松木

「テツオ、起きろ。協力してくれる仲間が来てる」

翌日、哲夫のその言葉でウィルに揺り起こされた。哲夫は眠そうに目を微かに開ける。

「分かった。着替えるから待っててくれ」

ウィルは部屋から出て行った。

哲夫はパジャマを脱ぎ、上半身を出したままでベッドに座り込んだ。ハワイの時刻に合わせた哲夫の腕時計は午前六時を指していた。

本当はずっと寝られないまま朝を迎えた。ウィルには、心配をかけないために寝ていたふりをしていたが、心配と不安が入り混じっていた。

窓の外はまだ薄暗い。これから本当に娘を殺した犯人に会いに行くのか。

そう感じると、軽い高揚感を覚えると同時に、恐怖に身がすくむ思いがした。

自分は今日、死ぬかもしれない。

最悪の場合、ウィルたちも巻き添えを食らう可能性だってある。

だが、そんなことはあってもならないことだ。

自分はこの問題にウィルを巻き込んでしまったという責任がある。それにウィルにはエミリーという大事な家族がいるのだ。エミリーに、自分と同じ思いをしてほしくないのだ。

もちろん、自分にも愛する妻がいるが、自分はそれと同等の愛を注いだ娘を失った。だから、娘の為に必ず犯人を捕まえなければいけない。それが自分の使命であると認識している。

