清水寺の惨事
京都駅に着いた二人は、彼女のスマホでマップを見ながら、清水寺に行こうとしていた。
亮平のスマホはWi-Fiがなければ使えないので、彼女に頼るしかなかったのだ。
そんな自分の頼りなさを腹立たしく思いながらも二人は改札を抜ける。
「京都駅って、めっちゃでかいなー!」
亮平が、駅構内を見渡して興奮気味に言うと、彼女は
「だよね!人いっぱいいるから余計大きく見える!」
「大阪駅とどっちが広いやろ?」
「んー?それは大阪駅でしょう。」と笑った。
二人は改札から右に曲がって烏丸口から駅構内を出ると、スマホを使いながら竹田街道へと歩を進める。
その間、他愛もない話ばかりが続いた。
まずは何といってもゴールデンウィーク中のどっさりと出される課題である。しかし、亮平の学校は、ゴールデンウィークの一週間前程から課題が生徒たちに配られ、生徒は有意義なゴールデンウィークを過ごすために休日が始まるころには課題を終わらせている生徒が多い。亮平もそのうちの一人だったが、レポートだけはまだ終わっていなかった。
「社会のさ、レポート書いた?」
亮平は訊く。
「ああ、AIによって職が奪われるか、みたいなやつ?」
「うん」
「半分くらいね」
「おお、すげー」
亮平は心底感心したような声を上げた。
「シンギュラリティーが来たら私たちどうなるんだろうね」
ふと悠衣がそんなことを言った。
シンギュラリティーというのは技術的特異点のことを言う言葉であり、AIなどの技術が、自ら人間より賢い知能を生み出すことが可能になる時を指している。
その中で、人工知能研究の権威であるレイ・カーツワイル博士は「2029年にAIが人並みの知能を備え、2045年に技術的特異点が来る」と提唱している。
しかし亮平はあまり興味がない様子である。
「どうなんだろ。でもそんなことなったら俺たちもう働くとこ見つかんなくなっちゃうかもな」
「まあそれはないんじゃない?一応、人間だからこそ出来る仕事だってあるわけだし。でもいいよねー。AIとか作る仕事って」
「そういう系、興味あるの?」
「んー、興味はあるけど私には無理だよ」
そう言って悠衣は辺りを見回した。
京都駅の周辺は、いかにも都会という感じで、外国人がスーツケースを持って歩いているのが多数見受けられる。というか、外国人しか歩いていない気もしてきた。何度も亮平は肩がぶつかり、バランスを崩しそうになる。
その人混みを必死で掻き分けると、信号が見え、壁の標識に竹田街道と書かれているのを見つけた。
亮平は、街道とは何なのか理解できなかった。何となくかっこいい名前であるという人に言うには恥ずかしい認識だけである。
というわけで、亮平の為、いやこれを読んでいる読者の為に少しだけたいして面白くもない小ネタを挟もう。しかし、知ってて損はないはずである。
街道とは、日本における古くから存在する陸上をつなぐ交通路・道路の事だ。
名称の大半が明治時代以降に道路行政上の必要性からつけられたものであり、同じ名称が別の複数の街道名称として用いられることがある。こうして得意げに話している筆者であるが、街道とは何か、を調べる前までは、司馬遼太郎が「街道をゆく」なんか書いてあったなー、というような認識だけであった。
話を戻そう。
緩やかな坂を上っていくと、眼前からは京都劇場が見える。
その大きな建物を横目で見つつ、彼女に「結構清水寺まで距離ありそうだけど本当に大丈夫?」と亮平が心配そうに訊いた。
「うん!大丈夫大丈夫!私、こういう街並み見るの好きだから!」と言った。
