逆行
亮平は、先ほどと同じ場所にいた。
何が起こったか理解できない。ただ、呆然と突っ立っている。
振り返り、下を見ると、車いすの老人が孫と談笑していた。
そして、佐々木に顔を向けた。
「今、何が?」
佐々木は答えず、ただ、思いつめたように亮平の顔を見ていた。
状況が整理できない。先ほど、確かにここから飛び降りたはずだ。
しかし、頭が地面に着こうとした瞬間、いつの間にか亮平の体は屋上に戻っていた。
「先生が何かやった?」
佐々木はなおも答えない。ただ、険しい顔をしている。その顔には、怒りと哀しみが入り混じっているようだった。
「先生?」
亮平が訊くと、佐々木はため息交じりに答えた。
「時間の巻き戻しよ」
「巻き戻し?え、つまり、タイムトラベルの一種?」
亮平は動揺を隠せない。
「違うわ。もっと複雑」
「どこが?」
「タイムスリップなら、あなたは過去に戻ったことになる。確かに、あなたは過去に戻った。でも、その時間軸にいるのは、あなた一人だけ。あなたの家族も、友達も地球規模で時間が逆方向に進んだの。この巻き戻しにパラドックスは存在しない。つまり、あなたの未来はこの時間にある。地球上のすべての生物の未来もね」
「ということは、全員が過去に逆戻りしたと?」
「ええ」
佐々木は至って冷静に見える。
「信じられない。それに、やっぱり意味が分からない」
「なら、例を言いましょう。あなたが知ってるタイムトラベル系の映画を言ってみて」
亮平は佐々木の言われるがまま思いつく限りの映画の名前を出した。
「ターミネーター、バックトゥザフューチャー、信長協奏曲、ハッピーデスデイ、アベンジャーズとか?」
「古い映画ばっかりね。まあいいわ。とにかく、それらは例外を除いて、過去に戻れば別の自分がいるでしょ?その過去の時間帯の別の自分が」
「そうだな」
「でも、この時間の巻き戻しはそうはならないということよ。テレビで逆再生というのがあったりするでしょ?それと一緒なの。自分たちが設定した時間までは、時間は勝手に自分たちが進んだ時と全く変わらずに逆流していく」
「やっぱりわかんねえよ」
佐々木は少しらだった顔を浮かべて言った。
「あなたが今体験したことも分からない?あなたは、さっき死のうと屋上から飛び降りた。でも、気づいたらあなたはここに戻っていた。それこそが、事実なのよ」
亮平は、困惑している。
意味が分からない。時間の巻き戻し?そんなことが可能なのか?
亮平は落ち着いて、話を整理しようとした。
佐々木の話によれば、過去の今、この時間の死のうとしていた佐藤亮平はいないということになる。確かにタイムスリップならそうはならないはずだ。
少なくとも、自分が知っているタイムスリップの理論というのは、もう一人の自分が
過去にいるということだった。どう違う?いや、違いなどどうでもいい。
とにかく、自分が過去に戻ったということが未だに信じられない。
佐々木は、そんな亮平の心情を見透かしたように言った。
「信じられないのは分かるわ。でも、受け止めてもらわなければいけない。それが、あなたの踏み入れてしまった未来なんだから」
亮平の頭の中に、何かが引っかかった。
「俺の未来?」
「ええ、あなたの未来」
亮平は、飛び降りる前の、佐々木のが言っていた意味深なこととつながり始めてきた。
しかし、ピースが埋まることはない。
「俺のこれからの未来に、何があると?」
「新しい世界よ。想像できないような」
なおも困惑している。疑問点が山ほどあって、何から訊けばいいのか全く分からない。
そもそも、何を訊くべきなのか。
「どうして俺の命を?」
「救ってくれたかって?」
亮平は頷いた。いくら、自分の受け持ちの医師だからといって、自分の命が消えるくらいで、このような恐らく重大であろう「時間の巻き戻し」を果たしてするだろうか。
「今は、あなたとは大きな共通点があるから、ということだけ言っておくわ。あなたが想像している以上のね」
共通点?