そのためには、命を懸けてもいい。

そう自分に言い聞かせて心の中にある恐怖と対峙しながら、哲夫は部屋を出た。スリッパを履いていても、大理石の床から感じる冷たさが足に伝わってくる。

哲夫はリビングへ入ると、見知らぬ男女二人組がソファに座って紅茶を飲んでいた。

「待ってたぞ。この4人が、オレが協力を頼んだ者たちだ」

ウィルの言葉で男女4人は立ち上がった。

全員、20代か30代前半の若者である。

すると、右端に座っていた金髪の屈強そうな白人の男が

「オレの名前はトム。トム・リーブスだ」

とにんまり笑うと、哲夫は「よろしく」と会釈し、握手した。

と同時に横の女性が手を差し出す。

「私はデイジー・ブラントよ。デイジーと呼んで」

デイジーは高校生でも通じるようなあどけない笑みを浮かべた。

しかし、スレンダーで背はウィルと同じくらいの高さだった。175㎝はあるだろう。

スリムだし、モデルをやっていてもおかしくはないスタイルをしている。

そう思いながら、彼女の小さな手を握って握手すると、ウィルがフォローのつもりか哲夫に二人を紹介し始めた。

「デイジーはオレの会社で弁護士をやっているんだ。若いのに、腕はその辺の優秀な弁護士を超える。ちなみにトムはオレの高校時代の友人だ」

「ウィルとは高校時代に悪さしまくった仲だ。な、ウィル?」

「ああ。学校抜け出してゲーセン行ったりな」

哲夫は素直に驚いた。ウィルがそんな事をしていたなんて思いもしなかったからだ。

愛嬌がある真面目な奴だと思っていた。

結局、自分はウィルのことをあまり知らなかったのかもしれない。そう考えると、急に友人を巻き込んだことへのもどかしさを感じた。

「そうだそうだ!だがそんなもんじゃないだろ?もっとヤバいことしまくったじゃねえか。例えば・・・・・・」

昔話に二人で盛り上がろうとしていた時、デイジーの隣のパソコンを先ほどからいじっていた男が咳払いをしてトムの話を制した。

「昔話に盛り上がってる暇はないんじゃないか?時間がないんだろう」

ウィルははっとした表情を浮かべ皆に謝った。

「そーだそーだ。すまない」

トムは申し訳なさそうに口を噤んでいる。その誠実そうな姿に哲夫はトムに愛着がわいた。

デイジーの隣の男は自分から紹介する気はないらしく、ウィルが気を利かせて哲夫に言った。

「この男は、ロバート・ウィルソンだ。この通り、いつもしかめっ面をしているが、オレの仕事仲間で頼りになる男だ」

「よろしく」

ウィルの紹介のもと、ぶっきら棒に哲夫に目線を合わすことなくロバートは言った。

どうやら握手もする気がないらしい。それに、ロバートはずっとパソコンの方を見ていて、眉一つ動かそうとしない。すると、哲夫は困惑を隠すように、ぎこちなく笑った。

銀縁の眼鏡をかけているロバートは、いかにも秀才というようなイメージであった。

この男とはどうも馬が合いそうにない。話した瞬間に哲夫はそう確信した。

そして、最後に同年代くらいのスカーレット・トンプソンという美人な女性と握手を交わすと、一同ソファに座る。

ウィルと哲夫が一つのソファに座り、他の四人は、向かい合って別のソファに座った。

すると、先ほどまでの和やかな空気とは一変し、急に場の空気が張り詰めた。

そしてウィルが初めに口を開いた。

「今回、オレたちの為に集まってくれた皆に感謝する。どうもありがとう。」

哲夫の為、とはウィルは言わない。

ウィルはそのまま頭を下げると、釣られて哲夫も頭を下げる。

やがてウィルは顔を上げた。

「最初に言っときたいのは、さっき、君たちに事情を説明した通り、このミッションには命の危険が伴うかもしれない。だから、下りたい者がいれば、いつでも抜けてくれて構わない」

すると、トムが勢いよく立ち上がった。哲夫は抜けるのか、と戸惑った。しかし、心配に及ばなかった。

「今更そんなことを言われても、協力すると決めたんだからもう後には退かねーぞ。それに、友人の友人はオレの友でもある。その友の大事な人が殺されたんだから黙って見ているわけにはいかないだろう」

デイジーも同調した。

「トムの言う通りよ。ここに来た時からそれなりの覚悟はできてる」

哲夫は彼らの事をとても頼もしく思えてきた。

この一か月、一人でずっと行動していたが、同志が出来たような気がして嬉しくなった。ウィルはその二人がそう言うことを予想していたかのように、ニヤリと笑った。

「なら、今日の作戦会議をしよう。ロバート、よろしく」

そう言うと、ロバートはそれを待っていたかのように話し出す。

「今回、エリカさんを殺したと思しき犯人はイオラニ宮殿に13:00に来るように手紙で促した。しかし、宮殿のどこか、という詳細な場所の指定はない。つまりは、犯人はテツオを監視しつつ、頃合いを見計らって接触する可能性が高いと思われる。また、手紙や何らかの情報伝達手段を用いて、テツオとは直接会うことなく、新たに何かを指示する可能性もある。どちらにせよ、オレたちは、テツオを遠巻きに見守りつつも、付近に不審な人物がうろついていないかを探す必要がある。だが、オレは犯人が80パーセントの確率で直接テツオのもとに現れると考えている」

早口でロバートは話した。さらに続ける。

「まず、デイジーとオレは宮殿の外で見張りをする。そこでオレたちは状況によって臨機応変に犯人を捕まえられるように指示を出す。残りの三人は中に入って、テツオの近くでいつでも動けるようにしてくれ。しかし、犯人たちには気づかれないように装うんだ」