歩いて清水寺まで行こうと提案したのは亮平だが、やはり彼女を歩かせるのは間違いなんじゃないか、と思い始めてきた。
坂を上り終え、線路の上に立つ橋をくぐっていくと、新幹線が駅に停まっているのが
後ろに見える。しかし、ガードレールに視界を遮られて上手くは見えなかった。
段々と、車も、人の往来も少なくなっていった。橋を通ってまた坂を下ると、大通りに開ける。
「次どっち?」と亮平が聞くと、彼女はスマホを見ながら、「右!」と指さす。
そのまま500メートルほど直進して長い信号を渡ると、先ほどまでの都会感とは打って変わり、こじゃれた街並みが広がる。
しかし、そう思ったのも束の間、塩小路橋に差し掛かると、橋の下に「京都感」漂う
川がゆったりと流れていた。
「おおー!」と思わず亮平は声を上げた。
「下りてく?」
と言うと、亮平は頷き、
「そうしよ!」
二人はそのまま少し川沿いを歩く。川沿いの道は広く、ジョギングをしている人たちが
数多く見受けられる。
そして川の前の石畳の階段に二人は座った。潮の臭いが微かにする。しかし、潮風と川のザザー、と流れる音が、何とも気持ちよかった。
川の深さは比較的浅そうだ。亮平は、しばらく彼女がいることも忘れ、黄昏ていた。
彼女も静かにみている。亮平は、ふと独り言のように
「大和川と違ってめっちゃ綺麗だよな」
と地元の川の名前を言うと、
「だね。ゴミもまったくないし、気持ちいい」
彼女も同調する。
「そろそろ行こっか」
「うん」
二人は立ち上がり、悠然と流れる川を名残惜しそうに見ながら、橋へと戻っていった。
塩小路橋に別れを告げ、そしてまた歩いていくうちに民家が立ち並ぶ路地に入り、少し京都とは違うような雰囲気を感じた瞬間、大きな塀が視界に広がった。
「何だろ?これ」
亮平が興味津々に言い、塀を伝うように真っすぐ進むと、大きな門が前方に見えた。
「蓮華王院南大門・・・重要文化財だって!」
と立札を彼女が読み上げると、
「何かすごそうやな・・・入ってみる?」
そう言って二人は門をくぐり、境内に入る、と思いきや、今度は左に赤い塀が広がり、
右には民家と、寺が横並びに並んでいる。
100メートルほど左に見える赤い塀を見ながら参拝入り口と書かれた門から入ると、看板に「33間堂」と書かれていた。ここは、平安時代、院政で有名な後白河上皇が平清盛の資材協力のもと、作られたものである。一度焼失してしまってはいるが、それでも当時の名残は残っている。お堂の中の、1000体の千手観音像が黄金に輝いている姿は、まさに平清盛の栄華を示していると思われる。
その「有名」な堂の前で亮平は
「何か聞いたことあるような、ないような」
「私もそんな感じ」
彼女も苦笑すると、亮平は中に入ろうとして
「あ!お金いるやん!400円だって!」
と叫んだ。彼女もがっかりしたような顔を浮かべる。決して高い値段とは言えないが、
興味のない場所に入るお金としては少々二人にとっては高すぎた。
「やめとく?」
「帰りに時間あったら寄ろー」と亮平が言う。
二人は赤い塀の格子の隙間から見える中の風景を堪能しながら南大門を出た。
そして、再び路地を歩き進めると、今度は先ほどよりも大きな通りに出る。
車や市バスが多く行きかい、周りには隙間を与えず寺や神社が並んでいる。
「これぞ京都って感じやな」と亮平が少し興奮気味に話した。
京都国立博物館を横目で納めつつ、ふと上に表示されていた看板の表記を見ると、
「清水寺まで徒歩17分だって。」
「うん。マップにもそう出てる。」
と言い、亮平にスマホを見せた。すると亮平は、彼女が少し疲れたような顔をしているのに気づき、彼女を気遣うように言った。