「どうして話せないんだよ」
「言うべき時じゃないからよ。でも、いつか分かる時が来る」
亮平は、それ以上踏み込んで訊こうとはしなかった。一つは、佐々木が、それ以上は訊くな、というオーラを前面に出しているからである。
「最初から、僕を救いに医者として近づいた?」
佐々木は頷く。
「ええ、あなたのことは、ずっと前から知ってる」
「ずっと前から?」
「そう。本当は、彼女の葬式の時に、あなたに接触しようとした。でも、あなたはあの日、葬式に来なかった。それから、あなたが引きこもりになったせいであなたに接触するチャンスがなかったの」
亮平は、ただじっと、話を聞いていた。佐々木が続ける。
「私は、あなたの自殺する運命を変えたかった。葬式の時に接触しようと思ったのも時間を巻き戻すためではなく、あなたを立ち直らせるためだった。でも、叶わず、それから一年後、今のあなたを見て危機感を感じた。だから、カウンセリングとしてあなたに向き合うことによって、その運命を止められると思った。でも、それは無駄だった。もしかしたら、私が火に油を注いだのかもしれないわね」
佐々木はため息をついた。しかし、亮平は言った。
「どちらにせよ、どれだけ時間を巻き戻したところで、俺は同じ道をたどる。俺が死ぬ運命は、変えられない」
そう言いながら、亮平の顔は、またアスファルトへ向いた。
「彼女の運命を変えられる可能性があっても?」
亮平は、振り返る。思わず、声が裏返ってしまった。
「そ、そんなことができるのか?」
「さっきあなたが実体験した通りよ。時間を、また一年以上前に遡らせるだけ」
「なら、彼女は生き返られる?」
佐々木は首を横に振った。
「保証はない。必ずしも、彼女が生き返られるとは限らないわ。確率は五分五分と言ったところかしら。もっと悲惨な結果になるかもしれない」
亮平は唾をごくりと飲みこんだ。
しばらくの沈黙が流れる。答えを出すためか、それとも状況を飲み込むための間なのか。
しかし、亮平の中で、答えはもう決まっている。柵をよじ登って、屋上に戻った。
「彼女を救いたい」
佐々木は、亮平の答えを分かっていたというように言った。
「そう言うと思ったわ。でも、過去に戻る前に、あなたの覚悟を聞いておきたい。今、あなたにしたように、あなた一人の未来を変えることは、比較的、問題はないことなの。巻き込まれる人たちも少ないしね。それに、時間の10数秒の逆転は、時間軸にそれほどの影響は及ぼさない。しかし、一年以上前に私たちが戻ることによって、時間軸にズレが生じ、多くの人の人生に介入を及ぼす危険性がある。そうなれば、あなたはその元凶として、時間軸から離れてしまう」
「離れたらどうなる?」
亮平が訊いた。
「分からない。無の空間に投げ出されるという説もあるし、死んでしまうという説もある。どうなるかは、なってみないと分からないわ」
なんとなく、流れは掴むことができた。だが、時間軸というワードが出てきて始めてから、亮平は混乱しだした。
「もうちょい簡単に言ってもらえない?」
「まあそうね。急に時間逆行の原理を言われてもわからないでしょうね。簡潔に言えば、私が言いたいのは、彼女一人の命しか救ってはダメだということよ」
「ほかの人の命は救えない?」
「ええ」
亮平は、彼女を救えるかもしれないという喜びとともに、複雑な心境に陥った。
彼女を救って、他の人の命を救うというのは、確かに虫の良すぎた話なのかもしれない。
だが、亮平は、自分と同じ境遇に立たされた人たちの事を考えてしまった。
あの日、大切な人を失った人は亮平だけではない。
彼らの運命は、何も変えられることはないのか。
そんな虚しさと同時に、でも彼女は救える、という希望が心を侵食しかけてしまっている。つくづく自分勝手な男だと自分でも思う。
でも、彼女との時間を取り戻せるというのなら、何を犠牲にしても・・・・・・
「覚悟はある。俺を、過去に戻らせてくれ」
すると、佐々木はため息をついた。
「わかったわ。なら、私も覚悟を決めるしかないわね。私たちが過去に戻るのは、一年前、清水寺の事件の三カ月前でいい?」
亮平は大きく頷いた。
「いい?チャンスは2回だけ。それ以上はできない」
亮平は、含み笑いを漏らした。
「十分だ」
そんな亮平は佐々木が不安そうに見つめる。やがて佐々木は視線を逸らすと、説明を始めた。
「時間逆行のルールは3つある。
1. 対象の人物と、因果関係を持つ者以外の未来は変えてはいけない。
2. この秘密を絶対に誰かに口外してはならない。
3. 逆行を始めた日まで時間が前に進むまでは、極力自分の過去の出来事を大幅に変えないこと。
これが大前提。その他の詳しいことは、逆行してからの方が効率がいいわ。もう一度訊いておく。覚悟はあるのね?」
「なければもう死んでる」