哲夫はとてつもなく早口で喋るロバートの英語を必死で聞き取った。実は、外国人と話すのは、およそ六年ぶりで、もはや哲夫の英語力は鈍刀になりつつある。

そんな自分に半ば呆れながらも、その辺の気配りをしてくれないロバートを少し腹立たしく思った。

まあいい。後で聞き取れなかったところをウィルに聞こう。

「分かった」

哲夫がそう言うと、ロバートが間を挟むことなく言う。

「13:10までは宮殿の外にいて様子を窺い、そこからは中に入る。これでいいか?」

ウィルに確認を取った。

「異論はない。」

ウィルは頷く。

「とりあえず中へのチケットは買っておいた。全員、一応持っていてくれ」

ロバートは封筒からチケットを5枚取り出して一人ずつ手渡しで渡していった。

「おー!手際がいいな!」

ウィルが感心した。しかしロバートはさも当然というような顔をする。

「準備は念入りに行わなければ、その準備の怠りが自分たちに返ってくる。このくらいは当然だ」

ウィルは苦笑して「こういう男だ」と哲夫に言った。

哲夫はロバートへの嫌悪感ごと笑い飛ばした。すると、ロバートは二人を一瞥すると、

「それと、万が一の場合は警察を呼ぶ手筈も出来ている。警察を呼ぶかについての判断は、ウィル、オレに任せてもらってもいいな?」

「もちろんだ」

どうやらロバートはウィルの全幅の信頼を得ているようだった。

そして、ウィルは立ち上がった。

「よし。そろそろ行くか」

ウィルは大きく伸びをすると、腕を回して、気合を入れるかのようにふーと大きく息を吐いた。

他の五人も立ち上がる。すると、哲夫は思い出して歩き出しているウィルに訊いた。

「エミリーはどうした?」

「まだ寝てるよ」

「いいのか?」

「何が?」

「いや、行ってきますを言わなくてだよ」

「すぐ帰ってくるさ」

心配そうに見ている哲夫をよそに、ウィルは平然とした顔で玄関のドアノブを回す。

ウィルもこの男なりに妻に心配をかけさせまいとしているのだろう。





ウィルの車に乗った六人は、宮殿に向かった。

途中、作戦の確認以外は一切雑談はしなかった。緊張感漂う車中のなか、三十分ほどで宮殿の五百メートルほど手前のヤシの木に挟まれた道路の脇に車を停めた。

「テツオ、歩き出せ。イヤホンはずっと付けとけよ」

ロバートが運転手席から命令口調に伝えると、哲夫は車から降りて、歩道を歩きだす。

「そのまま真っすぐだ」

イヤホン越しにロバートが指示すると、哲夫は「分かってる」と苛立ち気に呟いた。

「一人でテツオを行かせて大丈夫なのか?」

助手席に乗っていたウィルが歩いていく哲夫の背中を見ながら言う。

「オレたちの面は犯人に割れてる。何人で行っても一緒だ」

するとウィルは驚いたように

「オレはバレてるとして、お前たちの事も、もう犯人にバレてるということか?」

「私もロバートと同意見だわ」

スカーレットが後部座席から言う。ウィルはバックミラーからスカーレットを見た。

「どうして?」

「犯人は手紙でテツオのことを監視していたと言ったんでしょ?なら犯人の頭に私たちの存在もいるはずよ」

「確かにそうだが・・・・・・ならオレたちは犯人を探すことなんて出来ないじゃないか。

オレたちのことを見ればすぐさま犯人は逃げ出すのでは?」

「いや」

ロバートが首を横に振る。

「犯人はそれも全部承知の上で、奴の方から近付いてくるさ。ウィル、お前もよくわかってるだろう」


そこから車を走らせて駐車場に車を停車させると、五人は車から降り、ロバートが指示を出した。

「作戦通りに行く。何かあれば逐一報告すること。その上で、どうすればいいかはオレが決める。くれぐれも無理はするな。それが裏目に出る。分かったな?」

相変わらず偉そうにロバートは言う。

「オーケー」

デイジーが答え、二手に分かれて五人は歩き出した。


宮殿の前にロバートとデイジーは到着すると、隣の芝生でシートを敷いて、観光客を装った。

哲夫は先に着いて正面に立っている宮殿をじっと見据えていた。

他の三人は先に宮殿の中に入っている。

「ウィル、どうだ?」

ロバートがデイジーと話をしている振りをして、イヤホン越しにウィルに訊く。

「これといって怪しい人物はいない」

「分かった。そのまま宮殿内にいる人々を注視しておいてくれ」