「ホントに大丈夫?バス乗ろっか?」
「いーよいーよ!せっかくここまで来たんだし!」
と彼女は遠慮する。しかし、彼女の足取りは少し重い。だがその反面、どこか彼女は楽しそうに見える。
すると、前に大きな寺のようなものが見えてきた。
「こっから入るらしい」
彼女が言うと、石碑に大きく「大谷本廟」と記された前で亮平は立ち止まる。
「清水寺に繋がってるの?」
「さー、どうなんだろ」と彼女も首をかしげた。
とりあえず二人はマップに従いながら門へと続く坂を上り、総門をくぐる。
五条坂の大谷本廟は親鸞の墓所で、平安時代より鳥辺野と呼ばれた葬送の地である。
進むと、仏殿が見えてきた。その仏殿の手前を左に取り、それに沿って進む。
すると、左手に北門が見え、白い塀に沿って真っすぐ進んでいった。
花や線香を売っている店が立ち並んでいる。墓地でもあるのだろう。
そう思った時、本廟の塀が切れるところでたくさんの墓を見つける。
どれも古そうな墓ばかりで、その墓の後ろには山々が背景として綺麗に映っていた。
「うわ、お墓の量えぐ!」
「陸軍軍長のお墓って書いてるよ。あ、明治38年ってのもある!」
と彼女は墓に刻まれた名前を読み上げた。
「ここまで来たら怖いな。夜、化けて出そう」と亮平は無数に広がる墓を見て苦笑する。
「でも、こんなとこにお墓立てたら寂しくなさそうじゃない?私も死んだらここに
お墓立ててほしーわー」と彼女が冗談交じりに言った。
亮平はそれを聞いて、顔を少し強張らせ、まんざらでもないように言った。
「縁起でもないこと言わんといてよ」
「ごめんごめん」と彼女は笑う。
その後、少し塀の傍の石畳で休憩してまだまだ広がっていくであろう墓への険しい坂を上っていく。
上り終えると、亮平は手を膝に付けてふーと息を吐く。そして頭を上げると、遠くに赤い塔が見えた。
「あ!見えた!」
思わず大声を出してしまった。カラスの音だけが不気味に聞こえる墓地に亮平の声がこだました。亮平は慌てて口をつぐんだ。彼女は笑って、花店の看板をふと見ると、その下に清水寺まであと三分と言う案内書きを見つけた。
「やった!ホントにあとちょっと!」
彼女も歓喜の声を上げる。
亮平は何気に眼下を見下ろすと、その瞬間驚きで、大きく目を見開いた。百、いや千を超える墓が広がっている。
「おおー」
亮平は思わず言葉にもならないような声を上げる。彼女も亮平の視界の先に広がっている者に気付き、驚いた様子で下を見渡した。
「写真撮っちゃ流石に不謹慎かな?」
「ま、いいんじゃない?」
彼女は人目を気にしながらその風景を写真に収め、
「ママたちに見せよ!」
とあどけない笑みを浮かべた。亮平はそんな彼女の顔を微笑みながら見つめ、自分は心底彼女のことが好きだと感じた。
二人は寺に続く階段を上り、清水寺に京都駅から1時間かかって着いた。
そのときは、知る由もなかっただろう。
これが恐ろしく壮大な旅路の始まりになるということを。
清水寺に着くと、二人はそこから入り口である仁王門まで回った。すると、観光客がまばらだったのが一気に人の波で潤う。二人はその波を必死で掻き分けながら
「どうしよ。写真撮りたいよな」
亮平が言うと、彼女は辺りを見回して「誰かに頼む?」と訊いた。
すると、その会話を聞いていたのか、若い背の高い大学生と思われる男が一人歩み寄ってきて親切にも「撮ろうか?」と言ってくれた。
二人は男に礼を言い、彼女は男にスマホを渡すと、
「どうやって撮る?」
「この門背景にするんだったら階段ちょっと上ったくらいじゃない?」
