一年後
一年後
亮平は病院にいた。今日は心理カウンセリングを受ける日なのである。
清水寺の事件の後、史上最大のテロ事件にも関わらず、犯人たちは未だ捕まっていなかった。手掛かりはほとんどなく、唯一残ったのが防犯カメラに映っていた爆弾を設置しているフードを被った男とヘルメットを被った、彼女を撃った不審者だけだった。
犯人たちはその後、大勢の逃げ惑う観光客の中に消え、消息は不明。
まさに闇に包まれた未解決事件となった。
警察は日本の威信にかけて何千人もの捜査員を導入し、必死に犯人を追った。今もなお、捜査を続けているが、これといった進展はない。
あの事件の後、亮平は家に引きこもり、ただぼっーとしているような毎日を過ごしていた。学校は親の大反対を押し切って、辞めてしまい、学歴は中卒になっている。
また、完全に心を閉ざしてしまい、仲の良かった友達とも、あの事件以来、会っていない。何度か友達が家に訪れてくれたこともあったが、亮平は会おうとはせず、自分の部屋に鍵をかけ、友達がドア越しから声をかけても、返事はしなかった。
そして、いつしか家族とも距離ができ、食事こそ、最近一緒に食べるようになったが、それ以外は、口も利かず、顔を合わせることもない。
また、亮平は一年以上、家の外から出ていなかった。そのことで、せめて気分転換に、と両親や兄は、幾度となく亮平を外に出そうとしたが、うまくはいかなかった。
何度か怒鳴ったこともあったが、亮平は返事さえせず、次第に家族も無駄だと思い始め、これ以上外に出ようと勧めなくなった。
だが、母が亮平に泣きながら懇願して、ようやく週に一回のカウンセリングにはいくようになったのだ。とはいっても、全く医師と話しをすることもなく、何も喋ることはなかった。
多くのカウンセラーが音を上げたが、佐々木という若い20代前半だと思われる女性医師だけは親身になって応じた。
亮平は看護師に呼ばれると、ゆっくりと立ち上がり、診察室へ入っていった。
「亮平君、こんにちは」
ドアを開けると、若い白衣を着た女性が座っている。亮平は軽く会釈をした。
正直言って、彼女は、亮平のタイプの顔だった。1年前なら、惚れてしまっていたかもしれない。亮平が、何となくこの女性に気を許し始めているのは、それもあるだろう。それに、彼女とはどこかで会ったような気がする。そのどこかというのは思い出せなかったが、なぜか彼女の顔を見ると、自分にとって大切である誰かのシルエットが頭に浮かぶ。
「調子はどう?」
「いつもと変わらない」
亮平は素っ気なく返事をする。
「そう。普通が一番、何よりです」
佐々木がほほ笑むと、亮平も作り笑いを浮かべた。
「最近、肌寒いわよねー。もう9月も終わりだし」
亮平はええ、と言って、軽く受け流した。
すると、佐々木は赤いノートを取り出した。
「最近、何か良いことは?」
佐々木はノートに何やら書き始めた。
「ない」
亮平が答えると、佐々木はペンを動かすのを止め、亮平を見上げる。
「そう、それもいつも通りね。座って」
そう佐々木は促すと、亮平は椅子に座った。そしてぶっきらぼうな態度を見せ、
「毎週、毎週、同じ質問をされる。でも何の意味が?調子はどう?何か良いことは?でも結果は変わらない。良いわけがないだろう」
佐々木は亮平の顔をまじまじと見つめて言った。
「確かにそうね。でも、先週とはまた違う景色が見えてくるかもしれないじゃない。
前に進むきっかけというのはいつ来るかわからないし。それに私は医者よ。医者なら、よくなることを願うのは当たり前じゃなくて?」
亮平はため息をついて、
「そんなものは来ないよ。あの日、俺はすべてを失った。もはや生きてる意味すらないんだよ」
「でもあなたは生きている」
亮平は痛いところを突かれたように、俯いた。佐々木は続ける。
「それはあなたにまだ生きる意志があるということよ。だからこの一年間、あなたは
自分を責めながらも、生きてきた。それがあなたの答え。あなたの生きる意志。今のあなたは現実から逃げているだけ。何の人生の価値も見出さずにね」
亮平は静かに佐々木の話に耳を傾けていた。
しばらく沈黙が流れ、やがて亮平が口を開いた。
「あの日の事は、遠い昔の事のように思える。10年以上前の事の様に。10年以上前だったら俺は小学生なんだけどな。日に日にあの日の記憶も薄れてくる。ただ、彼女を死なせてしまったという後悔だけが頭から離れない。過去を悔いたところで結果は変わらないということぐらいわかってる。でも、後悔とそれ以上に、彼女がいない世界というのが考えられない。ここは地獄だ」
