スタート
亮平は家に帰ると、母がエプロン姿でご飯を台所で作っていた。
それを9歳になる妹が楽しそうに手伝っている。
「あ、お兄ちゃんお帰り」
妹が兄の帰宅に気付いて言った。妹は今、絶賛思春期中で、反抗期に入っている。妹と同い年の従妹から聞いた話だが、どうやら一つ上の彼氏がいるとか。
また、亮平の父は、亮平が物心つく前に亡くなっていた。父の記憶などは全くなく、亮平の頭にあるのは写真上にある父の姿だけだった。
死因は事故死らしい。しかし、何の事故に遭ったのかと母に訊いても詳しく教えてはくれなかった。
何度かインターネットで父の名前が出てこないか検索してみたりもしたが、父と同姓同名の歌手がいるせいで、父の情報は引き出せなかった。
「兄ちゃんは?」
もう一人の兄のことを亮平が訊く。
「まだ予備校に行ってる」
妹はまだ剥き終わっていないジャガイモ二個を残して台所を離れ、ソファに寝転がりながら言った。妹はテーブルに置いてあるリモコンを取ると、テレビをつけた。しかし、今頃の時間はどの局もニュースしかやっていない。
何回かチャンネルを変えると、妹はめぼしい番組を見つけられず、ネットフリックスの画面に切り替えると、「愛の不時着」というドラマを観だした。妹が今ドはまり中なのである。
が、亮平には理解できない。一話の冒頭部分だけ見たのだが、ストーリーもよく分からず、
パラシュートで飛んで行って北朝鮮に不時着というストーリーに嫌気がさしてしまったのだ。
「こら、千夏。早く手伝って」
母が怒ると、妹はぎりぎり亮平が聞こえる程度に舌打ちすると「はいはい」とめんどくさそうに返事して、台所に戻り、またピーラーでじゃがいものの皮をむき始めた。
亮平は自分の部屋に行き、着替えると、ちょうど、ご飯が出来上がったところだつた。
「お兄ちゃん、早く」
千夏が急かすと、亮平は、はいはい、と言って、テーブルに座った。
「いただきまーす」
亮平が手を合わせて言うと、千夏も不愛想にいただきますと小声で言った。
食卓には、これを3人で食べるのか、というぐらいのお膳が並べられている。
亮平は、箸を手に取り、白米をつまんだ。炊き立てであったかい。
久しぶりに、心から美味しいと思えるご飯を味わうことが出来た。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせ、お皿を台所に運ぶと、亮平は部屋に戻った。
今日、化学の宿題が出されたが、やる気にはなれない。第一、手をつけたとしても、ほとんど忘れていて、全く捗らない状態になることは明白である。
椅子にドカッ、と座り、ふんぞり返って腕組みをした。
しかし、すぐに何かを思いついたように、父から貰ったノートパソコンを手に取り、グーグルを開き、キーボードで何やらたたき始めた。
「清水寺 事件」
検索ボタンを緊張した面持ちでクリックすると、出てきたのは、清水寺をモチーフにした小説だけだった。
亮平は、分かっていたことではあったが、ため息をつき、再び椅子にもたれかかると、グーグルを閉じてしばらくパソコンのホーム画面をボーっと見ていた。
時計の針は、9時4分を示している。
次の日、亮平は朝六時に目覚ましの音で呼び起こされた。眠そうに目をこする。
そして、目覚ましを止め、二度寝しようとしたが、何かを思い出して慌ててベッドから
跳ね起きた。時計を見ると、
2020年 2月26日
そうか、昨日、過去に戻ったのか。
亮平は立ち上がり、洗面所で歯を磨く。まだ千夏は寝ていた。歯磨き中、兄がやってきて、
「おっはー」と声をかけてくる。亮平は、ああ、と軽く受け流した。
亮平が歯磨きを終えると、兄が交代で顔を洗い始める。亮平は部屋に戻り、制服に着替えた。
一年ぶりの登校である。校章をつける手がたどたどしい。
着替え終え、一階に下りると、リビングで母が朝ご飯を用意している。
母は、亮平にキッチンから言った。
「おはよう。亮平、お皿持って行って」
母は朝のフルーツにするつもりなのか、りんごを洗っている。
亮平は台所から皿を取って、食卓に並べていく。
皿の上には、目玉焼きが三つと、その上にケチャップが乗っていた。
すると、兄もリビングに入ってきて、亮平を手伝い始めた。