「そだね」
二人は、他の観光客が写真を撮ろうと、自分たちが退くのを待っているのを見て慌てて配置につく。
「じゃ、いいー?」
男が訊くと、亮平は「お願いします!」と言い、彼女の手を握った。彼女は少し驚いたように亮平を見たが、嬉しそうに笑って片方の手でピースした。
「もう一枚」
男は言い、もう一回シャッターを押してくれた。二人は撮り終えると男の方に駆け寄り
「ありがとうございます!」
ともう一度男に礼を言った。すると男は笑い、
「良いカップルだね。」
と言ってスマホを彼女に渡し、去っていった。二人は男を見送る。
亮平は先ほどの男の笑みが、どこか不気味に感じた。なぜかは分からなかったが。
それが少し、胸の中に引っかかったが、仁王門に背を向け、清水寺の参道に立ち並んでいる土産物や飲食店を見て亮平はそんなことは忘れてしまった。
「あ!夕子!」と叫んだ。
「夕子って何?」
と怪訝そうに彼女が聞くと、亮平は意外そうに彼女の方を見返し、
「夕子知らないん?」
「うん。誰かの名前?」
「まあ、そんな感じ!ほら、あれ!」
彼女は亮平が指さした方向を見ると、彼女はあ!と亮平の言っていることを理解して
「生八つ橋の事ね!」
「ん?あ、生八つ橋って夕子のことなの?」
「知らなかったの?」
「いや、八つ橋ってあのピンク色のお饅頭みたいなんに葉っぱ巻いてるのだとずっと思ってから。どーりで友達に言っても知らなかったわけだ」と亮平は疑問が解けたようなすっきりとしたような表情を浮かべる。
そして少し恥ずかしそうにしながら言った。
「じゃ、これ帰りにお土産買ったりするとして先清水寺行こっか?」
そう言って二人は両脇で吽形と阿形の仁王像が眼力を飛ばす仁王門、別名「目隠しの門」
をくぐる。すると、すぐ左奥に見えるのが鐘楼である。
そして目の前に広がる階段をゆっくりと上っていくと、「清水の舞台」が二人を迎えた。
そして清水寺の代名詞とも呼べる高さ約31メートルの三重塔を拝む。「京都・東山のシンボル」と呼ばれるだけあって、鮮やかな朱塗りが見事に目に焼き付けられた。
そして右に行くと、西門が見え、そこから京都市街が一望できる。この西門は、勅使門とも言い、天皇の使いだけが通れた門らしい。
亮平はくぐってそこから写真を撮ろうとしたが、柵が設置されていては入れなかった。
仕方なく二人はそこからスマホで写真を撮った。
「すげー」
亮平は声を上げる。一面に広がる壮大な景色が二人を興奮させた。
ところで、先ほど仁王門の別名を「目隠しの門」と説明したが、その理由はそこから目隠しの門がなければ、ある場所を見下ろすことになってしまうからだ。そのある場所と言うのは「京都御所」である。舞台の造営にあたり、天皇の住まいである「御所」を見下ろしてしまうことがないようにと、この仁王門が建てられた。それが「目隠しの門」と呼ばれるようになった所以である。
二人は何枚か写真に収め、その後、経堂や、随求堂などを見て回った。
そして、本堂に入るために受付で400円を支払うと、券をもらい、係員にそれを見せ、
中へと入った。そして人混みで流されつつも、そこから清水寺眼下の景色をまた写真に撮り、本堂へと足を運ぶ。
本堂の奥には、十一面千手観音像が祀られているが、残念ながらその姿を拝むことはできない。
彼女は写真を何枚か撮り、先へ進んだ。亮平もそれに続く。
すると亮平は「お、おみくじある!」
「引いてみよ!」
そう言って二人は行列に並び、100円でそれを買って引いた。
そして亮平が先に紙を開けた。その瞬間、亮平は悲鳴ともおぼつかない声を上げる。