佐々木は亮平の話を相槌を打つこともなく、ただずっと聞いていた。
はじめて自分から事件の事について話り始めたのだ。それだけでも今の亮平にとって大きな進歩と言っていい。
「亮平君。地獄かどうかは、まだ分からないんじゃない?これからどんなに苦しいことが起きるか分からない。その度に、君は地獄だ、と言って、苦しいことから逃げるの?不幸なことは、起きるのは簡単。でも乗り越えるのはとても難しいもの。でも、死んだからって、死後の世界が、天国とは限らない。もっと苦しいことが待っている可能性だってある。彼女は、別の世界に行ってしまった。それも思わぬ形でね。だからこそ、あなたは、彼女の足跡を追うんじゃなくて、彼女が残した足跡を拾ってあげるべきだと私は思う。それが彼女の願いだと思うわ」
返事はしなかった。だが、亮平が今、真剣に過去の自分と向き合っていることを
佐々木は感じ取っていた。
「彼女は、いつも笑顔で俺と接してくれた。彼女が怒っているところなんて見たことがない。それと同様に涙を流していることも一度たりとも見たことがない。彼女は強かった。もし、俺と彼女の立場が逆になっていたら、彼女は今頃、とっくに俺の事なんか忘れて、別の男とデートしていただろう。でも、俺にはできない。俺は彼女のことを忘れることなんてできない」
「彼女の事を愛していた?」
「とてつもなく」
佐々木は、透き通った温かい微笑をした。そこにはどこか哀しげな表情と、懐かしさ
を感じた。
「このことはあまり人に話したことはないけど、私も昔、大切な人を失ったの。その人は、私の事をとても愛してくれていた。でも、ある日、急に彼は私に冷たくなったの。喋りかけても適当にあしらわれるだけ。それから彼とは疎遠になった。その時は、ただ私の事が嫌いになったんだと思った。彼が私を守るために、わざと私に近づかなかったと知ったのは、ずっと後の事。あの時、私がもっと強ければ、彼を失わずに済んだのかもしれない。彼は、私の事を、完璧な女性だといった。だから自分を失ったあとも、乗り越えて前に進めると思っていたそう。でも、私はそんな女じゃない。完璧でもなんでもなかった。だから亮平君、あなたも彼女がもしあなたの立場に回っていたら、あなたのことを忘れるだなんて思わないで。彼女はあなたの思っている以上に、あなたを想っていたと思うわ。私が保証する」
亮平は自分自身を納得させるために頷いた。
「そうであることを願います。先生もその彼の事を?」
「ええ、今でも愛してる」
そう言って、佐々木は微笑むと、亮平も哀しげな顔で笑った。
だが、亮平は少しだけ迷いが消えたような、そんな顔をしている。
「こうやって話してわかることもあるものでしょ?あなたは私の事を美人でモテモテのお姉さんだとしか思ってなかったんじゃない?」
亮平は苦笑しながら、少しばつが悪そうな顔をした。佐々木のことを舐めていたのは確かだ。
「いい?亮平君。どんなに時間がかかってもいい。でも、あなたは彼女の分までもしっかり生きてほしい」
亮平の顔は険しくなった。返事はしない。まだ完全に納得は出来なかったからだ。それほど、この一年、自分が背負ってきたものというのはとてもつなく大きい。
佐々木も承知していたのか、返答を促すこともなく、黒い年季の入った腕時計を見て言った。
「今日はこれでおしまいでいいわよ。お疲れ様。また来週ね」
亮平は、重々しく立ち上がり、リュックを背負うと、お辞儀をした。佐々木は、手を振って、亮平を見送った。
病院からの帰り道、亮平はずっと佐々木の言葉について考えていた。
自分の今していることは本当に彼女の為を想っての事なのだろうか。もしかしたら、独りよがりなのかもしれない。そのとき、亮平は懐かしい男と不意に出くわした。その男は、亮平に気付き、近寄ってくる。亮平は前からその男が近づいてくるのに気付いたが、気づかないふりをして歩き去ろうとする。しかし、男は亮平の肩を掴み、「久しぶり」と笑った。
亮平は、知らぬふりをしようと思ったが、やがて作り笑いを浮かべて、「おお、松崎。久しぶり。」と言った。
松崎は制服を着ている。学校の帰り道なのだろう。そういえばこいつの家はこの辺りであるということを思いだした。亮平は少し懐かしさを覚えたが、すぐにこの場から立ち去りたかった。かつての同級生に、今の自分の姿を見られたくなかったのだ。