哲夫は何気に腕時計を確認すると、丁度時計の針が13:00を指した。

哲夫は心を落ち着かせようと胸の辺りを押さえてゆっくり息を吸って、吐いてを繰り返すが心臓の鼓動の速さはそれと相反して増々速くなっていった。

その時、背中に何やら冷たい尖った物が当たった。哲夫は、ビクッとしつつも、ゆっくりと首だけを動かして振り返ろうとした。 

「動いちゃダメです」

すると、背後から日本語でそう言われた。

哲夫はウィルたちが分かるようにあえて英語を使い、

「松木か?」

と上ずった声で訊いた。

しかし、その男は哲夫の意図を察し、日本語で話し出す。

「その名は本名ではないと言ったでしょう。まあ、そう呼んでいただいても構いませんが」

哲夫は動揺を押し殺しながら、冷静になろうと懸命に努めた。

背中に当たっているものは恐らく拳銃だろう。

「どうする気だ?俺を殺すのか?」

すると、笑い声が聞こえる。

「違いますよ。私は、貴方と話をするために来たんです」

「その割には物騒なもの持ってんな」

皮肉交じりに哲夫が言うと、松木は哲夫をからかうかのようにおどけた返事をした。

「まあ、一応脅しは必要かなと思いましてねぇ」

そうして男は銃をしまった。

哲夫は銃が背中から離れたのを感じると、すぐに振り返って男と間合いを取った。

「松木・・・・・・」

テレビで見た写真と同じ顔をしている。直接会うことはできていなかったが、何度も何度も頭に焼き付けた顔。

その写真だけの男が今、自分の目の前に立っている。そう考えると、少し不思議な感じがした。

だが、今はそんな事はどうでもいいことである。

こいつが、エリカを殺し、自分をハワイへと誘ったのか。

一見優しそうに見える温和な表情。しかしその裏にはとてつもない恐ろしさを感じる。

が、哲夫は怯まない。恐怖を超えて松木に対する憎しみが哲夫の心をみなぎらせたからだ。眉間に皺が寄り、松木をじっと睨め付けた。しかし、松木は不敵な笑みを浮かべて哲夫を一瞥し、踵を返すと「話をしましょう」と言って勝手に歩き出した。

哲夫は無言でロバートに指示を仰いだ。するとGOサインが出たので哲夫も警戒しながら松

木の後を付いていく。

そのまま20分ほど歩くと、松木は大通りに出て海辺の防波堤で立ち止まった。

人通りは少なくない。

哲夫は、松木に悟られないように横目で後ろを見ると、ロバートの車が目立たないように駐車していた。

哲夫は松木と少し距離を取って後ろに構える。ナイフを出してくるかもしれなかったからだ。最も、銃を持っているから意味はないのだが。

しかし、松木はそんなものを気にすることなく、海原をじっと見つめていた。

その目は、どこか遠くの方を見ている。その顔に、哲夫はどこか懐かしさを感じた。

どこかで松木と会ったのか。何せ直接会ったのはこれが初めてだ。

そして、哲夫は話そうとしない松木に痺れを切らして「なぜエリカを殺した?」と単刀直入な質問を浴びせた。

しかし松木は動じることなく、少し間を開けてから答えた。

「私は常に無意味なことはしません。つまり恵梨香さんの死は必要なことだったのです」

「何に必要だったというんだ」

「私の未来に恵梨香さんは邪魔でした」

「何だと!」

哲夫は松木に掴みかかった。

ロバートがイヤホン越しに「止めろ!」と止めるが、無論哲夫は松木から手を離さない。が、松木は顔色一つ動かさず一点に哲夫を見つめている。

その表情は至って冷静だ。通り過ぎる人々が二人を不審そうに見ている。

しかし、警察に通報する気はないらしい。暫く二人を見つめてからやがて何事もなかったかのように歩き出した。しばらく睨み合いが続く。

やがて哲夫は松木の体を離した。

「恵梨香はまだ小学生だったんだぞ!恵梨香のどこがお前にとって邪魔な存在だったんだ!」

哲夫は激昂する。

「邪魔と言うか、実のところ、私は彼女を殺したくはありませんでした」

「どういうことだ?」

唐突なその言葉に哲夫は困惑した。

こいつと恵梨香にどんな関係があったというのだろう。

松木は意味深な表情を浮かべて哲夫を見た。

「今から言うことは非常に衝撃的な内容であり、また信じ難いことです。信じる信じないは貴方に任せますが、これを知った以上貴方はもう後戻りはできない。その覚悟はおありか?」

