連絡に飛びついてすぐさま返信した。


 好きなのは変わらない。でも、不滅だろうか。感情に振り回され、蝕まれていけば、いつか愛情さえ絞り出せなくなるほど枯れてしまうかも。それが怖い。


 適切な距離を保たなければ。溺れてはいけない。

 進級してクラスが別れて、会う頻度が減ったのはいい機会だ。彼のことを考えない日はない。いつだって、頭の片隅には彼が居座っている。でも、一人になって冷静でいられる時間があるだけで違う。むしろ回復期を設けたからこそ、全力になれるまである。会えばどうしたって心を燃やし尽くしてしまう。


 それが私たちの正しい付き合い方。この先も関係を保つために。ずっとずっと、いつまでも、そうやって私たちの日常は続いていく。

 そう思っていた。


 けれど、それは私だけだった。

「別れよう」

 彼の部屋でそう切り出された。

 どうして。疑問しかなかった。こんなに好きなのに。

 別れる? そんなのは。

「嫌だ」

「じゃあ! じゃあなんで会ってくれないんだよ」

 一言で表すなら疲れるから。でも、それで何が伝わる? 誤解しか招かない。


「好きなんだもん。別れたくない。あれは嘘だったの? 全部受け入れたいって言ってくれたのに」

 全部だ。自分の感情に翻弄されてしまうのも、それで弱ってしまうのもだ。そういう嫌な箇所だってひっくるめて私。それを愛してくれるんじゃないの。肯定してくれるんじゃないの。だから、ダメな部分だって見せられたのに。信じていたのに。

「そう思ってたよ。でも」

 過去形。つまりもう。


「好き」

 私にこの感情を教えてくれたのは彼。付き合い始めたときはお試しでしかなかった。振り向かせてくれたのは彼。

 だから。だから今度は私だ。

「大好き。愛してる」

 何度だって繰り返す。伝わるまで。届くまで。もう一度こっちを向いてくれるまで。

 涙が出た。声がしゃがれた。だけどそれがどうした。私はほとんど叫んでいた。


 けれど。

「もう、ダメなんだよ」

 彼は目を反らす。

 それで悟ってしまう。終わったのだと。

 どこで間違ってしまったのか。なんでこんなことに。

 気づけば自室に戻っていた。どうやって帰ったのか覚えていない。

 思わず、スマホを確認してしまう。デート終わりにマメに連絡をくれた彼。けれど、もうそれが届くことはない。


 トーク履歴を遡って、また泣く。絶対ひどい顔になっている。そう思っても涙はひっこんでくれない。

 スマホ片手に私はいつしか眠りに落ちる。

 一晩経って目の赤みは引いていた。けれど気持ちはぐちゃぐちゃのまま。

 

 

 

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