運命
一週間後、亮平は、病院の受付前のソファに腰かけている。
これから、カウンセリングが始まる。亮平は、険しい目をして、どこか落ち着きのないような感じで何度も立ったり、座ったりを繰り返している。すると、アナウンスが聞こえてきた。
「佐藤亮平さん。診察室へ来てください」
看護師の声が聞こえる。亮平は、ゆっくりと立ち上がり、重い足取りで、病棟を歩き、
ノックして、入っていった。
「こんにちは」
亮平が挨拶すると、佐々木も会釈した。
今日の佐々木は、真っ白な白衣を着て、髪は一つくくりで結ばれていた。そんなどうでもいいことを亮平は考えつつ、意識は佐々木ではなく、別の方に向いていた。
「調子はどう?」
いつもの通り、佐々木が訊いてきた。だが、亮平はいつも通りの返事はしなかった。
「良い感じ」と答える。
その顔には、先ほどまでの険しい目つきとは違い、何か障害が取れたような、そして哀しげな微笑を漂わせている。
佐々木は、そんな亮平の真意を探るかのように訊いた。
「そう。何か良いことでもあった?」
「いや。ただ、やっと自分が思う方向に進んでいけると思ったんだ。今までずっと悩んできたけど、それが楽になった」
亮平がそう言うと、佐々木は「まあ、そのことについてはゆっくり今日は聞かせてもらいましょ。とりあえず、座って」と、椅子に座るように促した。
しかし、亮平は座ろうとはしなかった。それを見て佐々木は困惑する。
「いえ、もうカウンセリングは大丈夫。今までお世話になりました。先生にはお礼を言いたかったんだ」
亮平は、深々とお辞儀をした。佐々木は、ただじっと亮平の顔を無言で見つめている。
数秒間、亮平は頭を下げると、頭を上げ、「さようなら」と言って、ドアを開けて立ち去ろうとした。
しかし、ドアに手をかけようとした瞬間、佐々木が立ち上がって亮平を呼び止めた。
「亮平君」
亮平は、ドアノブにかけようとした手を止めた。
「自由に生きてね。あなたの思うがままに。運命に支配されずに、逆らって」
亮平は振り返り、微笑んだ。
「ああ」
亮平は部屋を出て行った。そして、亮平は、しばらくドアの前で立ち尽くしていた。
やがて何かを決心したように、亮平は、歩き出し、その足で病院の階段を上り始めた。
4階、5階、6階、階数のテンプレートを見ながら、亮平は手すりに手をついて、ゆっくりと上っていく。先ほどまでの笑顔は消え、表情は凍り付いていた。
しかし、どこか動きは軽やかになっている。
亮平は、立ち入り禁止のテープが貼られてあるところをくぐり抜け、さらに階段を上る。
そして、上り終えると、ドアを開け、亮平は屋上に着いた。一般に屋上が解放されるのは、休日だけで、それ以外は、立ち入り禁止となっており、人は誰もいない。しかし、タオルなどが多数、乾燥のために干されている。
亮平は、辺りを見回して、ゆっくりと歩いていき、柵に手を付き、屋上から見える景色を
見渡した。下を見ると、車いすに乗っている老人が、孫らしき子供と談笑している。
そんな光景を亮平は微笑ましく見ていた。やがて、子供が老人の車いすを押し、立ち去った。下には、もう誰もいない。しばらく、車の音や、病院の外で大音量で音楽を鳴らしている若者を見ていた。
そして、意を決したように屋上の柵に手をかけようとしたとき、背後から声が聞こえた。
「やっぱりここにいたのね」
亮平が振り返ると、白衣を着た女性が立っていた。
「佐々木先生」
佐々木は、白衣のポケットに手を突っ込んで、無言で亮平を見ていた。
「どうしてここに?」
訊くまではなかったが。
「医者をやってれば、あなたのように自殺をしようとしている人たちは顔でわかる。あなたなんか特に分かりやすいわ」
亮平は、わざと、驚いたように言った。
「自殺?まさか。屋上からの景色を見ていただけだよ」
佐々木は、そんな亮平を見ながら、ゆっくりと近づいていった。
「それならば、早く行きましょう。ここは、立ち入り禁止なんだから」