彼女は亮平のおみくじを覗き込むと、
「えー!大凶!」
亮平は頭に手を当て、悔しがった。
「嘘でしょー。」
彼女はその後、少し緊張気味に紙をゆっくりと開けると、「やった!大吉だって!」と亮平に喜びながら見せた。
亮平は素直にそれに喜び、「ま、悠衣が幸せになるんだったらいっか。」と笑った。
彼女は、少し照れつつ、「亮平も幸せにならなきゃ、私だけなる意味ないよ。」
亮平は何も言わない。しかし、胸の中でぽかぽかと、言葉には言い表せない温かいぬくもりを感じる。彼女にとってもそれは同じだろう。それは、二人にとってまさしく幸せな時間だった。
佐藤亮平と永野悠衣は、お互いの手をぎゅっと握りしめ、再び歩き出した。
すると、下の音羽の滝へと続くとてつもなく長い階段を見つける。
「順路はこっちだって。」
悠衣が言うと、亮平は階段から目を移し、表示書きに沿って歩いていく。
金色の仏像が祀られている阿弥陀堂を通ると、崖からせり出した、世に言う「清水の舞台」に二人は着いた。そこでは何人もの観光客が足を止め、熱心に写真を撮っている。
中には、その「舞台」から、愛を叫んでいる男もいた。
「コナンの舞台だね」
コナンというのは名探偵コナンという漫画の事である。
「そなの?」
亮平にとっては初耳だったらしい。
「うん。修学旅行の時にここで蘭が新一にキスするんだよ」
「あ、それ清水寺だったの?」
「そそ」
「おー」
亮平は感動したように舞台を眺めた。
地上からの高さは約12メートルもあり、懸け造と呼ばれる釘を一切ない手法で組上げられている。彼女はスマホを取り出し、
「写真撮ろー。」
二人は、観光客の列にもなっていない列に並んで、一番前に行って写真を撮った。
それから二人は他の観光客に流されるままに、ゆっくりと坂を下っていった。
そして、音羽の滝へと向かう。
「音羽の滝って何なん?」
亮平が訊くと、彼女が説明する。
「なんかパワースポットらしいよ。1000年以上も湧き続けてる滝なんだって」
「へー」
亮平は感慨深そうに言った。
そして、二人はついに、音羽の滝の前に来た。
その滝は、三筋に分かれて清水が落ち、それぞれにご利益がある。「恋愛」「学業」「健康」、この水を飲めば、願いが叶うというものだ。しかし、願いが叶うのは一種類の願いのみ。三種類すべて飲んでしまうことは「欲深い」とされ、御利益がなくなると言われているのだ。
と、悠衣がスマホを見ながら説明する。亮平は感動したように「すげーな。」と一言いい、
「じゃ、どれにしよ」と悩み始めた。
しかし彼女は何も言わずに右端から流れる滝をひしゃくに入れ、ごくりと飲み切った。
「何願ったの?」
亮平が訊くと、彼女は微笑した。
「亮平と、ずっと幸せにいられますように、って」
亮平はそれを聞いて、思わず彼女を抱きしめた。
彼女は、目を大きく開け、驚いた顔をする。通りかかった観光客が二人の方を見ているのが感じ取られた。しかし亮平は「ありがと」と一言いい、亮平は彼女の体を離した。
「悠衣のおかげで、いつも俺は頑張ることが出来た。悠衣がいるからこそ、俺はこうして生きてられる」
悠衣は照れ臭そうにしながらも笑って
「大げさだよ。そんなこと言ったら私だって色々亮平に助けられたよ?」
すると亮平は首を振った。
「悠衣を助けたことなんて一回もないよ。いっつも迷惑ばっかかけてんだから」
しかし彼女はそれを逆手に取って言った。
「なら、今、亮平と一緒にいられることが、最大の、私にとっての幸せ。」
そう言って、今度は悠衣が、滝の前で亮平の唇にキスをした。
亮平は呆気にとられた。