哲夫は松木の言っている覚悟と言うのが分からなかったが困惑しながらも頷く。すると

「ではイヤホンを私に下さい」

気づかれていたのか。

哲夫は唇を噛んだが、今はそんなことを言っていられない。

ここは素直に松木に従おう。そう思ってイヤホンを耳から外し、松木に投げた。松木は

片手でそれをキャッチすると、海に投げ捨てた。

幸いウィルたちは車から出てこない。イヤホンがもし気づかれた場合は哲夫の命に危険があると判断した場合にのみ助けに行く、とロバートが事前に伝えていたのだ。

「では、話すとしましょう。私が恵梨香さんを殺した理由は、彼女が私の母親だったからです」

「母親・・・・・・だと?」

「正確には私の母親になるはずの人でした」

「何を言い出すかと思えば。恵梨香は七歳だったんだぞ」

「ええ。ですからなるはずの人だと言ったはずです」

哲夫は疑念を抱いたが、松木が嘘をついているような顔には見えなかった。ロバートの助言があれば良かったがそれは出来ない。

哲夫は松木の話をとりあえず信じてみることにした。

「母親になるはずだったということは、お前は恵梨香の息子だということだな?しかしそれは将来の話だという。確かお前の年齢は二十九だよな?つまりお前は・・・・・・」

そこで哲夫は押し黙った。話していくうちに自分でも恐ろしくなったからだ。しかし松木が哲夫の言いかけた言葉を引き継いだ。

「未来から来ました」

「未来?」

哲夫の声が震えた。とてもじゃないが信じられない。しかしここで嘘をついて何になるというのだ。そんなデタラメを言ったとして松木にメリットは一切ないはずだ。

そもそも松木は至って真剣に見える。

「未来から、どうやって・・・・・・?」

「今から50年ほど後、タイムマシンが開発されます。いや、正確には時間の巻き戻しを出来る装置と言った方がいいでしょう」

「何の違いがある?」

「タイムマシンというのは基本的に時空を超える装置です。一方、時間を巻き戻すということはいわゆる逆再生。時空を超えることは不可能で、ただ時計の針を反対回しにするだけです」

「逆再生ということは早送りが可能なのか?」

松木の話に釣られて質問している自分を恥ずかしく思いながらも哲夫は訊いた。

「ええ。それは巻き戻しをする人たちの精神の状態で決まります。心が上手く巻き戻しに乗れなければ遅くなりますし、逆にリラックスしていれば早くなります」

「逆再生を実体験するのか?」

「はい。地球上の全ての生物が」

「どういうことだ」

哲夫は眉をひそめた。

「貴方も気づかない間に時間を巻き戻しているんですよ。でも、それは貴方の記憶にはない。なぜなら、特定のマスクを着けなければそれ以外の人々は時間を巻き戻している間、夢を見ていたような気分に陥り、記憶を失うからです。そして、また同じ人生を人々は歩む」

「つまりリセット?」

「そうです。私はこの時代に時間を巻き戻しましたが、本来、この時間に生きていなかった者がリセットをしてもその者は生きていないということになり、また時間が経ち、母親のお腹の中からやり直しになります」

しかし、哲夫にはどうにも引っかかる点があった。

「なら、お前はこの時に生まれていないんだからお前がここにいるのはおかしいだろ」

松木は良いところに気付いたというように感心した顔を浮かべた。

「仰る通りです。それこそが今回自分の母親になろう人を殺した動機なんです。基本的に時間の巻き戻しをする際には記憶だけが残ります。しかし、自分の巻き戻し前の体ごと時間を逆行させることも出来るのです。が、その方法が実用段階に入る前に装置を使ってしまったため、単純な逆行をする者と、体ごと逆行できた者たちに分かれた。なぜだか分かりますか?」

哲夫は首を横に振った。すると松木はその答えを見越していたように答えた。

「矛盾が発生するからです。自分の体ごと時を戻してしまえば、その時に産まれていなかった者がそこに存在することが出来る。しかし、その分、もう一人の自分が産み落とされることになるのです」

「自分が二人いるという矛盾、か」

松木は頷いた。

「だから恵梨香を殺したと?」

哲夫の顔は険しくなっていった。

「そういうことです」

そう言った瞬間、哲夫は頭に血が上り、拳を固めて松木の頬を思い切り殴った。

松木はその弾みで地面に倒れた。そして頬を押さえながら

「貴方は誤解をしている。」

と言った。すると哲夫は怒鳴り散らした。

「誤解だと!仮にお前の言っている話が事実だとしよう!そうするとお前は母親を殺したことになる!それが矛盾を引き起こさないためであったとしても、もっと他のやり方があったはずだ!そこに躊躇いはなかったのか!」

「ですからそれが貴方の誤解です」

「何!」

また哲夫は倒れている松木を引っ張り上げて殴ろうとした時

「母が私に自分を殺せと言ってきたんです!」

松木は叫んだ。哲夫の手は止まる。松木は哲夫の手を振り払うと弁解した。

「勿論母を殺さなければ矛盾は起きます。しかし、それはあまり問題にはならないと思っていた。だから私は母を殺そうとなどと思っていた。母は高齢出産だったせいで私がこの年になるころには残りの寿命はそう長くはありませんでした。そのせいで、私を育て上げるのに大分と苦労をした。父は借金取りから逃れるために蒸発してしまいましたから。そして私が時間を戻すと言った時、母は泣いて私に頼んだのです。自分を殺してくれと」