佐々木は目を細め、まるで睨み据えるように、佐々木の瞳は亮平の瞳を捉えた。
佐々木の瞳には、どこか迷いが見えるような気がする。亮平は佐々木を見据えながら思った。だが、なぜ迷ってるかもわからないし、佐々木の目的も教えてみらえず、もどかしさを感じた。
すると佐々木は、下に置いていたバッグから、黒いヘルメットのようなものを取り出し、
亮平に投げ渡した。
「これを着けて」
亮平は、投げ渡されたものを慌ててキャッチした。
「これは?」
亮平が訊いた。
「対逆行用マスクよ。逆行中、他の人たちは意識を失い、時間の流れが再び前に進み始めたときには、この一年間の出来事は夢だと錯覚する。でも、これを着けることによって、意識は失わなくて済むの」
「でも、さっき俺が死のうとしたときはマスクを着けなくても逆行できたじゃないか」
「ええ。だからあなたは時間が巻き戻った記憶がないでしょ?飛び降り、地面に頭が付く寸前、意識を失い、気が付けば屋上にいた」
亮平は頷いたが、まだ疑問は消えない。
「けどさ、俺が飛び降りる前に下には老人たちがいたんだぞ。そして、老人たちが去ると、俺は飛び降り、時間が戻ったとする。その時、時間が巻き戻された後に下を見ると老人たちがいた。ということは、俺は飛び降りる前に戻ったということだ。でも、先生の話だと、時間を巻き戻すのに設定した時間から、時間を巻き戻した時間の間の記憶がなくなるんだよな。それなら、俺が飛び降りた記憶はないはずだ」
我ながら、冷静さが欠けている今の自分にしては中々良い推理だと思う。佐々木は答えた。
「短い時間の逆行はそういうことがよく起こるわ。それに、さっきも言ったけど、1分ほどもない巻き戻しならば比較的問題ないの。時間逆行の回数は制限があるけど、さっきのはその一回に入らない」
「つまり、軽めの巻き戻しなら何度でも出来ると?」
「何度でもというのは語弊があるわね。時間逆行に制限回数があるのは身体的な影響を考慮したうえでのこと。だから、例え軽めであったとしても、何度もやっては一回分の逆行になってしまうわ」
「なるほど、そうか」
亮平は、感慨深そうにマスクを回してみていたが、やがて頭の上から被った。
佐々木は、最後に付け加えた。
「一年前に私たちがいた場所に私たちは戻ることになる。逆行時に、めまいや吐き気、喉が詰まることがあるけど、こらえて」
そう言って、佐々木もマスクを着ける。亮平もマスク越しに頷いた。
「なら、始めるわよ」
すると、突然佐々木は亮平の腕をつかみ、亮平の腕時計を取り外した。
亮平は驚き、腕時計を取り返そうと手を伸ばした。
「何すんだよ」
「黙ってて」
佐々木は、時計の針をいじくり始め、やがて、亮平に返した。
亮平は、不信感を募らせながら、時計をまた腕にはめると、「どういうことだよ」と言おうとしたが、急にろれつが回らなくなった。目までもがくらくらしてくる。
すると、体に衝撃が走り、亮平の体は、テレビでよく見る逆再生のように、屋上のドアに吸い寄せられ、勝手に体が階段を下っていく。
何度もバランスを崩したが、階段から落ちることはない。
亮平は、混乱して、必死に動く足を止めようとする。しかし、足が止まることはない。
だが、階段を降りるスピードが徐々に遅くなっていく。もはや身体の自由はきかなかった。
そして、先ほどまでの診察室に亮平の体は戻り、正面をみると、目がかすんでいたが、
ぼんやりと黒いマスクを被った佐々木が座っていた。
亮平は話しかけようとしたが、言葉が詰まって、うまく口から出てこない。
すると佐々木の声がぼんやりと聞こえてきた。
「流れに身を任せて。心の動きで逆行のスピードは変わってくる」
亮平は何か質問しようとしたが、またしても言葉が出てこない。
その間に、亮平の体は、診察室を離れ、エレベーターで降りていく。
ドアが開き、亮平は病院を抜けた。息を吐いて、亮平は何とか心を落ち着かせようとする。体を楽にすると、だんだんと、周りの景色が見渡せるようになった。
首は動かなかったが、目線を横に回すと、他の人々も、車も、そして飛行機も逆向きに飛んでいた。子供が落としたアイスも再び子供の手に戻っている。
亮平の体が、家まで戻り、何とか目線を動かして時計を見ると、日付が前日に変わっている。秒針は右向きに回っていた。
何とも奇妙な光景である。亮平の体はしばらく、ベッドであおむけになっていた。
やがて、心も、体も、落ち着いてきた。
すると、先ほどまでもより何十倍も速いスピードで時間が戻り始めた。
一分ごとに日付が変わっていく。日付は6月くらいになっただろうか。
亮平は目まいを起こし始め、意識が遠のいていった。
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