そして「今、俺らキスした?」と思わず訊いてしまった。
どこかで今のはよくドラマや漫画であるあるな妄想なのではないかと言う疑念があったからだ。それは違った。
「うん」
彼女が恥ずかしそうに顔を赤らめながら言った。
亮平は笑みを崩して幸せそうに三筋に分かれて流れる滝の方を見る。
そしてまた二人は手を繋ぎ、音羽の滝を去ろうと、出口の方へと歩いていく。
その瞬間、バン、という耳をつんざくような音が聞こえ、その直後にバシャッ、と水の中に何か大きなものが入ったような音がする。
二人は、驚いて後ろを振り返り、滝を見やる。
すると、若い男が水に浸かって、倒れていた。そして、その男の体から赤い液体が出て、透明な水と混ざりあっていた。
すぐに、人混みがその若い男を捉え、「大丈夫ですか!」と声をかけながら男を抱え上げようとする。亮平と彼女は、困惑して見つめあった。
「どうなってるの?」
「分からない。血を流して倒れてるみたいだけど」
そう言った途端、また耳をつんざくような音が2,3回聞こえ、今度は男を抱え上げようとしていた人たちがまた水の中へと倒れる。
即座に、側にいる者たちは状況を理解した。襲われているのだ、我々は。
そしてバン、という音は恐らく銃声なのだろう。
「逃げろ!」
亮平の傍にいた中年の男性がそう叫ぶ。
しかし、またバン、という音とともにその男性は倒れた。
「悠衣、逃げるぞ!」
亮平はまだ状況が呑み込めていなかったが、危険だと本能が警鐘を鳴らしていた。
一気に、観光客はパニックとなり、逃げだしていく。
亮平も彼女の腕を掴んで、出口へと急いだ。
しかし、その時、バンとまた銃声が鳴る。
そして亮平の手は悠衣の腕から離れた。亮平は慌てて「悠衣!」と叫び、悠衣の方へ駆け寄ろうとする。だが、逃げ惑う人混みに押されて動きが取れない。
何とか強引に押し進み、悠衣のもとへ辿り着くと、悠衣が足を押さえていた。
「大丈夫!?」
亮平の脳内はパニック状態に陥った。悠衣の足からは血が流れている。悠衣はかすれた
声で亮平に言った。
「は、早く逃げて・・・・・・」
亮平は声を荒げる。
「んなわけにはいかないだろ!早く行くぞ!」
亮平は彼女を起こし、肩をおぶって逃げようとする。しかし、悠衣は足を引きずってバランスでまた倒れてしまった。彼女の顔は白くなっている。
「悠衣!がんばれ!」
亮平が叫び、今度は彼女をお姫様抱っこで持ち上げ、走り去ろうとする。
どこに銃を撃った者がいるのか分からない。もしかすると、人混みに紛れたのかもしれない。上を見上げると、騒ぎに気付いてない観光客が呑気に写真を撮っている。
しかし、その瞬間、「清水の舞台」と呼ばれた奥の院は大きな爆発とともに、炎上した。
煙に包まれ、観光客はもう見えない。丁度、改修工事がされている最中だったので、「舞台」の下の鉄骨が一気に亮平たちの方に向かって落ちていく。
亮平は必死にそれを避けようとする。しかし、彼女を抱きかかえていて、上手くバランスが取れない。とうとう途中でこけてしまった。
亮平は起き上がり、はあはあ、と荒々しく呼吸しながら必死で彼女をまた抱きかかえようとする。
すると、落ちた鉄骨の先、音羽の滝を背景に一人のヘルメットを被った人間が一人いるのを亮平は見た。その者は、黒いコートを羽織り、じっと亮平たちの方を見ている。その者の手には、拳銃が握りしめられていた。
亮平の頭は真っ白になり、上手く体が動かない。
その時、彼女が足を押さえながら立ち上がり、真っ白な顔で「に、逃げないと!」と亮平の袖を引っ張る。
亮平はその言葉で我に返り、「あ、ああ!」と後ろを振り返りながら、彼女の肩を持って走る。