哲夫はショックで黙りこくった。自分の娘が、そんな将来を迎えると言うのか。あまりにも痛ましかった。

「勿論躊躇いましたよ。ですが、私を産んだせいで母に苦労をかけたと思うと、このまま楽にしてあげるのが親孝行だと思ったんです」

そう言って松木は俯いた。この男なりにけじめをつけたつもりなのだろう。しかし、哲夫はそれが許せなかった。

「だとしても、少なくとも今の恵梨香は幸せなはずだった。本当は今月、恵梨香のピアノの発表会があった。とても楽しみにしてたよ。その為にピアノを三カ月前から、朝から晩まで頑張って練習していたんだ。俺たちに良いところを見せたい一心でな。最も、あまりにも恵梨香が同じ曲ばかり弾くもので、飽き飽きもしていたが」

そう言って哲夫は笑みをこぼした。目頭が熱くなってる。

「そんな幸せな日々を送っていた恵梨香をお前は殺したんだ。未来の事など、今からでもどうにでもなる。お前がやったことは恵梨香の為でも何でもない。ただの自己満足に過ぎない」

「そうかもしれませんね」

意外にすんなりと松木は認めた。すると哲夫は松木の肩を揺すって頼んだ。

「ならもう一度時間をリセットして恵梨香を救い出してくれ!」

哲夫は期待に胸を躍らせた。時間の巻き戻しだとか細かいことはよくわからないが松木が嘘をついているようには見えない。つまり恵梨香が戻ってくるかもしれないのだ。

しかし松木は浮かない顔をしていた。

「それは出来ません」

哲夫の顔はまるで映画の最後でどんでん返しを食らったように強張った。

「なぜだ?」

「時間の巻き戻しには特定の装置が必要です。しかし、時間の巻き戻しは肉体を保つことはできても、物体を戻すことは現時点では不可能です。さらに、たとえ戻せたとしても、その装置は特別な電気を供給することによって動くので、現在の技術ではその装置が稼働することはありません。ですので、時間の巻き戻しは一回限りの片道切符なのです」

哲夫はがっくりと肩を落とした。

「未来で作られたから、特殊な機材が要る。だから今の時代では巻き戻しは無理だと?」

「少なくとも私が来た時代ではそうです。巻き戻しを単純化するために腕時計などに装置を組み込む研究が成されていましたがそれも私が来た未来からでも5年ほどはかかるでしょう。逆行装置の仕組みをもとにタイムマシンの開発もなされていましたがそれは全く先が見えないほど時間がかかることでしょう」

そう言いつつ松木は残念がっている素振りは微塵もなかった。

「そもそも恵梨香を助ける気はないってことか」

「まあ、そうですね。でも、時間をこの時代から巻き戻したいのは事実ですよ。その為に私はハワイへ来たんですから」

「ハワイへ研究に行くというのはこの時代から時間を巻き戻すためだったのか」

哲夫は合点がいった。すると、松木は立っているのがしんどくなったのか、しゃがみ込み、地面にある小石を集めだした。

「そうです。ハワイには私の協力者がいるので。そして貴方をここへ呼んだのもその為」

そう言って松木は集めた小石を一気に海に投げ捨てた。

「私がこの時代に来たのは、ある女性を殺めるため。しかし、少し時間を間違えたようだ。あの逆行装置は誤作動を起こしてしまったもんですから。それに正確な時間も分かりかねたので。彼女はまだ赤ん坊の状態ですからね。その女性は来るべき時が来なければ殺せないのでね」