それに、在学当時からこの男の事は好きではなかった。だが、松崎はそんなことはつゆ知らず、「元気してたか」と訊いてきた。
亮平は元気なわけがないだろう、と言いたいのを堪えて、「さあな。」とはぐらかした。
松崎は制カバンを肩に下げ、丁度目の前に見えていた公園を指さして言った。
「ちょっと話そうぜ」
亮平は躊躇ったが、半ば強引に松崎に腕を引っ張られて連れていかれた。
公園には、滑り台とブランコが置いてあるだけで、学校帰りの小学生がランドセルを
ベンチの上に置いて、鬼ごっこをしているのか、走り回っている。
そんな子供たちにぶつからないように避けながら、空いているベンチに二人は腰かけた。すると松崎は「まだ立ち直れないのか?」と単刀直入な質問を浴びせてきた。松崎はこう
いう男である。
いつも回りくどい言い方を嫌い、すぐに本題から入ろうとする。そういう松崎の性格が
亮平は苦手だった。人の感情を気にすることなく、平気で人の痛いところを突いてくる。
中学生の頃、いじめられた集団を率いていたのは松崎だった。
やはり、自分はこの男を好きになれない。そう思いつつも、「まあな」と答えた。
すると松崎がわざとらしくため息をついた。
「皆お前の事を心配してたんだぞ。学校まで辞めて」
亮平は何も返さない。生理的にこの男を受け付けないのだ。
亮平はこの場から早く離れたいとすがる思いだった。松崎はさらに言う。
「確かに永野はかわいかったし、良い女だったよ。でも、もう死んじまったじゃねえか。
永野への愛は分かったからさ、でも永野より良い女なんてこの世に何人もいるんだぜ?
もっと良い女をこれから探せばいいだけだろう」
松崎の話を聞いていくうちに、段々と亮平も怒りが込み上げてきた。このクズ男を一発殴りたいと心の底から思ったが、何とかそれは抑え「じゃあな」と言って勢いよくベンチから立ち上がり、立ち去ろうと松崎に背を向け、歩き出した。
それを松崎が慌てて呼び止めた。
「おいおい。待てよ。気に障ったんなら謝る。実は、お前に渡したいものがあるんだ。
その為にお前に会えるように張ってた」
亮平は足を止める。自分を張ってた?今日あったのは偶然じゃないのか。何のために?
急な展開に困惑しつつも、冷静を装って振り返らずに
「渡したいものって?」と訊いた。
松崎は、その亮平の反応に喜び、急いでカバンから袋を取り出し、亮平の手を掴んでそれを持たせた。亮平は怪訝な顔をする。
「これは?」
「心が落ち着く薬だ。お前の為に用意した。中に簡単な説明書きが書いてある。上手に使えよ」
そう言って松崎はカバンを持ち、逃げるようにして去っていった。
その後ろ姿を亮平はしばらく見つめ、やがて白い袋を開けた。何かよからぬものが入っているような嫌な予感がする。
中を覗き込むと、亮平は驚愕の色を浮かべた。そして、周りを気にしながら慌ててそれをポケットにしまい、もう見えなくなった松崎の影を追った。
亮平は家に帰り、ベッドに寝転がり、宙を見つめていた。
いつもは、母に電話をして、病院まで迎えに来てもらっていたが、今日は歩いて帰ってきたので母は亮平を珍しく見たが、何も言わず、ただ「カウンセリングはどうだった?」といつもの通り訊いてくる。
亮平は「ああ。」とはぐらかした。それ以上は母も訊かない。それがいつも通りだった。
松崎から貰ったモノについては、ベッドの下に隠しておいた。親や兄たちにバレることはないだろう。
亮平は寝転がりながら、しばらく考え事をしていた。
今日の佐々木とのカウンセリングが頭をよぎっていた。
そのとき、亮平は何気に腕時計で時間を見ると、何かを思い出したように、荒々しく
立ち上がり、机の引き出しを開け始めた。引き出しの中身をあさりだし、無造作に入れられていた学校の教科書類や、退学前に送られてきた課題のプリントなどをかきわけ、やがて小さな白い袋を取り出した。赤色の丸いシールが貼られており、for you と英語で書かれている。そして、袋の隣にあった赤いアルバムを取り出すと、中身を開いた。亮平は、アルバムのページをぺらぺらとめくりだし、その中の写真を見ながら、やがて涙を流した。
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