ヘルメットを被った謎の者は、銃を撃たずに追ってくる。
二人は必死に逃げて行った。観光客はもう一人も見当たらない。しかし、遠くで悲鳴が
聞こえてくる。出口を抜ければまた別の銃を持った者がいるのかもしれない。
だが、人混みの中に紛れ込むことはできる。
そしてやっとのことで出口に着くと、人が溢れかえり、二人を見た警備員らしき男たちが走り寄ってきた。
「大丈夫か!」と声をかけてくるも、人々の悲鳴のせいで、聞き取れない。
その時、また大きな爆発音がする。今度も上からだ。見上げると、三重塔が炎をまき上げ、瓦が落ちてくる。そしてそれと同時に、仁王門が爆発し、恐ろしく大きな門が倒れていくのが見える。そしてそこら中で門や堂を中心に爆発音がする。
亮平ははっ、と後ろを振り返ると、あのヘルメットの不審者が立っていた。
亮平は再び彼女と一緒に走る。彼女の息遣いは荒い。亮平の肩におぶさっているとはいえ、歩けているのが不思議なくらいである。
また銃声が2発聞こえ、人が倒れる音がする。恐らくあの警備員だろう。亮平は唇をかみしめながら必死で走る。
しかし、池に差し掛かった時、一発の銃声が耳元で鳴り、隣にいた彼女が、亮平の肩を離れ、倒れた。
亮平は慌てて彼女を持ち上げようとする。
が、背中に触れたとき、生ぬるいものが手に触れた。
亮平は手を見ると、血だった。亮平は悠衣の背中を持ち上げ「悠衣!」と叫ぶ。
ヘルメットの不審者はもうどこかへ消えていた。
「おい!悠衣!聞こえてるか!大丈夫だぞ!」
と必死に声をかける。悠衣は目を半開きに開け、弱弱しい声で呟いた。
「もう・・・・・・だ・・・・・・め・・・・・・か・・・・・・も・・・・・・」
かろうじて聞き取れた亮平は叫んだ。
「そんなことないって!助かるから!」
そう言っていくうちに亮平の目に涙が溢れていった。
「大丈夫だって・・・・・・絶対・・・・・・」
しかし、彼女は震えながら手を亮平の方に持ち上げる。
亮平は、その小さな手を握りしめた。その手は、少し冷たくなっていた。
「わ・・・・・・わたし・・・・・・し・・・・・・ぬ・・・・・・のか・・・・・・な・・・・・・」
亮平は涙ながらに首を大きく横に振る。
「んなわけないって!それに、まだまだ一緒にしたいこといっぱいあるじゃん!」
彼女は亮平の握りしめている手を離し、亮平の瞼の下を触れた。
そして亮平の涙を弱弱しく手でふき取った。
「あ・・・・・・愛し・・・・・・て・・・・・・る・・・・・・りょ、亮平・・・・・・の・・・・・・そばで・・・・・・し、死ねて・・・・・・良かった」
そう話していくうちに彼女の声は段々と小さくなっていく。
そして、最後に彼女は小さく笑みを浮かべ、亮平の涙がつたっていた彼女の手は落ち、彼女はゆっくりと眠るように目を閉じた。
亮平は泣き叫ぶ。大粒の涙を流し、悠衣を抱きかかえながら、ひたすら泣いた。
彼女は、死んだ。
二人の上には「京都のシンボル」と呼ばれた清水寺の顔の三重塔が、優雅だった面影とはかけ離れ、崩れ落ちていた。煙の臭いが辺り一面に漂っている。
彼女だけではない。この爆発、あの銃で、何人もの人が死んでいったのだろうか。
世界に誇る日本の遺産は、戦後日本史上最大のテロ事件の死者とともに、崩壊した。
そして、運命が、人を呼び、苦しみを味あわせ、また、時を、前進させる。
まるで、人の苦しみをあざ笑うかのように、時間だけが、無情に進んでいった。
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