「その女性とは誰なんだ」

「今は貴方に教えても、貴方には知らない名前ですよ。でも、時が経てばいずれ分かる時が来るでしょう」

「つまり未来で俺がその女性と出会うと?」

すると、松木ははぐらかした。

「どちらにせよ、今は貴方とその女性には何の関係もない。ですが、いずれは深い関係となる。そこで貴方が必要というわけですよ」

深い関係というのはつまりは男女の関係か、と哲夫は思った。しかし、今その女性が赤ん坊ということは自分とは三十歳以上、年が離れているではないか。

そんな不埒なことは流石に自分はしないだろう。

それに、自分はれっきとした愛妻家として近所にも知られており、まさか妻を裏切るようなことは自分はやるまい。

ならばどういう関係だと言うのだろう。すると松木が言った。

「その女性とは、貴方の息子さんの将来の奥さんです。」

哲夫はあまりにも予想だにしなかった回答に目を大きく見開いて、思わず後ずさりした。

「お、俺の息子の嫁?圭太か、それとも亮平?それに何で俺が必要だと言うんだ。もし

それが事実ならなおのこと俺がその女性をお前に殺させはしない」

松木は大きくため息をついた。

「貴方は何も分かっていらっしゃらない」

「さっきからお前は何が言いたい?」

哲夫は苛立つ。

「貴方の本当の敵は私ではない。むしろ彼女の方ですよ」

「俺は娘を殺した犯人を追ってここまで来たんだ。その女性は関係ない」

「いいえ、あります」

「なら説明しろ」

すると、松木はこれから未来で何が起こるのかを語りだした。

AIの進化によって職は失われ、多くの人が路頭に迷い、死んでいったこと。そして自分はそのAIの開発者側の人間であったことを哲夫に吐露した。

哲夫は眉をひそめてその話を聞いていた。最後に松木は言った。

「その女性こそがAIの開発者なのです。そしてその彼女の祖父が後に彼女にAIを作らせることになったきっかけを作った人物。つまりはその祖父も始末しなければいけません。私はAIの開発に携わってしまったことを心の底から悔いていました。人類の為に良かれと思ってやったことが、裏目に出てしまった。そして、自分にはその責任というものがあります。だから、暴動が起きたときにそのテログループのどさくさに紛れて一緒に時間を巻き戻したのです」

「すべては彼女を殺すためか?」

松木はうんともすんとも言わない。しかし、松木の表情を見て哲夫は答えを察した。

「しかし、別の方法だってあるはずだ。その女性を殺さなくとも、未来を変えることは出来るだろう」

「ええ、確かにそうです。方法はいくらでもあるでしょう」

「なら・・・・・・」

だが、松木は哲夫の言葉に被せるように言った。

「ですが彼女は殺さなければいけません。できれば派手に」

哲夫は顔をしかめた。恵梨香の事と言い、なぜこの男は殺すことに執着するのか。

それが哲夫には分からなかった。聞いていても、殺すことに必要性があるとは思えないのだ。

「派手にやってどうする?」

「見せつけるのです。人類を恐怖に陥れた者の死を人々に。しかし我々の使命はそこで終わりではない。我々は彼女を殺した後も、死ぬまで二度とあんな未来が起きないように、種は始末しなければいけません」

「何人巻き戻しをした人間がいる?」

「そうですね、テログループも私に協力してくれていますし、何十人もいることになりますね」

哲夫は発狂した。松木のほかにも大勢いるというのか。恐怖で哲夫は身震いした。

松木は付け加える。

「色々な職種の者が記憶だけ戻る方法を使ってこの時間へ戻ってきました。警察上層部にいた方が多いですがね」

「お前をハワイへ逃がしたのはそいつらか」

哲夫は呟くように言った。

「そうです」

哲夫は肩を震わせながら言った。

「狂ってる」

すると、松木は眉を吊り上げて反論した。

「狂ってるのは我々を含めた人類ですよ。技術に惑わされ、金に惑わされる。そして我々は自ら墓穴を掘り、破滅へと向かう。それが50年先の未来です」

「だからって殺していい人間なんていないだろう!」

「ならなぜ世界には死刑制度があるのですか?それは悪いことを仕出かした人間を罰するためです。私が彼女を殺すことと、警察、政府が死刑を実行させるのは同じことではないですか?」

松木は哲夫に反論させる余地を与えずに言った。

「形あるものはいずれ崩れる。私の時代では自由の女神がニューヨーク地震によって海面に沈みました。それをテレビで見たとき、私は、いや人々は、一時代の終焉を迎えたという気がした。だからそれと同じように、歴史あるものの崩落の瞬間とともに、別の未来へと進むために彼女は殺されるべきなのです。それを見届けることこそが、私の使命」

「他の人も巻き込むつもりか?」

「そうなるでしょう。愚かな人間は何人死んでも構わない」

「そんなことはない!全員が全員愚かな人間なわけがないだろう!」

「残念ながら未来がそれを物語っているんですよ。それに、貴方の言っていることは綺麗ごとにしか過ぎない」

松木の声は怒りで震えていた。

「貴方方はいつもそうだ!そうやって自分を正当化させ、さも自分が正しいと決め込む。その目には狭い世界しか見えていないのに。浅はかな考えしか持っていない。それを私が救う」