「ええ。先に行っておいてください。すぐに、追いつきます」
亮平は、佐々木に帰るように促した。佐々木は、苦笑した。
「そんな見え透いたウソが通じると本気で思ってんの?正直に言って」
すると、亮平はため息をついて、言った。
「先生の言う通りだよ」
「それがあなたが決めた未来なの?」
一気に詰め寄る。
「これが俺の選択だ」
「答えを出すのはまだ早いわ」
「早い?1年もこの状態で過ごしてきたんだぞ。もう耐えられない!」
佐々木は、今まで見たこともないような険しい表情で、しかし落ち着いた声色で
「だから大麻を吸ったの?」と訊いた。
亮平の表情は一気に強張る。
「知ってたの?」
佐々木は、地面に置いていたバッグから透明なポリ袋を取り出し、亮平に見せた。
そこには、注射針など、松崎から貰っていたモノが入っていた。
「先生が盗ったのか!」
亮平は指をさして叫んだ。
「先週のあなたを見て、すぐにわかったわ。明らかに様子が変だった。だから、あなたが病院で診察を受けている間にあなたの部屋に行って、調べたの。そしたら、案の定、こんなものが見つかった」
亮平の怒りは爆発し、激怒して「返せ!」と叫んだ。
「返せ?亮平君、分かってるの?これは犯罪よ。」
佐々木は初めて亮平の前で感情を露わにして怒った。佐々木の目はきっ、となり、静かに睨みつけている。
「なんで大麻なんか吸ったの?」
「苦しみを紛らわせる唯一の方法だからだよ。これを吸えば、すべての事が面白いんだ。
どんなことも。自分が彼女を救えなかったことも可笑しく思えてくる。そして、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来た!これは最高だったよ!」
亮平は笑いながら言った。
すると、佐々木は無言で亮平を睨みつけた。そんな佐々木を見て亮平は真顔に戻った。
「でも、まあいいよ。結局、それは一時的な快楽でしかなかった。最後には苦しみが待っている。それに気づくことが出来た。だから、俺は死ぬ。先生、警察に通報しないでくれてありがとう」
佐々木はポリ袋をカバンに戻して、徐々に亮平に近づきながら諭すように言った。
「あなたが、ここから飛び降りれば、取り返しのつかないことになる。あなたの未来には、途方もないことが起きることになるわ。だからやめた方が良い」
「死後の世界の話?」
「そうかもしれない。もしかしたら・・・・・・」
亮平には、佐々木が何を言っているか分からない。
「でも、これだけは言える。あなたがここから飛び降りた瞬間、あなたは・・・・・・」
「俺は?」と問い返す。
「もっと大変な重荷を背負うことになる。今のとは比にならないくらいの」
亮平には、佐々木が訳の分からないことを言い出しているようにしか聞こえなかった。
おかげで、自殺する心構えが消えてしまったではないか。しかし、亮平の意思は、まっすぐに下を向いている。
「俺は彼女なしでは生きられない。彼女がいない人生は、俺には考えられないんだ。それを、彼女を失って初めて、分かった。あの時の後悔、あの時の哀しみは、自分がこの世にいる限り、一生消えることはない。それが、俺の運命だ。逆らえることのない」
佐々木は、何も言わない。
「さよなら、佐々木先生」
そう言うと、亮平は、佐々木が止める間もなく、柵をよじ登り、空を見上げて、後ろ向きに屋上からアスファルトへ真っ逆さまに落ちて行った。
随分、地面までの距離が長く感じる。
「悠衣。そろそろ俺もそっちに行くよ」
呟くと、亮平の後頭部はアスファルトへ4,50mの衝撃と一緒についた、はずだった。
そのとき、時間は逆行をし始めた。
それは、運命をあざ笑うかのように、急速に。
亮平の体は、一瞬で屋上に吸い寄せられるかのように、上がっていった。
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