皿を四人分並べ、母が千夏を起こしに行く。寝室から、母の早く起きなさい!という
声と、千夏のいやだ!と駄々をこねている声が聞こえてくる。
佐藤家は母を除き、全員朝が苦手なのだ。健康的と言われる睡眠時間を例えとったとしても、やはり朝は眠いし機嫌が悪い。
その点、今日の亮平ははっきりと目を覚ますことが出来た。それは何といっても、時間を巻き戻したからなのだろう。ここが現実かそうでないのか、それを判断するために頭をフル活用させたため、亮平の頭は冴えていた。
恐らく今日に限るが。
しばらくして、千夏が拗ねた顔でリビングに無理やり連れてこられる。
「ほら、お兄ちゃんたち待ってるから」
母が促すと、千夏は不服そうな顔をしながら席に座り、両手を合わせて「いただきます」と言って、箸を手に取り、目玉焼きを食べ始めた。
「行ってきまーす」
亮平はそう言って家を出た。自転車に乗ると、立ちこぎで急いで駅に向かう。
特に電車に乗り遅れそうなわけではない。ただ、早く行きたかった。
ペダルを回してホイールを回転させる。
何人もの自転車をこいでいる人々を左側から抜かしていった。あまりに速いスピードに途中、ノロノロと自転車をこいでいた老人が左側から来た亮平に驚いてこけそうになっていた。
いつもならば、亮平は慌てて自転車を停めて老人に謝罪を入れるだろうが、今回は老人の方に詫びるどころか振り向きさえしない。亮平の意識はそこにはないかのようだった。
駅に着くと、亮平は駐輪場に自転車を停める。
一年この駐輪場は使っていなかったが、不思議と、どこに停めるかは覚えていた。
そして、駆け足で駅へ向かい、改札をくぐると、また胸がどきどきしてきた。
緊張して、お腹が痛くなってくる。が、トイレに行く時間もない。
亮平は必死に頭で別の事を考えようとした。例えば、心の中でもうすぐ活動休止を迎える嵐の歌を歌ったり。しかし、曲のワンフレーズ、下手をすればイントロの最中にやはり亮平は彼女の事を思い浮かべてしまった。そしてまたお腹が悲鳴を上げだす。
それを我慢している間に、電車が駅に到着する。
10分待っただけのはずが、一時間のように感じる。
アナウンスとともに、ドアが開き、亮平の視界が開ける。
亮平は三両目に乗った。すると、彼女が、悠衣が、眠そうに目をこすりながら、斜め前の席に座っていた。
悠衣は、亮平に気付くと、目をこする手を止め、
亮平に向かって手を振って「おはよう!」と元気よく言った。
亮平も、おはよー!と返して、彼女の隣の席に座った。亮平の腹痛はいつの間にか治っていた。
そして、電車はまた、動き出した。亮平は、彼女の顔を見て、
「大丈夫?めっちゃ眠そうだけど」と心配しながら訊いた。
「大丈夫大丈夫!テスト近いから徹夜しちゃっただけ」
「え、テストあんの?」
「うん。5日後に期末考査が」
彼女は怪訝そうな顔で亮平に言った。期末考査の日程ぐらい不登校でもしていなければ一週間前には誰でもわかっていることだろう。正確な日程が分かっていなくても、近々テストがあることは生徒からしては周知のことである。亮平の場合、説明のしようがないが。
「忘れてた」
「じゃあ、勉強してないの?」
「まったく」
亮平は苦笑した。だから化学の宿題があんなにも多かったのかと今更理解した。あれは一日分の宿題ではなく、テスト時に提出する宿題であったのだ。手を付けていなくて丁度良かったと亮平は安堵した。
「あのさ、テストの範囲表とか送ってくれない?持ってないんだよ」
「なくしちゃったの?」
「うん、まあそんな感じ」
「オッケー。じゃあ今日ラインで送るね」
「ありがと。それにしてもさ、今日の授業最悪じゃない?物理あるし」
「理系のオンパレードの水曜日だもんね」
「文系教科一切ないのはつらすぎる」
「徹夜しなきゃよかったなー」
「まあ、明日学校の創立記念日で休みだし、今日は家に帰ったらゆっくり休めばいいじゃん」
「そだね!でもそれまでの時間が・・・・・・」
そんなこんなと話しているうちに電車は次の駅に到着した。すると、
「橿原神宮西口でーす」
駅員のアナウンスが入ってくる。
電車は再び止まり、そしてまた前へ、動き出した。
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