哲夫は、先ほどまでと違い、落ち着いている。この男への憎しみというのは消え失せ、

もはや哀れに思えてきたのだ。

そして、哲夫は諭すように言った。

「お前こそ、そうやって自分を正当化しているだけだ。人類の為だと銘打ち、結局のところ、お前は人を殺したいだけの猟奇的殺人犯としか言いようがない」

すると、松木は気に入らなかったと言わんばかりに哲夫を睨みつけた。

「どうやら貴方とは馬が合わないようだ」

「当然だ」

松木は心底残念そうな顔をした。哲夫を味方に付けたかったのだろう。

でなければ、こんな途方もない話を哲夫にすまい。

やがて松木は目の前に広がる大海原の地平線を見つめて嘆くように言った。

「貴方なら分かってくれるだろうと思っていた。少なくとも未来の貴方は」

哲夫は自分が重大なことを忘れていたのに気づいた。

恵梨香の息子ということは、彼は自分の孫なのだ。

「俺が未来でお前に協力していたのか?」

「協力していたも何も、貴方こそが私を過去へと戻るように私に促したのですよ」

「お、俺が?」

「貴方は自分の姑が世界を苦境に陥れたことを深く恥じていた。止めようと思えば止められたかもしれなかったから。だから年老いた貴方は私に当時の自分を味方につけて彼女を殺せと仰ったんです」

「そんなことが・・・・・・」

信じられない。その反面、自分の事が恐ろしくなってきた。少なからず自分はそういう道を辿るかもしれない。

しかし、ということは恵梨香が死んだのも、自分がこの男を逆行させたからということ。

考えただけでも恐ろしい。恐ろしさのあまり、吐き気を催した。

「そして貴方はこうも仰った。もし自分が協力を拒んだ場合、妻と息子たちを人質にとれと」

松木はスマホの画面を哲夫に見せた。哲夫はそれを見た瞬間に愕然とする。

そこには、赤ん坊を抱っこしている妻の姿と、その妻と手を繋いでいる長男の姿があった。

「どこでこんなものを」

「私の仲間が常に貴方の家族を監視しています。さあ貴方は何をすべきか分かりますね?」

哲夫は苦悶の表情を浮かべた。自分がこいつに協力しなければ、家族に危険が及ぶ。

それだけは絶対にあってはならないことなのだ。

しかし、未来の自分は、自分の家族さえも危険にさらしても構わないというのか。

哲夫は苦悩した。やがて声を震わせながら哲夫に言った。

「分かった。お前に協力しよう」

拳を強く握りしめ、悔しさに顔を歪ませた。すると松木は満足そうに笑った。

「大丈夫ですよ。きちんとやるべきことをやって頂けたら家族の安全は保障します。僕だって自分の祖父と叔父たちは殺したくはありませんから」

自分の母を殺したくせに何言ってる、と哲夫は言おうとしたが思いとどまった。

今は、この男が自分の家族の命運を握っているからだ。

「それで俺は何をするんだ」

「とても簡単なことです。貴方の仲間を殺してください」

「仲間?何の話だ」

「ウィル、ロバート、デイジー、トム、スカーレットさんですよ」

名前までバレていたとは。こちらの情報が筒抜けだった。

しかし、自分は誓ったのだ。彼らを決して危険にさらさないことを。それを破るわけにはいかない。

「できない」

「ほう」

松木は感心したようにわざとらしく大げさに驚いた顔をした。

「まあいいでしょう。迷うのは当然の事でしょうし。とにかく、私も研究に勤しんでいるので、貴方に何時間も構っている余裕はありません。そこで制限時間を用意しましょう。明後日の午後四時までに彼らを殺さなければ、その日から一日ごとに貴方のご家族一人を殺していきます」

そう言うと松木は哲夫に背を向けて歩き去った。

哲夫はそれを呆然と見て立ち尽くしていた。捕まえられるところにいるのに奴を捕まえられないもどかしさ。

ロバート達は松木の姿が見えなくなると、車を哲夫の正面に付けた。哲夫は重い足取りでドアを開け、後部座席に乗った。

「追うか?」

ロバートが一言そう訊くと、哲夫は浮かない顔で首を横に振った。

誰も異論を唱える者はいなかった。何かを悟ったのだろう。

哲夫はそれを有難く思いつつ、同時に苦しくもなった。

ロバートは黙って車を走らせる。

哲夫は車窓からの海辺の景色を窓にもたれかかりながら見つめていた。

その海原を優雅にかもめが飛んでいる。

その自由な様子を見て、哲夫はひどく羨ましく思った。

自分は本当に彼らを殺さないといけないのだろうか。

その迷いが今の哲夫の心を支配していた。



















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